第11話 海無き日々



 どうやって帰ったかは覚えていない。

 だが、いつの間にかたどり着いていた家で父の憔悴した顔に迎えられたときは、ずくりと胸が痛んだ。


「しばらく家にいなさい。海に潜ることはしばらくできないのだから」

「これから、どうするの」

「クラーケンを倒すか、封印する手だてを考えることになるだろう。海生石は、この街ひいてはこの国の重要な資源だ。王子が国を挙げて対策に乗り出すと約束してくださった」


 その言葉に、アーシェは痛いような、悲しいような気分で目を閉じる。

 王子は船を出すことを渋る船主達に、身分を明かし、アーシェ達を探すために船を率いたらしい。

 そのこともあって街中は大騒ぎになっていた。

 今まで存在は知ってたものの、節度さえ守れば害がなかったクラーケンが実際の脅威として迫っているというのだ。

 ただ、昔からクラーケンの昔話を聞いて育ってきたこの街の住民の中には勢い込んで戦おう、という者はごく少なく、漁に出られないという身近な実害のほうを心配する声のほうが大きかった。

 それでも、クラーケンが今回の災害を巻き起こした犯人だと疑わないものはいなかった。


 もちろん潜り手の仕事も休止となり、商会の仕事を手伝うようになったアーシェは、街中に不安が色濃く忍び寄る過程が手に取るように分かった。

 毎日遅くまで街の有力者とのまとまらない話合いで疲労が蓄積されていきながらも、父はアーシェを気遣うことを忘れたりはしなかった。


「クラーケンに襲われたことは、悪い夢だと思いなさい」

 

 優しい、優しい痛いくらいに優しい言葉に、ちがうわ。という反論は声になることはなく、代わりにアーシェの口をついたのは、別の言葉だった。


「父様。私、お城へ行ってくるわ」






 **********






「やあ、アーシェ。気分はどうだい」


 昼下がりの午後。

 その低い声にアーシェが机の上の古文書から顔を上げれば、嬉しいような、困ったような表情の王子がいた。

 絹のドレスを引きずって立ち上がろうとしたアーシェを手で制した王子は、傍らの椅子を引いて座った。


「まさか、君が城に来てくれるとは思っていなかった」

「来ても良い、といったのは殿下でしょう?」


 流石に城内ではある程度、言葉を改めているアーシェに、王子は文句を言うこともなく、困ったように頬を掻く。


「いや、そうなのだが。――君は、海のそばから離れたがらないものと思っていたから」


 確かにそうだ。アーシェも自分で選んで城にくるとは思っていなかった。

 でも、今故郷の港は全面的に封鎖されていて、潜り手達が海に潜るどころか、貿易や輸送の船が出ることも命がけの状態になっている。


 あれ以降、出航したきり帰ってこない船の報告は増えるばかりだ。

 何とか逃げてきたという船は例外なく、青紫色のクラーケンを見たと、恐ろしげに語る。

 霧の中で襲われて、もう少しで船を沈められるところだったと。

 王子からその報告を聴く度にアーシェの心に波紋が広がったが、ひたすら耐えた。


「海に潜れないのなら、どこにいたって一緒ですもの」


 ぽつりと返したアーシェに王子はもの言いたげな顔をしていたが、あきらめたように、話柄を変えた。


「女官長が驚いていたよ。そんじょそこらの貴婦人より、マナーも所作も教養も優れていると。私もこれほど君が社交界に早くなじめるとは思っていなかった」

「昔、父と潜り手になるかならないかで大喧嘩したときに約束した、交換条件なのです。父が選定した教養とマナーを身につけさえすれば、潜り手を続けて良いと。だから出された課題は無我夢中で取り組んだものよ」


