初恋はクラーケン

道草家守

第1話 始まりの日


 海に投げ出された瞬間、地上の音が消えた。


 あるのは海流の奏でるさざめきと、吸い尽くすような一面の青。

 頭上に明るく揺らめく水面がとてもきれいで、アーシェは思わず見惚れた。

 首から下げていた守り石の淡い輝きが、ふっと消える。

 こぽり、とアーシェの口から漏れた泡が、水面へとあがっていった。

 それが自分の命をつないでいたものだと、離れてから気づく。


 (苦しい)


 そのとき初めて、人は水の中で生きられないのだと知った。

 船の上から眺めていれば、あんなに穏やかで、きれいだったのに。

 浮き上がろうと手を伸ばしても、頭上にきらめく明るい水面は遠ざかるばかりだ。


 船の上ではひらひらと舞ってきれいだったワンピースは、海の水を吸ってアーシェの手足を重く縛り、とてもじゃないけど動かせない。

 いくらもがいても、明るい青から、藍色へ、紺へ、そしてなにも見えない黒へ、世界が変わっていく。

 そっちには行きたくないのに、アーシェはなにもできずに沈んでいく。

 とても静かに、アーシェを飲み込んでいく。

 怖い、という言葉でさえ、海は許してくれない。


 (だ、れ、か)


 遠くに見えた明るい蒼が、なくなった。

 ああ、しんでしまうのだな。

 アーシェの意識がかすむ中。


 水がふるえた。


 さっきまでの静けさが嘘のように、水が荒れ狂う。

 すごい嵐に巻き込まれた時のようにアーシェもとばされるのかと思ったら、おなかに何かがぐるりと巻き付いて、沈むのが止まった。

 トゲトゲしているのに柔らかくて、丸い吸盤がついているそれは、アーシェを優しく受け止めると、今度はぐんっと押し上げ始める。

 思わず、最後の泡をこぼすアーシェの頭に声が響く。


《もう少しだ。耐えろ》


 低くて、どっしりと落ち着くような、優しい優しい声だった。

 一生懸命口を押さえてアーシェは耐えた。

 世界が、黒から、紺へ、藍色へ、そして明るい光が迫ってくる。

 ざんっと壁を突き破るように、アーシェの体は海を出た。

 沢山の海水を吐き出して、あえぐように息を吸って、体いっぱいに空気を満たす。

 空気がとても大事なものだと、アーシェはそのとき理解した。

 明るい空はまぶしくて、波の音に紛れて、母と父の声がする。

 なんだか悲鳴を上げているような、そんな感じ。

 なんで? と思う間にアーシェの体は勝手に移動して、さっきまで乗っていた船の甲板におろされた。

 するりと、おなかに巻き付いていた赤紫色のものが離れて、甲板から海へと去っていく。


「ああ、アーシェっ無事だったのね!!」

「早く、この海域から逃げるんだ!!」


 おなかの中が気持ち悪くて、口の中が塩っ辛くて、体がとても重くてくらくらした。

 けれどアーシェは、涙ながらに抱きしめようとする母の手を拒んで、船の端にかけより身を乗り出す。

 そこで見たのは、さっきまで巻き付いていた触腕と同じ赤紫をした、大きな大きな怪物。

 体は海からでている分だけでもこの船よりもずっと大きく、表面はぬらりとしていて、どんな姿をしているのかもわからない。

 たくさんの吸盤がついた太い触腕が幾本も踊るたび、ぐらり、ぐらりと船が揺れていた。


「こんな時にクラーケンにまで遭うなんざ最悪じゃねえか畜生!!」


 船員さんの言葉が耳に入る。

 くらーけん、というのか。

 それほど遠くない場所で、赤紫の触腕に巻き付かれた船が木くずをまき散らして沈んでいくのすら目に入らなかった。

 その大きな大きな生き物に見惚れていると、ぐんっと肩を捕まれた。


「アーシェ、なにをしているんだ早く来なさい!!」

「やっ……!」


 まだ見ていたくて、アーシェは柵に捕まって抵抗したが、青ざめた父の力にはあらがえずに手を離す。

 そのとき、柵に青い守り石が引っかかり、アーシェの首筋でぶつりと革紐がちぎれた。


「おばあさまの守り石!」


 祖母から受け継いだ守り石の首飾りが青くきらめきながら海の中へ消えていくのを、アーシェは父に抱えられながら愕然と見送った。


「っそれはあきらめなさいっ、早く、船室に!!」

「やだあっ!」


 あれはアーシェの為に祖母がくれた特別な石なのだ。

 アーシェが海でおぼれ死なないように、海の神様に守ってもらえるように。

 代わりなんてないのだ。

 アーシェの瞳に涙がたまったとき、またぐらりと大きく船が揺れた。

 たまらずしりもちをついた父の腕からすかさず逃れたアーシェは、船の端に駆け寄ろうとし。

 その前に、大きな水しぶきの音をさせて海中から躍り出てきたのは赤紫色の触腕。

 細くなっていく先には、陽光に煌めく守り石が握られていて。

 その触腕が降りてくるのを見てとったアーシェが、あわてて両手を差し出せば、小さな手のひらに守り石が優しく落とされた。

 傷は一つもなく、海生石の青い石はゆらゆらと海を映し取っている。

 ほうっとアーシェが息をつけば、赤紫の触腕がすうっと離れていこうとする。

 アーシェがとっさに握ると、ぬるりととした触腕が驚いたように手の中で震えた。

 でも逃げていかなかったから、伝わるかどうかわからなかったけど、どきどきしながら言った。


「ありがとう」


 手の中の吸盤が、ぴくりと震えた気がする。

 そうしたら、ほんの少しの間の後、またあの優しい声が頭に響いた。


《達者でな》


 するりとアーシェの手から離れた触腕は、最後にアーシェの頭をそっとなでて去っていく。

 とくりと胸が鳴る。

 アーシェは触腕を追って柵へと駆け寄った。


「ありがとう、くらーけんっ! ありがとうっ!!」


 かろうじて見えた二つの目は、優しい銀色。

 アーシェは大きな赤紫の触腕の最後の一本が見えなくなるまで、大きく手を振り続けた。


 それが、アーシェの始まりの記憶。

 海の怪物クラーケンに恋をした、瞬間の記憶だ。


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