弐、

 






 手習いはとても楽しかった。


 紅樹ひるぎの書く手本はとてもきれいで、自分でもこんな字が書けたらと意欲がわいたし、何より書ける文字が、読める言葉が増えていくのが嬉しくて、紅絹もみは夢中になって紙が真っ黒になるほど繰り返し書き覚えていった。


 その後から、紅樹はふらりと出かけて帰るたびに、様々なものを紅絹に土産と称して持ってきた。


 甘い菓子類は序の口だ。

 紅絹が書物を読み終えたと言えば、次の日には風呂敷一杯の草紙を手にして帰ってきたし、料理をしてみたいと言えば、紅絹専用の包丁などというものを用意した。

 まな板や鍋類まで新調して来ようとした時には紅絹も呆れ果て、初めて紅樹に対して怒ってしまったが、それすら紅樹は愉快気に笑っていた。


 それからは紅絹が”お願い”しない限り必要ないという取り決めができたが、それでも、紅絹の部屋には紅樹が様々な理由をつけて持ち帰ってくる”土産”がどんどん増えていった。


 屋敷にいるだけでは退屈だろうと、時折紅樹が散歩だと言って紅絹を連れ出し、垣根を越えて森を歩き回ったり、庭でくろ坊達と共に遊んだりもした。

 雪が降れば雪合戦に本気になり、春になれば花見をし、夏の暑さには流れる川で水遊びを楽しみ、秋になればたき火をした。


 そうして一年もたつころには、紅絹の話し言葉に固さが抜け、自分でも驚くほど、笑顔になる回数が増えていた。







 **********








「どうかな、くろ坊? ……え、良い感じ? やった!」


 ふわふわと浮くくろ坊が、空中に円を描いて飛びまわるのに、紅絹は差し出していた味見用の小皿を受け取りながら、思わず顔をほころばせた。


 紅絹はくろ坊達に頼み込んで料理の仕方を教わっていた。

 初めこそ焦がしたり、味が薄かったり、うまく切れなかったりと失敗続きだったものの、毎日くろ坊達につきっきりでおしえてもらった結果、最近では自分でもおいしいと思えるようなものを作れるようになっていた。

 今日の朝食である大根の味噌汁に及第点を貰った紅絹は、さっそく椀に自分と紅樹の分をよそって箱膳に並べると、待ってましたとばかりにくろ坊達がこぞって板の間に運んでいく。


 それを追いかけるように板の間へ行けば、いつもの様に悠然と片膝をたてて座る紅樹がいる。


「紅樹! 今日のお味噌汁は私が作ったよ!」

「……おう、そりゃあ楽しみだな」


 紅絹が勢い込んで話しかけると、紅樹は紅絹をじっと見つめた後、口角を吊り上げて笑った。

 紅絹はその笑顔と言葉に照れ臭くなりながら、自分の膳の前に座って手を合わせた。






「そう言えば紅絹、街へ行ってみるか?」


 唐突な紅樹の言葉に、紅絹はきゅうりの漬物をくわえたまま、目をぱちくりとさせた。


「街?」

「将軍とか何とかいう人が収めてる城下だよ。ずっと屋敷に居るのも退屈だろう? 街ならいくらでも草紙が出回っているから、読みたい草紙を自分で選ぶのも面白いだろうと思ってな」

