第16話 悪魔鯨


 激しい海流から守られるように包み込まれると、頭にするりと触腕が回され、優しく滑った。


《泣くな、アーシェ》


 クラーケンの困ったような思念に、アーシェは嗚咽をこらえながら言った。


「最近っ、見たっていう人いなかったからっ、死んじゃったのかと思ったっ」

《本体の損傷のために、動体エネルギーの補給に専念していたのだよ》

「損傷って……!」


 はっとアーシェが振り返れば、どことなく漂う触腕の数が少ない。

 そのいくつかに明らかに咬みちぎられた触腕があるのに気づき、アーシェはぎゅっと胸が引き絞られた心地になる。


「大丈夫なのっ?」

《傷はふさがっているから問題ない。……しつこいな》


 珍しくクラーケンがいらだちを露わにしたかと思うと、何本もの触腕が鋭く振り抜かれる。

 こちらに牙をむいて襲いかかってこようとした悪魔鯨にからみつき、締め上げた。

 だが、悪魔鯨は吸盤もものともせずその巨体を激しくくねらせ、アーシェの見ている前でクラーケンの触腕を咬みちぎった。


「クラーケン!!」


 アーシェは悲鳴を上げるが、クラーケンの思念はひどく平静だった。


《問題ない。痛覚は切っている。だが敵である我が居るとはいえ、なぜこのトロールフィスクは怒り狂っているのだ》

「えと、たぶん、私があいつの目玉を蹴り飛ばしたから……」


 消え入りそうな声で言えば、アーシェをくるむ触腕がふるえた。

 笑っているのだ。


《そうか、君ほどの小さいものであれば、トロールフィスクも反応できないか。それにしても蹴り飛ばすとは、相変わらず怖いもの知らずだな》

「それは咄嗟のことで……わ、笑わなくていいじゃないっ!!」


 アーシェが声を荒げても応えた風はなく、クラーケンは触腕でアーシェをくるみ込んだ。


《どうやら船が近づいてきているようだ。受け渡しができるまでは、我のそばが一番安全だと判断する》


 つれてこられたのは、クラーケンの大きな本体のそばだった。

 ヒレとヒレの間に隠すようにおろされたアーシェは、青紫の表皮にしがみついた。

 未だに触腕が回されていたが、これから起きるだろうことにはその必要があると思った。


《魔法はどれほど維持できる?》

「一刻は大丈夫!」


 海生石を握って応じれば、視界のはしに見えたクラーケンの銀の瞳が細められた。


《了解した。これからかなり荒れる。しっかりしがみついていなさい》

「うんっ!」


 クラーケンがそばにいるのなら、恐ろしいことなど何もない。

 アーシェは手近な棘を握り込むと、大きな体にぐっと力が込められるのが感じられた。

 

 あれほど恐ろしかった悪魔鯨の咆哮も、クラーケンのそばにいればただのうるさい騒音だ。

 しっかりくるまれているし遠かったから、何が起きているかはよくわからない。

 それでも時折身体にかかる重みや、触腕の隙間から見える光景で、クラーケンが悪魔鯨と争っていることは知れた。

 アーシェが邪魔にならないよう、海生石としがみつくことに集中していると、クラーケンからの思念が聞こえてきた。


《アーシェ。我は立ち入りを禁ずると言った。なぜここにいる》


 静かな中にも怒気をにじませるクラーケンに、アーシェも負けじと言い返した。


「陸では、船が行方不明になる原因があなたってことになってるの。私は、あなたじゃなくて悪魔鯨のせいだって証明するためにきたのよ。クラーケン、あなたが悪魔鯨から船を助けてくれてたんでしょう。私が悪魔鯨におそわれないように、あんな忠告をしてくれたんでしょう?」

《……我は、都市付近を縄張りにしようとするトロールフィスクの排除に、人の船が邪魔になると判断したまでだ。救助は結果論なのだよ。事実、船のすべてを救ったわけではない》

