第15話 訪れしは



 空は晴れて、風は追い風。帆には十分な風がはらみ、海生石の動力も、船員の意気も申し分ない。

 次第に海面が荒れてくると、マストの上で監視していた船員が声を上げた。


「見えたぞー! 前方に霧だ!」


 アーシェが舳先にへばりつけば、波の間際に薄く霧が立ち込めている部分が見えた。

 周辺にもすでに靄が忍び寄ってきている。 


「なんだかよ、この間よりも、霧が出るのが早くねえか?」

「おう、それに、波が出るのも早いような……」


 アーシェが船員たちが口々に言うのを聞いていると、王子が近づいてきた。


「これ以上近づけば、クラーケンに見つかる可能性がある。後は頼む」

「任せて」


 王子の心配そうな顔にアーシェはそれに笑みの一つで応えると、胸から下げた海生石を握った。

 それに合わせるように偵察に選ばれた潜り手たちも起動詩を唱え出す。


「”我海より陸に上がりし一族 しかし今一度海に抱かれることを望むもの也”」


 淡い燐光に覆われたアーシェたちは、軽やかに船から海へ飛び降りていった。



 表面は波が高いが、海中はまだましだった。

 着水の衝撃のあと、海流に抱かれたアーシェは、ほかの潜り手とともに一気に霧の方向へ加速する。

 このまままっすぐ進めば、必ず何かがあるはずだ。


 アーシェはどきどきと脈打つ胸を平静に、水をかき分ける海生石の燐光を引いて海の中を飛んでいくと、横に見知った潜り手が並んだ。


「アーシェ、本当に船がいなくなる原因が、クラーケンじゃなくて、悪魔鯨とかいう奴だと思っているのかい?」


 偵察に加わっていたトキに不意に問われたが、アーシェは迷わずうなずいた。


「ええ。たくさん調べたもの。これは悪魔鯨の出没する特徴によく似ているわ。それに、私はクラーケンが無実だって信じてる」

「……正直ね。あんたがそう言いだしてくれて、ほっとしたんだよ」


 そんなこと言われて、アーシェは思わず傍らを泳ぐトキを振り返った。

 困ったような、喜んでいいのかわからない、複雑な苦笑を浮かべていた。 


「あたしも一度、クラーケンにあったことがあってね。あんたぐらいの年の時さ。海生石を探すのに夢中になって仲間とはぐれっちまってね。海獣に見つかって襲われた。そのときに助けてくれたんだよ。青紫の触手は気味悪かったけど、恩人なんだ」

「じつは、あたしも……」

「わたしも……」


 するとほかの潜り手たちからもぽつり、ぽつりと同じような声が挙がった。

 この場にいる娘たち全員がクラーケンに会ったことがあるという事実に、アーシェは信じられない気分でいるとトキが励ますように言った。


「だからさ、ここにいる皆はクラーケンが船を食うなんてこと信じられないから、立候補したんだよ。あんた一人で背負い込む必要はないんだ」


 ずっと不思議だった。こんな危険な任務をどうして引き受けてくれたのか。

 そうか、クラーケンを信じてくれるヒトは、こんなにいたのか。


 こみ上げてきたものは海に紛れて見えないだろう。

 鼻の奥がつんと痛むのを感じながら、アーシェは笑顔を浮かべた。


「ありがとう」

「礼を言われることでもないよ。クラーケンに恋をするあんたほど、思い入れがあったわけでもないからね」

「ふえっ!?」


 トキにそんな風に揶揄されて、アーシェは思わず体勢を崩した。

 ほかの娘も好奇の視線でにやにや笑う。


「だって、海に行くときの顔を見れば一目瞭然だよ。いつもいつも、恋人に会いに行けるのがうれしくてたまらないって顔をしていたからね」

「そん、なに、わかりやすかった?」


 どうせわからないだろうと高をくくっていたので隠す気はいっさいなかったが、アーシェは改めて指摘されて、顔に熱が集まるのがわかる。

 そういえば、父に指摘されたのも船長に聞いたからだと言っていたか。


「わかりやすいなんてもんじゃないね。一年前ぐらいだっけ? あんたの美貌によりいっそう磨きがかかったから、町中に恋をしているって噂が広まって、相手は誰だって町中の野郎どもが騒いでいたくらいさ」