「自分で、選ぶ……」


 ぽりぽりと漬物をかじりながら、紅絹はその言葉の意味も咀嚼する。


 紅絹は数日前に、屋敷に置いてあった書物をすべて読みおえたことを紅樹に報告したばかりだった。


 紅絹は別に、草紙は一度読み終えても何度も読み返せばいいと思っていたし、この屋敷も庭も、森の中も、退屈なんてしていなかった。

 だから、特に感慨はわかなかったが、初めて紅樹が外出に連れて行ってくれる、と言ってくれたことに心が惹かれた。


 そっと紅絹が窺うように見れば、紅樹は椀に口をつけてすすったところで、ちょっと驚いたように目を見張っていた。


「うまいな」

「あ、ありがとう……良いの?」

「おう、好きなだけ選べ」


 当然とばかりの表情で言う紅樹に、未だに、己の意思を言葉にするのが苦手な紅絹だったが。


「……いく。いきたい」


 ためらいつつも、小さく声を上げた紅絹に、紅樹は柔らかく笑ってくれた。









 朝食を終えた後、紅樹に手招きされて近づくと、ぽんと頭を軽く手を置かれた。


「よし。これで角は見えねえよ」


 あんまりにもあっけなかったので頭に手をやると、確かに角はない。

見上げればすでに紅樹の美々しい角もきえていて、そこにいるのは柘榴ざくろ色の絽を粋に着こなした人の男で、共通点である角がなくなったことに、紅絹は少し寂しさを感じた。

 沈黙した紅絹をどう解釈したのか、紅樹になだめられるように頭を撫でられた。


「意地悪で妖術を教えないわけじゃねえんだぜ? まだお前の妖の部分が落ち着かねえんだ。おいおい教えてやるから、落ち込みなさんな」

「……楽しみにしてる」


 そうして紅樹に連れられて、家を囲う垣根に一角に据えられた門をくぐったとたん、いつもとは違うめまいのような感覚がした。

 紅絹が思わず目をつぶった瞬間、爆発的な喧騒に包まれた。


 目を開ければそこはすでに町中だった。


 だが、規模が違う、量が違う。

 紅絹が何十人も手をつないでようやく端から端まで届くだろうという広さの通りには、どこからこんなに湧いて出たのか、というほどの多くの人がにぎやかに行きかっている。

 通りの両脇には様々な商店が立ち並び、その店の屋号の染め抜かれたのれんが掲げられた前では、紺染のお仕着せを着た丁稚の少年が水を撒いていた。


 そんな水をよけながら、呼び声を上げる天秤を担いで尻端折りをしているぼてふりや、小間物の背に担ぐ小間物売りなどは辛うじて紅絹にもわかったが、大半は一見して何をしているものなのかわからないものが大半だった。