 父から出される課題はいつでも難題だった。

 マナーとダンスをはじめ、掃除、料理、手芸、外国語、音楽、貴婦人が身につけていることを推奨されていることは片っ端からやらされたものだ。

 父も何とかやめさせようとしまいには経済についてまで持ち出してきたが、それでも潜り手でいるために意地でもやり遂げたものだった。


「まあ、外国語や、算術とかまで学ぶことになるとは思わなかったけれど」

「それにしても、古語まで理解できるとはすごいな。断片とはいえ、読み解けるとはと研究者達も感心していた」


 アーシェの読んでいた古書をみつつ王子が言うのに、やんわりと笑ってみせる。


「それは、クラーケンから教わったの。街角にある標識とか、文字を教えてもらったわ」


 遠い記憶のような気がするあの日々を思い出しながら言えば、王子は少々顔をこわばらせた。


「そうか……。調査は、はかどっているかい?」

「それなりには。読めば読むほど、魔法生物が危険なものだ、と言うことはよく嫌ってほどわかりました」


 王子が対策を立てるたてるため城へ戻るのについてきたアーシェは、ひたすら城の書物を読み、研究者達の話を聞いていた。


 王子が紹介してくれた研究者達ははじめアーシェを厄介者扱いしたが、海に潜ることのできる海生石とその魔法について教えれば、たちまち食いついてきて、今では率先してアーシェの欲しい情報を教えてくれていた。

 そうして出てくるのは、何から何まで、王子が言ったことは正しいという現実だった。


「それに、殿下が何を懸念していたかもわかったわ」


 アーシェが言えば、王子は重いため息をついた。


「……果たすべき使命を見失った魔法生物は、どんな形でも回復させようとすることがある。

 たとえば、コシュマ王国に現れた魔王が周辺諸国を侵略したのは、守るべき国をもう一度作り上げるためだった。五年前に勇者に倒されるまで、侵略された国の住民は全員意識がなく、支配されていた時期の記憶がなかったそうだ」


 アーシェの読んだ文献にもあったそれを繰り返した王子は、狂おしげに眉をしかめた。


「君は、どう見てもクラーケンに恋をしているようにしか見えなかった。クラーケンの使った魔法によって心を操られているとしたら一刻も早く引き離さなければならない。こういった魔法は距離をとれれば効果は薄くなる」

「……魔法にかけられてるかどうかは実感はないけど、頭が冷えたのは確かだわ」

「そうか。ならば、殴られた価値もあるものだ」

「っそのときは、頭に血が上っていて……」

「わかっている。大したことではない」


 王子はほんのりと笑うと、さらに続けた。


「そうだアーシェ、明日、外出につき合ってくれないか。こういった魔法生物の魔法に詳しい知り合いに会いに行こうと思うのだ」

「……殿下。なぜ、私にそこまでしてくれるのですか」


 ずっとたまっていた澱のような疑問を口に出せば、王子の表情は穏やかに変わる。


「君のことを愛しているからだ」


 慈しむような、暖かみのあるその若草の瞳に、戸惑うアーシェの顔が写った。


「私はこの国の王子だ。私の行動も選択もそのまま国の未来に関わるから、軽々しい発言は周囲を不幸にする。だがあえて言わせてくれ。私は、君の大胆なまでの強い意志も、しなやかな心もとても愛おしいと思う。君とであれば、これからも王族として私はやっていける気がするのだ」


 王子は、アーシェの手を取るとその手の甲にそっと唇を寄せた。


「どうか、私の妻として支えてはくれないか」


 その態度も、言葉も、本気、なのだとわかる。

 このタイミングで言うなんて、王子はとても卑怯だ。


「負担になる、ってわかってて言うなんて、ずるいですね」

「王族というものは、強かでなければいけないのだよ。だが、君ならその負担すら糧にすると信じている」


 いたずらっぽく言った王子は、もう一度アーシェの手を握る手に力を込めた。


「返事は、今でなくてかまわない。クラーケンの件が片づいてからにでも」

「クラーケンを、倒せるのですか」

「確かに、クラーケンはかつて現れた魔法生物のなかでは、破格だ。国の軍備だけでは怪しいだろう。それでも私にはこの国の民を守る義務がある。どんな手を使ってでも成し遂げてみせよう」


 そう言った王子は何よりも気高く、強い信念にあふれていた。


「だが我が国には、魔王すら倒した勇者殿がいる。アーシェが案ずることはないのだよ」


 王子はさらに何か言おうとしたのでが、入り口に役人が現れたことで中断された。


「ではアーシェ、また明日」


 役人と共に王子が去っていくのを見送った後、アーシェは手の温もりの残る両手を、ぎゅっと握り合わせた。

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