 まったく知らなかったアーシェはひたすら赤くなるばかりだ。

 こう、恋をしていたのが知られていたと言うだけなのに、無性に恥ずかしい。


「まあねえ、正直どこに惚れる要素があるのかがわからないけどねえ。見た目蛸だし、ぬるぬるしてるし、青紫色で気色悪いだろう?」

「その青紫色がいいんじゃない! それにね、銀の瞳はそりゃあ優しいの。会いに行く度にあきれさせちゃうばかりだけど、相手をしてくれる素敵なヒトなんだから!」

「あんた、本気で惚れてるんだねえ」


 あきれた風なトキに、取り戻した意気もしぼみ、アーシェは気恥ずかしさに黙り込むしかない。


「まあね、人の趣味はそれぞれだから、あたしたちがとやかく言う気はないさ。……さて、そろそろだ」


 不意に変わったトキの声のトーンに、アーシェたちは表情を一気に引き締め無言になる。

 そうして、トキの指示で二人一組になり散開した。


 万が一襲われた場合に、一人でも情報を持ち帰れるように打ち合わせていた行動だった。

 ほかの二組は側面から回り、アーシェはトキと組み、いっそう静かに海中を進んでいく。

 霧で日差しが遮られているせいか海中は薄暗く、海生石のほのかな燐光が一層際立つ。

 途中、その冴えた光に照らされた、魚の群れとすれ違った。


「浅瀬の魚か……?」


 もちろん、こんな沖合にいるはずのない魚影をみる度に、傍らを泳ぐトキの顔は不安さを増していく。

 もしかしたら、本当にただの島なのかもしれないと思い始めているのだろう。

 やっぱりクラーケンはすでに自分たちを助けてくれた知性ある生き物ではなく、船を襲う化け物なのではないかと。

 じきに黒くごつごつした岩礁に突き当たり、足がつけるほどの浅瀬にたどり着いた。


 もう泳いでいる方がばからしいほどの浅瀬に、トキとアーシェが海面から顔を上げれば、霧で視界が悪いものの、そこは植物に覆われた陸地だった。

 降り立ったの場所もどう見てもただの岩礁で、遠くを見れば塩分に強い木々や植物が生えている。

 トキは不安と焦りに満ちた顔でアーシェを見た。


「アーシェ。これはただの島だよ。早く王子様たちに知らせてやんなきゃ」

「トキさん、もう一度潜ろう」

「アーシェ、あたしだって残念だけど……」

「まだ、下を確認してないわ」


 アーシェが青の瞳でひたりと見つめれば、トキが息をのむのが聞こえる。

 そうしてアーシェがまた潜り出せば、無言で従ってくれた。


 海草やイソギンチャク、浅瀬の魚を無視し、アーシェはひたすら黒い岩礁伝いに潜っていく。

 あるはずだ。絶対。

 静かな確信を持って、緩やかに下っていく海底をゆく。

 すると、奇妙なものが見えた。


「なんだい、あの平たいものは……? まさか」

「尾ビレ、だよ」


 眼前に広がっているのは、海底にあるには不自然なまでに薄く切り立った岩のようなもの。

 その形は、アーシェたちも良く知っているイルカや鯨の尾ビレだった。

 全体が岩礁のようにごつごつとしたその尾ビレまで距離があるというのに、辛うじて視界に納めることができるほど巨大だった。

 さらに潜ってみれば、その下に続くはずの海底はなく、深閑とした海が広がっている。


「決まりね。これは島じゃないわ。馬鹿でかい鯨よ」

「ああ。でも、こんな相手を追い払えるのかい……?」


 共にぐぐっと底を一周してきたトキの顔色は、視界の悪い海の中でもわかるほど悪い。


 なにせ、アーシェたちが一回りするのにかなりの時間がかかったのだ。

 おそらくアーシェたちの住む街ほどの大きさはあるその鯨相手に、一体どうやって戦うというのか。


「とにかく、戻ろう。殿下に知らせなきゃ」


 アーシェが言ったそのとき、不意に近くにあった悪魔鯨の体が微動をはじめた。

 何事かとアーシェたちが慌てて離れると、側面から観察をしていた一組が遠くから燐光を引いて泳いでくるのがみえた。


「トキさん、アーシェっ! む、向こうに、大きな洞窟みたいなのがあって、潮の流れがあるから何だろうと思って岩礁伝いにいったら、途中で船みたいにでっかい真っ赤な目玉が開いたの! このでっかいやつ、生き物よ!」


