第18話 海の巫女


 朝焼けにはまだ早い時間。

 そっと自分の部屋を抜け出したアーシェが、台所の前を通ろうとしたら、少し背の低い少年がひょいと顔をのぞかせた。

 

「あ、姉さん。おはよう」

「トーイ、おはよう……ってまさか、今まで寝ていなかったの?」

「ううん、さっきまで仮眠を取ったところ。だけど遅くまで本を読んでいたせいか少しおなかが空いちゃってさ。こっそり食べられるものを探してたんだ」


 アーシェの弟であるトーイは自発的に昼は商会の下っ端として働き、合間を縫って跡取りとしての勉学に励んでいた。

 父の仕事を継ぎたいと頑張る姿は父もアーシェも頼もしいと思っているが、少し心配だった。


「そう、あんまり無理しないようにね」


アーシェの弟であるトーイは、ともすれば気弱そうに見える柔和な面立ちで明るく笑った。


「安心して。僕だって、姉さんみたいに好きだからやっているんだ」

「トーイ……」

「それに、潜り手みたいに海の奥底に潜るような危険は付きまとわないし、多少無理したってすぐには死なないから大丈夫だよ」

「い、言うようになったわね」

「先輩たちに鍛えられてるからね」


 可愛いかったトーイが少々、ふてぶてしい事を言うようになったのは、喜んでいいのか悪いのか。

 一応、自分の限界はわきまえているんだけど……と、アーシェがぶつぶつ呟いていると、一旦引っ込んでいたトーイが戻ってきた。


「はい、姉さん。適当に食べられそうなものを挟んだだけだけど、持って行って」

 