「それでもありがとう」


 だが、アーシェはまなじりをつり上げて抗議する。


「でも私には説明して欲しかった! もう来るなって忠告、私すごく傷ついたし、あなたの言葉が全然足りないから、遠回りしちゃったじゃないっ」

《本当に、来なくていいと思っていたからな》

「嫌よ。私はこれからもあなたに会いにくるわ。ご先祖様や街の人が忘れたせいでとぎれた分も含めて」

《……まだ、伝える民がいたのか》


 かすかな驚きをにじませるクラーケンに、アーシェは触腕を握る手に力を込めた。


「ごめんなさい。人は忘れてても、クラーケンは覚えていたのに。何にも知らずに会いに行ってごめんなさい。それなのに知らない潜り手達を助けてくれてありがとう」

《それが、我の存在意義だ》


 不意に、ぐんと、身体に負荷がかかり、アーシェをくるんだ触腕が海上に出た。

 海生石の光が消え、アーシェが大きく呼吸をしていると、足下に何艘もの船が見えた。

 その中の一隻に、白装束の娘達が見えた。トキ達はしっかりと役目を果たしたのだ。

 触腕は、一番近くに居たふての甲板へゆっくりとアーシェをおろした。


《きみのおかげで、奴を捕捉することができた。我は、これよりトロールフィスクを討伐する。船団に離れるように言いなさい》

「クラーケン!」


 船員達が遠巻きにする中、離れていこうとする青紫の触腕に抱きついたアーシェは、ありったけの想いを込めて叫んだ。


「あんなでっかいだけの鯨なんか、ぎったんぎったんのぎっちょんぎっちょんにして丸飲みしちゃえ!!」

《我には食事は必要ないのだが……》

「あと、やっつけた後は絶対会いに来てくれなきゃ嫌よ! だめだったら、私、クラーケンを見つけるまで潜るからね!」

《全く君は……わかった。約そう》


 さざ波のような苦笑の気配を残して、クラーケンの触腕は海に没する。

 アーシェはそれを見送るや否や、驚くほど静かな船員達を振り返って叫んだ。


「みんな、クラーケンが悪魔鯨を倒してくれるわ! 巻き込まれたくなかったら早くこの場を離れて!」

「……てめえら、ほかの船にも伝えろ!!」


 息を吹き返したかのようにばたばたと走り回る船員の間をすり抜けて、アーシェは船の柵へ走り寄り、じっと目を凝らした。

 あの巨体に勝てるとするならばクラーケンだけだ。アーシェは、自分が邪魔になるだけなのを十分わかっていた。だから見えなくなるまではせめて全てを見届けようと、アーシェはぐっと欄干を握る手に力を込める。

 間もなく海面が大きく盛り上がり、黒々とした巨大な悪魔鯨が飛び出してきた。

 まさに島のような巨体を覆うようにからみついているのは、青紫のクラーケンだ。

 悪魔鯨はもだえるように巨体をくねらせ、クラーケンを振り払おうとする。

 そのたびに大きな波と水しぶきがたち、離れているはずの船をぐらりぐらりと揺らした。


 悪魔鯨は海中に没しながらも身体を大きくはねさせて、クラーケンを海面にたたきつける。

 それでもはなさず締め上げ続けたクラーケンだったが、悪魔鯨は首を振って、クラーケンの本体に噛みついた。

 青紫の触腕がゆるむのに、悪魔鯨はすかさず戒めからぬけだそうとする。

 銀の瞳が苦しげにすがめられた気がして、アーシェは気がつけば叫んでいた。


「クラーケン、負けるなっ!!」


 そのとき、どんっと激しい爆発音と共に、近くの船から黒い大砲が放たれクラーケンがいる方向に飛んでいく。

 理解されていなかったのか、と瞬間的に怒りがこみ上げたアーシェだったが、船員達が口々に復誦したそれに、驚いた。


「大砲よーい! 目標、前方の悪魔鯨!!」

「よくねらえっクラーケンには当てるんじゃねえぞ!!」


 また腹の奥底に響く爆発音とともに、大砲の弾が飛んでいった。

 いくつかは海面に消えていったが、半分は悪魔鯨の黒い体表に命中するのが見える。

 その中の一つは、今まさにクラーケンに噛みつこうとしていた悪魔鯨の口腔に吸い込まれて炸裂し、悪魔鯨は初めて悲鳴をあげる。

 すかさず襲いかかったクラーケンは再び悪魔鯨を締め上げた。


 のたうち回る悪魔鯨を押さえ込むと、クラーケンは自由な触腕で海面を叩き、飛沫をたてながら、海中へ没していった。


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