 奇麗な着物を着た女たちや、ねじり鉢巻きを頭に巻いた男に求められれば荷を下ろし、商売を始める。


 そんな怒声にも聞こえそうな騒音に、村しか知らなかった紅絹が耳を抑えて目を白黒させていると、ちょっと笑った紅樹に手を握られた。


「おう、じゃあまずは呉服屋からだ。離れねえように気ぃつけな」


 うなずくので精いっぱいだった紅絹は、その言葉の意味を深く考えることなく紅樹に手を引かれて歩き出した。




 つれていかれたのは、そのような繁華な大通りではなく、路地をいくつか抜けた先にある、それほど大きくはない店だった。


 だが、その店から漂う空気は、懐かしいような、落ち着くような感じがする。

 不思議に思いながら紅絹が紅樹に連れられて敷居をまたぐと、にゅっと、地味な色合いの着物に前掛けをした男が立ち上がった。


「鬼の旦那、いつもごひいきにありがとうござんす。……おや、珍しい。今日はかわいらしい娘さんをお連れで。もしや旦那のこれですかい」


 顔の色々な造作が細い男はそこまでをとうとうと語って小指を立ててにやにやと笑うが、紅樹は飄然といなした。


「こいつは妹だよ。あれのことで相談ついでによらせてもらったぜ」

「なるほど、そちらが例の」


 得心が言った様にうなずいた男は、紅樹の後ろに隠れるように居る紅絹のところまで来て、ぺこりと頭を下げた。


「お初にお目にかかります。手前は、この呉服屋”御狐屋みけつや”を任されております、藤右衛門とうえもんと申します。以後、お見知りおきを」


 目の前までやってきた男の、その様々な部分が細い顔を見た紅絹は、ふと気づいた。


「あやかし、ですか」


 思わず言葉にしてしまった紅絹ははっと口を抑えたが、藤右衛門と名乗った番頭は、細い目をそれとわかる程度に丸くした後、感心したように言う。


「おやまあ、旦那の妹さんはなかなか聡いようで」

「当たり前だ、俺の妹なんだからな」


 なぜか妙に得意げにする紅樹から視線を外し、藤右衛門はまた紅絹に視線を戻して、細い目をさらに細めていった。


「その通りにござんす、手前は狐の化けでしてね。手前どもの他にも、この街には様々な妖が人に紛れて身すぎ世すぎを立てております。ただ、ここの使用人は妖だけですが、中には正体を隠し、人の店に紛れて奉公している者もおりますから、見つけても素知らぬ顔をしておくのが無難ですよ」