 とたん、尾ビレから生み出された激しい海流に、アーシェたちはたちまち呑まれた。

 足と腕をくねらせ、何とかその潮流から逃れたアーシェとトキだったが、もう一組の片割れが体勢を崩して流されかける。


「カルナ!」


 相棒の娘が悲鳴のように呼ぶのを聞きながら、アーシェはとっさに流されたた娘の手を握り、一瞬だけ、海生石に思いっきり魔力を込める。


 まばゆい燐光が散る。

 瞬きの間だけ爆発的な加速を手に入れたアーシェは、捕まえたカルナを立ち位置を入れ替えるように振り回した。


 複雑な潮流の中でも飛んでいったカルナは無事相棒の娘に受け止められるが、今度はアーシェが流されていく。

 焦った顔をするトキに、アーシェは叫んだ。


「もしかしたら、皆の船に気づいたのかもしれない! 早く知らせてあげて! クラーケンじゃなくて鯨だったって!」

「あんたは……!」

「私は大丈夫だからっ!」


 トキが身を翻すのが見えたところで、アーシェは海流に流されて錐揉みした。

 海生石に負荷をかけたせいで、一時的に魔法が弱まり、いつものように泳ぐことができない。

 息を保てることだけは幸いだ、とアーシェは嵐のように渦巻く流れに小枝のように翻弄された。

 上か下かもわからない。


 だがふいに海流がゆるんで目を開けると、一面に広がるのは血のようにザクロのように爛々と輝く赤いもの。

 とっさにその赤い部分を蹴って、回復していた海生石の力を全力で使って逃げた。


 燐光の引いてぐんぐん加速していくアーシェの後ろで、低く轟くような咆哮が響いた。

 地響きに似て圧倒されるようなそれに、全身が震える。

 悪魔鯨の目を蹴り飛ばしたアーシェは歯を食いしばって恐怖に絶え、ひたすら加速した。


 トキたちが船を引き連れて戻るまで、逃げ切れればそれでいい。

 あれだけ大きいのなら、きっと動きは鈍いはず。

 泳ぐ早さならば、アーシェは誰にも負ける気がしなかった。


 だが、次の瞬間、強烈に背後に引っ張られるような海流が生まれ、アーシェの速度はガクリと落ちた。


 背後を見れば、悪魔鯨の大きな口が開けられ、海水を吸い込んでいた。

 上と下にはアーシェよりも大きく鋭い牙がずらりと並び、深海のように暗く深い世界が広がっている。

 懸命に逃れようとしたアーシェだったが、抵抗なぞものともせず悪魔鯨の奈落のような口腔との距離は縮まっていく。


 いやだ、いやだ、いやだ!


 アーシェの心はもがく。

 もう一度会わなきゃいけない。

 あの銀の瞳の怪物に。

 それまでは死ねないのだ。


 アーシェが唇をかみしめて、海生石を握る手に力を込め燐光を強める。

 だが、そのような抵抗も悪魔鯨の前ではむなしく、アーシェは飲み込まれていく。

 手を伸ばしても、揺らめく海面は遠い。


 燐光が弱まる。こぽりと最後の泡がむなしく散り。


 アーシェの視界いっぱいを青紫が覆った。

 瞬間、身体がさらわれ、いとも簡単に悪魔鯨が遠のいていく。

 巻き付いた触腕は、棘とヒレに覆われていてもアーシェを傷つけることはない。


 《少し耐えろ》


 伝わってきた短い思念に、アーシェは無我夢中で青紫の触腕に抱きついた。


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