 差し出された紙に包まれたサンドイッチを受け取ったアーシェは、弟のやさしさに顔を綻ばせた。


「ありがとう、トーイ、行ってきます!」

「クラーケンさんによろしく」


 手を振るトーイに見送られ、アーシェは薄闇の中を港へむけて駆けだしたのだった。




「みんな、おはようっ」

「アーシェが来たぞ、出航だ!」


 船で待ち構えていた仲間達に快活に声をかけて飛び乗れば、船は滑る様に沖へ乗り出した。


「おう、アーシェ、今日はクラーケンのところへ行くのか?」

「ええ。次に海底都市に入れる日にちを教えて欲しいって言われたから。ほんと、お城の人は熱心よねえ」

「まあなあ。知るってのが仕事って奴らなんだろうしな。クラーケンの見ている中でやるなんざ、ふつうの神経じゃできねえだろう」


 船員の一人が大げさにふるえるのに、アーシェはちょっと片眉を上げてみせた。


「クラーケンは紳士的なヒトよ。よっぽどのことがない限り傷つけたりしないし、触れればちゃんと話もできるんだから」

「あのどでかいもんに触れるってのがなあ。気味悪くねえか」


 アーシェが言い返す前に、口を開いたのはトキだった。


「あたしが話をした限りでは、見た目で判断するあんたよりはイイ男だったよ」

「なんだよそれ、見た目だって大事だろうが!」

「深海魚みたいな顔をしているあんたが言えたもんじゃないだろう? それにね。あの大きさで海流に呑まれないようにさりげなくかばう気遣いとかまねできるかい?」

「なんだと!」


 ぐうの音も出ない船員とケラケラと笑ってみせるトキのやりとりを、アーシェはなんだかくすぐったい気持ちで眺めた。


 クラーケンが悪魔鯨を倒したあと、王子はクラーケンに討伐の証明としてもらった悪魔鯨の一部をもって城へ帰った。

 アーシェには城での経緯をほとんど教えられていない。それでも、ずいぶんな騒ぎになって、一時期はもう一度軍隊を差し向けるということにもなったらしい。

 だけど、王子の言ったとおり、何もしない、というところに落ち着いた。

 クラーケンがいてもいなくても、海生石が取れることは変わらないし、この街の安全はクラーケンが守ってくれるのだから放っておいた方が得だ。


 そういうわけで、アーシェたちは日常に戻ったのだが、クラーケンが悪魔鯨を退けてくれた、という話が街中の人に知れ渡ったことで、街の雰囲気は少し変わった。

 未だに恐れる者もいたし、本当の話か疑う人もいたけれど、クラーケンは海の守り神とありがたがる人が大半になった。

 船乗りや潜り手たちでは顕著で、特にトキをはじめとする潜り手たちには、一度話をさせてもらえないかと相談されて、アーシェも驚いたものだ。


 それでクラーケンにお願いして甲板にまで触腕を出張してもらったときは皆顔をこわばらせていたっけ、とアーシェが思い出し笑いをしていると、別の船員に話しかけられた。


「なあ、俺またあんたについて、聞かれっちまったよ」

「それ、あたしも! クラーケンを鎮めた奇跡の娘に是非会いたいなんて。文まで押しつけようとしてきたわ。あたしのじゃないから突っ返したけどね」


 仲間の娘にまで言われてアーシェは申し訳ない気分になって眉を寄せた。


「ごめんね。クラーケンに自分の船が安全に航海できるように、私を経由して頼みたいんだろうけど。私も知らない人からやたらめったら宝石とか珍しい物を押しつけてきて困ってるのよ」


 都では、なぜかアーシェの願いにクラーケンが応えて悪魔鯨を倒したことになっているらしく、この街の聖女伝説と相まってアーシェの存在は「クラーケンと心を通わせ改心させた、奇跡の聖女」と広まっているらしいのだ。

 そのせいで、街の港に立ち寄る船主からは続々と寄進物なる物が届き、お目通りを願いたいなどと次から次へと言われて辟易している。

 まあ、聖女の神殿は観光地としてにぎわい、活気づいているとはいえ、都から貴族までやって来たときは、この人達どれだけ暇なのかしらとあきれたものだ。

 


「そういえばこの間、クラーケンを見たいからつれてこいって言ってきた馬鹿貴族はどうしたんだい?」

「ああ、あの人なら、一番時化ているときに船出して気絶するまでおろさなかったらもう何も言ってこなかったわ」


 かなり高位の貴族で、アーシェがただの商会の娘だと侮り、しきりに自分の宿へ誘ってきたものだけれど、船から降りると逃げるように都へ去っていったから、もう二度と来ることはないだろう。

 宿で働いている知り合いによると、その貴族は「青紫の……銀の目玉……」とうわごとをつぶやきながら使用人に担がれて馬車に乗せられていったというから、多少は気がかりだけれども。 


「あんたも大変だねえ」


 アーシェは、トキの同情の視線に苦笑を返した。


「でもこの間、正式にクラーケンとのつなぎ役として国に認めてもらえたから、もうちょっとで収まると思うわ」

「たしか『海の巫女』だっけ。ずいぶんな名前をもらったじゃないかい」

「ちょっと恥ずかしいのだけどね。魔王退治にも貢献した魔女さんや王子からの提案だったし、この称号がついてからは縁談がほとんど来なくなって万々歳だわ」


 そのために都へ行って、ひらひらした巫女装束なるものまで着て仰々しい式典に参加したのだ。

 父様はちょっと寂しそうだったけど、アーシェにとっては良いことずくめだ。

 にこにこと言えば、トキをはじめとする潜り手仲間は妙な顔をしていた。


「それって……虫除けだよねえ」

「王子様、あきらめてないみたいね」

「かわいそうな気がするけど、しょうがないね」


 こそこそと言い合う彼女たちの声は波音に遮られてよく聞こえなかった。

 アーシェが首を傾げているうちに船が目的地にたどり着いた。


「おおいおまえ達、準備しろ!」


 朝焼けの輝きが水平線から上る中、潜り手たちとともに、アーシェは弾む心のまま起動詩を唱え、一番に準備を終える。


「アーシェ、一刻で帰ってこい。あんまり大ダコの旦那んとこに長居すんじゃねえぞ」

「はあい」


 船長から釘をさされたアーシェは返事をして、海に飛び込んだ。


 差し込む朝日を追うように、一気に潜行する。

 薄青から、青へ、藍へ、そして紺へ、下へ下へ行くにつれて海生石からからこぼれる光が優るようになり、冷えていく水は、魔法に守られていてもアーシェからすこしずつ体力を奪っていく。

 

 でもあのヒトに会えると思えば、苦にもならない。

 海底にたどり着き、水平にぐんぐん加速すれば岩肌が消え、足下に広がるのは海底都市だ。

 アーシェが方向転換する前に、海底都市の脇から無数の青紫の触手とともに現れた、大きな体躯にアーシェは顔をほころばせた。


「クラーケン! 元気だった?」

《君も相変わらずだな、アーシェ》


 伸びてきた触手に触れて話しかければ、本体の銀の瞳がどことなくあきらめた色で応じてくれた。




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