「わかりました、もうしません」

「それがよろしい」


 その忠告に紅絹が生真面目にうなずくと、藤右衛門はひょうきんな雰囲気に立ち戻り、ぱんぱんと手を叩く。


「さ、辛気臭い話はこれでおしまいです。さあ、妹さんを奥へ案内しなさい!」

「あーい!」


 その掛け声で、奥から現れた女たちに囲まれた。

 面食らう紅絹に、紅樹が言う。


「紅絹、俺は、藤右衛門とちょいと話があるから、奥で姉さんたちに相手してもらいな」

「え、あ、うん」

「姉さんたち、俺の妹をよろしく頼む」

「頼まれましたよ」

「さ、いらっしゃい!」

「大丈夫よう、恐くないから!」


 戸惑いがちに紅絹が了承した途端、女たちに囲まれ、話しかけられながら奥の客用の座敷らしい部屋へと通された。


「緋衣の旦那の妹さんなんてどんな子かと思えば、まあかわいい!」

「名前、なんていうの」

「も、紅絹です」

「あらいいわね!」


 わけもわからぬうちに、紅絹はどことなく藤右衛門と雰囲気が似ている女たちに囲まれ、きゃあきゃあ言われながら巻尺をあてられた。

 女に言われるがまま、腕を広げ、くるりとまわり、それが終わったかと思えば、いつの間にか座布団に座っており、気が付けばお茶と茶菓子まで出てきていた。

 女達に進められるままに甘い菓子を食えば、そのたびに歓声が上がり、女たちのかしましいさざめきに目を白黒させた。


「ほんと背が高くって威圧感があるけど、顔は役者みたいにきれいだし」

「あらそん所そこらの役者よりも上等よ! それに妖力も強いし、何より粋だもの」

「女のあたしたちから見てもいい男だけど、まあ旦那は特に男にもてるわよねえ」

「ああ、熱烈だわねえ。確かに良い男だけど、あの異様さは別ね。どうしてああも暑苦しく懐くんだか」

「特に八洲やしまの親分なんてねえ、弟分だーとか言っているけれど、あれはもう主人を見る目だよ」

「犬化けでもないのにね」


 ひとしきり笑った後、女の一人が、はたと思い至る。


「……そういえば。親分さんは紅絹ちゃんのこと知っているのかしら?」

「そういえば、ここに来たのも一年ぶりだしねえ」

「ね、紅絹ちゃん、今は緋衣の旦那と一緒に居るんだろう? 誰か訊ねてきたりしたかい」

「い、いいえ、家には誰も」


 不意に話がこちらに振られて戸惑った紅絹だったが、首を横に振った後付け足した。


「でも、よく外出はしているみたいです」

「あらそう、じゃあもしかしたら会いに行っているかもねえ」

「でも紅絹ちゃんも気を付けてねー。特に八洲の親分は緋衣の旦那にぞっこんなのよ。旦那の前では大人しいけど、何をされるかわかったもんじゃないわ」


 女の一人の忠告にわけがわからないまでもこくこくとうなずいたあと、紅絹はふと先ほどから気になっていたことを口にした。


「あの、なんで紅樹のことを”緋衣の旦那”っていうんですか」


女たちが、袖で口を元を隠しながら、曖昧な笑みを浮かべて、意味深に視線を交わす。


「ああ、それは単純さ」

「旦那はね、うちの店によく着物を仕立てに来るんだけど、そろいもそろって必ず赤い着物を頼むのさ」

「まあ、着物の裏地や羽織裏だったり、色が濃かったり薄かったり、色々だけどね」

「とにかく赤がお気に入りらしくてさ、それに、旦那の名前にも”緋”が入ってるだろう?だから”緋衣の旦那”って皆して言うようになったのさ」


 確かに煙草入れや、帯など、紅樹の持ち物には何かしら赤が目立つ気がする。

 そう言えば今日に着物も柘榴色だった、と紅絹が納得していると、茶請けのかりんとうをつまんでいた女が身を乗り出してきた。


「ねえ、緋衣の旦那は普段どんな感じなの?」

「そうよ、あの旦那と一緒に暮らしているんだろう?」

「教えてちょうだいな」


 女たちにそろって迫られて、紅絹はのけぞりながら必死に普段の紅樹を思いだした。


「えと、タバコ吸ったり、本読んだり、ごろごろしてたり。あと、手習いおしえてくれます。硯とか筆とか、紅樹がくれました。紅樹の書く字はすごくきれいで、教え方もうまくて、文字がたくさん読めるようになりました。あ、でも雪うさぎを作ると、狸にしか見えません。私が綺麗なうさぎを作ったらムキになって作り続けたせいで、縁側が溶けたうさぎでびしょぬれになって、くろ坊達に怒られてました。ご飯は毎回一緒に食べます。今日お味噌汁作ったら、おいしいって言ってくれました」


