第2話 海に魅入られた娘
空が黎明の群青に染まる前、アーシェはぱちりと目を覚ます。
一秒たりとも遅れない。遅れるはずもない起床の時間だ。
ざっと惜しげもなくベッドを離れると、顔を洗い、服を着替え、鏡台に座り髪を整える。
鏡に映った自分はいつもと変わらなかった。
海水にさらされ続けている割には櫛の通りのいい金の髪に、強い日差しを浴びていてもそばかす一つない肌。そして瞳は透き通るような鮮やかな青。
なにも知らない旅人はアーシェを海生石のように美しいという。
アーシェを含めたこの町の潜り手達が、命がけで採る海生石に。
もっと着飾れば、きっと貴族だって求婚に現れるだろうと。
だがアーシェを知るものは、こそこそと言い合う。
美しいが、海に見入られたかわいそうな娘だと。
そんな反応にはもう慣れた。
アーシェにとって大事なのは、ただ一つだ。
だけど、あのヒトがほめてくれるのであれば、アーシェはきっと化粧だって髪結いだって、大嫌いなコルセットだって締めるだろう。
でも、そんなことにはならないから、アーシェはじゃまにならない程度に髪を引っ詰め、最後に祖母の形見の守り石を首から下げる。
あれ以来、革紐からより丈夫な鎖に変わったそれが首筋にひんやりと重みを伝えるのを確認すれば、アーシェはそっと部屋を抜け出した。
父の経営する商会の裏手から涼しい外へでれば、アーシェを止めるものは何もない。
はやる気持ちを抑えて、アーシェは紺青色に染まる白亜の町並みをすり抜け港へ走った。
「おはようっ、今日もよろしく」
「アーシェが来たぞ、出航だ!」
「おうともよ!!」
港にはすでに潜り手の女達と、船員たちが船に乗って待っていた。
渡し橋を軽やかに渡って船へ乗れば、待ちかまえていた海の男たちがすぐさま縄をはずし、魔法動力で船が動き出す。
ほう、とアーシェが吐息をつけば、先輩の潜り手であるトキがサンドイッチを差し出してきた。
「どうせまた何も食べてないんだろ? あたしたちの仕事は体力勝負だ、食べて英気を養いな」
「ありがと、トキさん」
アーシェは笑顔で受け取り、こぼれんばかりの具材が挟まったそれに豪快にかぶりついていると、トキにあきれたように笑われた。
「全く、雇い主のお嬢さんと一緒に潜ることになるとはね。しかも誰もがいやがる海底都市に自ら志願するなんて」
「だってあそこじゃなきゃだめなんだもの。私はあそこ以外潜らないわ」
「まあね、あんたよりもあそこをうまく潜れる子は居ないんだけど、よくもまあ続くわよ」
トキのあきれ顔に、アーシェはパンくずをはたきつつ曖昧な笑みを返した。
しばらく進んだ船が予定区域にたどり着くと、アーシェ達は即座に準備を始める。
余計な体力を奪われないようシャツの裾はしまい、袖やズボンをひもで縛り、水中でもよく見えるように水晶石をレンズにしたゴーグルで目を覆った。
そして、アーシェは一呼吸して、胸元にしまった守り石を服の上からにぎりこんで、唄う。
「”我、陸に上がりし一族の末裔 しかし今一度海に抱かれることを望むもの也”」
たちまち守り石から淡い光がこぼれ、全身を優しくすべるのを感じた。
このハッカのようなすっとした清涼感は、アーシェの心を浮き立たせる。
「いつものことながら、あんたの
トキが握っている海生石も光をこぼしているが、全身を覆うにはまだかかかる。
それでも早く、ほかの女達は未だに胸を覆う程度だ。
アーシェはトキに一つ微笑むと、船の柵にもうけられている柵を開けた。
「……トキさん、先行きます」
「アーシェ、一刻でかえってこいよ。いいな一刻だぞ」
「うん」
船長の念押しに生返事を返し、アーシェはためらいなく海へと飛んだ。
初夏とはいえ、いまだに海の水は冷たく、アーシェの全身を包み込む。
一瞬だけ、幼い頃、船から落ちた記憶が脳裏をよぎる。
だけど、海生石からあふれる光は、アーシェをひとときだけ海のモノとして海中で過ごすことを、魚のように泳ぐことを許してくれる。
アーシェは、海生石の光を足に集めてヒレにして、ぐんっと加速し、海の底へと潜っていった。
海生石は海の宝石。
晴れた日の海の水をそのまま閉じこめたような透明で青々とした石は、宝石としてはもちろん、特別な魔法をかけて身につければ、陸の生き物でも海の生き物と同じように過ごせる優れモノ。
だけど、海生石がどうやってできているかは誰も知らず、アーシェのすむ街の海、しかも沖合の海底でしかとれない。
アーシェの街では、ずっとずっと昔から、海の底へ潜り海生石を採ることを生業にしていた。
海に潜る、と言うと、外から来た人には驚かれる。
海には、恐ろしい海獣や魔物が住んでいて、うまく泳げない人などあっという間に食べられてしまうだろうと。
確かに、数年に一度くらいはそういう可哀相な潜り手も出てくる。