 指折り数え、気が付くと女たちが静かだった。

 紅絹が思わず口をつぐむと、女の一人からほうとため息が漏れた。


「ずいぶん、想像と違うけど」

「あなたがよっぽど可愛いのねえ、旦那は」

「なんだかのろけられた気分だわ」


 にやにやと笑みを浮かべながら、口々に言った女の瞳が、きらりと煌めいた。


「ね、他には何かないの?」

「旦那のかわいい一面!」

「えと、その」


 そうして女たちに迫られて途方に暮れていると、す、とふすまが開けられた。


「これ、お前たち、その子はお客だよ。店の者がお客を付き合わせてどうするんだい」

「「はあい」」

「またおいで、紅絹ちゃん」

「何なら、針仕事でも仕立てでも教えるよ」

「は、はい」


 呆れた様子の藤右衛門にとがめられ、ようやく重い腰を上げた女たちが口々に紅絹に言いかけて去っていく。


「妹さん、うちの女衆おんなしがすまないねえ、大丈夫かい?」

「は、はい。びっくりしましたけど、いやじゃ、なかったです」


 女衆の話に紛れるのは戸惑ったが、楽しかった。

 村では、娘たちの会話を遠くで見ている事しかなかったから、娘たちはこんなふうに話をしていたのか、と想像できるようで新鮮だったのだ。


「そうかい」


 ほっと一息ついた紅絹が答えると、藤右衛門は、細い目を和ませたようだった。

 そんな二人の会話を、後ろで紅樹が淡く微笑みながら見つめていた。






「ではまたのごひいきを―!」


 藤右衛門や女たちに見送られて御狐屋を出ると、そこはすでに大通りだった。

 紅絹が目をぱちくりとさせて背後を振り返っても、そこに御狐屋ののれんはなく、ただ薄暗い路地があるばかりだ。

 どうやらあの店は、紅樹の屋敷と同じ性質の物らしい。


「ああ、最後の最後で遊んだな。狐らしい趣向で」


 紅絹がなんだか狐につままれたような気分でいると、同じように後ろを振り返って苦笑する紅樹に促され、また歩き出した。


「あの、どうして呉服屋に」

「あ―まあ、藤右衛門が古い知り合いでな。あの店を出してからは俺の着物でいろいろ融通してもらってんだ。今日は話ついでにお前の顔みせに立ち寄ったんだよ」

「そうなんだ」


 その言葉にほんの少しほっとした紅絹だったが、続けられた言葉に目を丸くする。


「それにあそこの女たちに、良い古着屋の話を聞いたからな。普段着に二三着見繕いに行くぞ」

「でも、紅樹、私、今の着物で十分だよ?」


 たちまち歩き出そうとする長身に紅絹が慌て引き留めると、紅樹にしようがないとばかりに言われた。


「お前の物持ちが良いのは知っているがな。俺が初めにやった着物はだいぶ擦り切れてるだろう? 必要なものまで遠慮はしなくていいんだぞ」


 確かに、今日の着ている着物はいちばんきれいなものを選んできたが、それでも衿や袖や裾などは擦り切れほつれてしまっている。

 初めに紅樹にもらったものだから大事にしていたが、何度も水を通した着物は一目でわかるほど色あせてしまっていた。

 紅樹の着ている柘榴色の単衣と比べれば、なおさら見劣りする。


 頬を朱に染めてうつむく紅絹の頭に、大きな手がとすりと乗せられた。


「な? こういうのは強請ねだってくれていいんだぜ?」

「……うん」


 言い出せなかったせいで、紅樹に気を使わせてしまったのが申し訳なくて。

 でも、気づいてくれたことが嬉しくて。

 紅絹は頭上の温かい手のぬくもりを感じながら、こくりとうなずいた。




 御狐屋に教えられたという古着屋は、人の店だった。

 

 そこで、紅絹は普段着用の服を何着か見繕った。

 実用重視の地味な木綿の着物が欲しい紅絹は、明らかに晴れ着の、明るく鮮やかな色合いの着物ばかり選ぶ紅樹と買う買わないの熾烈な攻防を繰り広げた。

 最後には、地味な木綿を2着と、色あざかな柔らか物が一着という結果に落ち着いた時は、妙な達成感に拳を握ったものだ。


「まあ、アレもあるし、ここは引いといてやるか……」

「ん?、何か言った?」


 渋々ながら会計を済ませた紅樹のこっそりとしたつぶやきに、おまけの風呂敷にくるんでもらった包みを受け取っていた紅絹は振り返ったが、「いんやなんにも」と誤魔化された。


 そうしてやってきた草紙屋は、まるで、宝の山のようだった。

 入って直ぐのところに番台が据えられ、正面の平置きの台にはいくつか草紙が並べられていたが、そのウナギの寝床のように深い奥の両脇の壁には、上から下まで一面に本棚が作りつけられ、おびただしい数の草紙がぎっしりと詰まっていた。