けれど、この街の海はほかの海に比べて格段に安全だ、とアーシェは胸を張って言えるのだ。
なんて言ったってあのヒトが守っている海だから。
深く深く進むにつれて海の色が鮮やか水色から、青へ、ほの暗い藍色へとかわっていく。
たちまち海底にたどり着いたアーシェは、光のひれをうねらせて、さらに水平に移動を始めた。
かすかに伝わってくる水音から、ほかの潜り手も海底にたどり着き、作業を始めたのがわかる。
だけれど、この
潜り手達はどこに行けば大きい石が見つかるかは知っている。
だけど、そこには決して近づかない。近づけない。
あんまりにも危険で、恐ろしい場所だからだ。
アーシェの目的地はまさにそこだった。
制限時間は、一刻。
でも今日降り立った場所は、あまり遠くなかったから、今日は会えるかもしれない。
沸き立つ気持ちのまま水を蹴れば、いくらもしない内に、海底が消えた。
唐突に深くなった足下に広がるのは都市だった。
地面の亀裂にすっぽりとはまっているようにも見えるそこには、アーシェ達が住む街とは作りがまるで違う建物がみっしりと立ち並び、静かに沈黙している。
それは熟練の潜り手でも滅多なことでは近づかない、古代の都市だった。
だけど、アーシェはためらわず、さらに奥へと潜り近づいていった。
水をひと蹴りするごとに水が冷えていき、眼下に広がる海底都市がどんどん近づいてくる。
海生石も、万能ではない。
魔法は確かに海で過ごすことを許してくれるけれど、普通の人では浅瀬をさらうくらいしかできない。
この街の潜り手は、同じ海生石を使ってその何倍も深く長く潜れるとはいえ、あまり深く潜りすぎれば、光が水の重みに負けてしまうし、魔力もたくさん消費するのだ。
さすがにアーシェも水の重みに苦しくなったとき、ぐんっと海流が動いた。
唐突に起きたうねるような水の流れを起こしながら現れたのは、幾本もの
アーシェの身体の何倍もの太さがある触腕が動くたびに不規則な水の流れが生まれる。
その流れにあらがっていたアーシェは、みつけた。
角やひれに覆われた、青紫色の表皮。
これだけ離れていてようやく全容がわかる、海底都市の半分はあろうかというその巨大な体躯。
無数の触腕を揺らめかせる、その怪物を。
アーシェは苦しさも忘れてぱっと表情を輝かせると、その青紫色の触腕の一つに抱きついた。
「クラーケン、ひさしぶり!」
抱きつかれた触腕の一本は、アーシェの腕の中で驚いたようにふるえると、仕方なさそうな低く優しい声が頭に響く。
《またきてしまったのか、アーシェ》
間違いなくクラーケンの声に、アーシェはますます笑み崩れたのだった。
アーシェの捕まった触腕がするすると海底都市に近づいていく。
ある一点で海から上がったときのような抵抗のあと、真昼のように明るくなった。
同時に冷たかった水がなくなり、アーシェは息をはきつつ顔に張り付く後れ毛を払った。
暗いはずの海底で都市の中が明るいのは、太陽の光を魔法で再現しているのだという。
呼吸ができるのも都市を守る魔法がまだ生きているからだと彼、クラーケンから教えてもらっていた。
アーシェを抱えた触腕は、いつもの塔の屋上へおろしてくれた。
その古代都市で一番高い塔の屋上は、体が大きすぎて都市へ入れないクラーケンが一番よく見えて、ずっと海の中にいられないアーシェが語らうには一番良いところだった。
見上げれば、都市を包む透明な膜の向こうにはいつものように青紫色の本体が広がっていた。
アーシェは青紫にある銀の瞳を見ながら、残してくれた触腕にふれながら言った。
「ねえ、クラーケン、今日はずいぶん早かったと思わない? 海生石を拾っていく手間を考えてもあと半刻はあなたと居られるのよ」
《無茶をしたのではないか》
「上達したって言って欲しいわ。だって私の技術は全部ここに来るためにあるのだもの」
アーシェがむくれてみせると、青紫色の触腕からあきれた調子で返ってきた。
《我に会いに来るのがそんなに楽しいかね》
「楽しいに決まっているじゃない。私はあなたが好きなのよクラーケン」
すると、青紫色の触腕からはため息が伝わってくる。
《アーシェ、よく見てみなさい、我は魔法生物だ。都市の守護という役目を遂行するために最適化されたこの容姿は、人を威圧することを目的ともしている。お世辞にも心地よい見目ではないはずだ》
「確かにええーって見た目だし、ちょっと磯くさいけど、関係ないわ。こうして話してみればとてもすてきなヒトだってわかるし、何よりちっちゃい私を助けてくれたじゃない」
《それは……》
「それに、私、この青紫色結構好きよ?」
言いつつ、ぬるりとした触腕をなでれば、吸盤が収縮した。
あ、照れているな、と長年の観察でわかったアーシェは笑みを深めた。
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