 沢山、たくさんあるのだ。

 和紙と墨と、独特の書の匂いに包まれながら、紅絹は圧倒された。



「久しぶりだねえ、旦那」


 長身で目立つ紅樹に気づき、ざっくばらんに声をかけた店の主人は、ついで、陰に隠れるようにいた紅絹を見つけた。


「おやずいぶん可愛らしいお客だ。役者絵はないが、絵草紙ならいくらかあるよ?」


 脇の番台に座っていた壮年の主人に声をかけられた紅絹は戸惑ったが「絵草紙」という単語にだけは首を横に振った。

 意外そうに目を瞬かせる主人に、紅絹は紅樹を仰ぎ見ると、背中に手が添えられた。

 言葉はなかったがその手の大きさに励まされ、紅絹は何とか言葉を紡ぐ。


「なるべく、文字が沢山あるやつが、読みたい、です」

「文字が多いというと?」

「何でもいいんです。私、知らないことが多くて、もっと知りたくて」


 要領の得ない紅絹の言葉だったが、主人は得心した様だった。


「なるほど、今まで買い込んだ草紙は全部このお嬢さんのため、だったんですかい」

「おう」

「旦那、予算は」

「ない。好きなだけ選ばせてやってくれ」


 にんまりとする紅樹に、主人は呆れた風に見ながら、ゆっくりと立ち上がった。


「お嬢さん、上へあがっておいで。 わしが選ぶより、見たほうが早かろう」


 主人の申し出に紅絹が不安につい、紅樹を仰ぎ見ると、黒々とした瞳に見下ろされる。


「行ってきな。読みたいんだろう?」


 そうしてとんと背中を押された紅絹は、吸い寄せられるように、履いていた草履を脱ぎ、上がり框を踏みあがったのだった。




「迷っているのなら、貸本にすればいいよ。うちはむしろそちらが本業だからね」


 五冊の草紙を床に並べて悩んでいた紅絹がはっと振り仰ぐと、呆れ顔の主人がいた。

 遠くから捨て鐘の音が聞こえる。

 ちょうど店に入る前にも聞こえていたから、一刻以上は経っているのだ。

 紅絹は時を忘れてしまったことに呆然としながらも、主人に問いかけた。


「貸本、ですか」

「おや、知らなかったのかい? 本も草紙も高いからねえ。普通は借りていくものなんだよ。期限はあるが、一冊の値段で十冊読める庶民の味方さ。あんな高けえもんを平然と買っていく、旦那のほうが珍しいのさ」


 村ではそのような商売すら知らなかった紅絹は、目から鱗が落ちたような気分だった。

 本というものがとても高いことだけは知っていたから、どうしても読みたいものだけ、と思っていたが、一冊で十冊分読めるのであれば、もっといろんな書物を読めるのだ。


 だが、借りた本を返さなければならないのなら、定期的に街へ来なければいけない。

 だから紅樹にそれを相談しようと紅絹は入り口のほうを振り返ったのだが、上がり框に座っていたはずの紅樹がいない。

 ただ、着物の包みだけが取り残されていた。


「ああ、旦那なら煙草を吸いてえと言ったから外に追い出したよ。うちは禁煙だからね。万が一売りもんに灰を落とされちゃあたまんねえから。……って、おい、お嬢さん?」


 主人の言葉を聞き終える間に紅絹は衝動的に立ち上がって、店の外へと駆け出した。

 薄暗い店内から一歩出れば、暑ささえ感じる日差しが照り付ける中、多くの人が行き交っている。

 だが、人、だけだ。

 紅絹が立ち尽くしていると、訝し気な様子で主人が出てきた。


「おや、旦那は暇つぶしにどこかへ行ったようだねえ。まあしばらくすれば帰ってくるだろう。……お嬢さん、どうかしたかい」


 こちらを案じる声に、紅絹は答えられなかった。


 左右を見渡しても、あの長身は見えなかった。

 紅樹が、いない。


 一気に全身から血の気が引いた気がした。

 こんなに暑い日のはずなのに手足が異様に冷たくて、勝手に動いていると思ったら震えていた。


 あれ、どうしたのだろう? なんで、私は震えている?

 そのまますうと、体の感覚が遠のきかけた、寸前。


「おう、紅絹。本は選び終わったのか」


 からかう様にかけられた声に、紅絹は勢いよく振り返る。

 そこには煙管を手でもてあそぶ紅樹がいつもと変わらぬふうで立っていた。


「何だ、紅絹……って裸足じゃねえか」

「ひる、ぎ」


 不思議そうな顔の後、紅絹の足下を見て目を見張る紅樹からは、家で嗅ぎなれた紫煙の香りがふわりとした。

 その柘榴色の着物に伸びかけた右腕を、紅絹は左手でぎゅっと抑えた。

 紅樹の視線が上がる前だったから、きっと気づかれていない。


「どうしたんだ」

「なんでも、ない」


 問うような視線に、紅絹はこわばる顔に必死に笑みを浮かべたのだった。





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