続、緋衣鬼譚

壱、



「おう、紅絹もみ。よく眠れたかい?」


 あの日、全部が終わって、知らない部屋で目覚めたとき。


 すべてが夢だったのではないかと不安に駆られた紅絹に、「兄になる」と言ったあのヒトは、当たり前のように声をかけてくれた。

 その、少しからかうような笑みがどんなにうれしかったか、きっと一生わからないだろう。






 **********









 唯人であれば到底入り込めない森の奥深く。

 密集する木々の合間に唐突に区切られた垣根を一つ越えれば、そこにあるのは別天地のように、丹精込めて手入れをされた庭とちょっとの畑と馬小屋。

 それに囲まれるようにしてぽつんと立つ茅葺かやぶき屋根の家が、今の紅絹の住処だった。


 紅絹は、様々な草木が植えられた庭に面した縁側に座り、ぼんやりと池や花々を眺めていた。

 季節はもう真冬に入り、森は雪深くなっているのだが、庭は薄く雪化粧する程度なのが不思議だ。

 植えられている草花も、紅絹の知っている山中に生息しているものから、明らかに人の世では見られないだろう変わった花を咲かせる木もある。

 どこから水を引いているかわからない池にも時折、不思議な形をした生き物が紛れていたりする。


 そんなところは妖怪の屋敷らしいと紅絹は常々思っていたが、そんな場所に己が生活していることも、自分がその妖の側に立っていることも、あれから一月以上経つ今でさえまるで実感がわかなかった。


 紅絹はそろりと自分の頭を撫で、両のこめかみの上あたりから生える角を確かめた。

 それは紅樹とのつながりを証明する大事なものだ。

 これが無ければ今でも信じられなかっただろう。


 自分が人をやめて鬼になったことなど。







 

 紅絹はこの屋敷で目覚めて以来、ずっとまどろみの中に居るようだった。


 起きていてもぼんやりとしてしまい、一日のほとんどを眠って過ごしている。

 何とか起きていようとしても不意に強くなる睡魔にあらがえず眠ってしまう紅絹を、紅樹はとがめだてすることなく、むしろ進めているほどで、気が済むまで眠れば良いと言う。


「眠い眠いと思うのは体と心が力を蓄えたいと言っているんだ。どうしても仕事をしなきゃいけねえわけでもなし、そのうち起きられるようになるから、今は素直に寝るがいいさ」


 あれほど深かったはずの傷は目覚めた時にはすでになく、病気でもないのに眠っているのは気が咎め、家のことも手伝いもせずにいて怠けものと追い出されてしまうのではと不安になっていた紅絹に、紅樹は柔らかく笑う。


「それにな、紅絹。お前さんは俺の妹になったんだから俺が見捨てることはねえし、働かねえからと言って追い出すこともねえ。お前の一番の仕事は、俺のそばで元気に笑って甘えることだぜ? ちゃんと大事なことはできてんだから心配しなさんな」


 頭を大きな手でくしゃくしゃにかき回され、その時の紅絹は不承不承うなずいた。

 そのやり取りで、少なくとも紅樹は紅絹の今の状態に不満はないらしいとわかったが、今までされてきた村での扱いとは全く違う紅樹に紅絹はとまどい、途方に暮れていた。





 鬼の体は丈夫らしい。

 深々と雪降る中でも、少し寒いなと思う程度で濡れ縁に居られる。

 紅絹が縁側の柱にもたれかかり、ひたすら遠くの森に白い雪が降り積もる様を眺めていると、腰のあたりの着物を引っ張られた。


 振り返ると、そこにいたのは両てのひらほどの大きさをした真っ黒い毛玉が三つ。

 だがそれには子供が気まぐれに描いたような細い手足が付いており、その手が遠慮がちに紅絹の着物を引いていたのだった。


 毛足に埋もれがちなどんぐりのように丸い目でしきりに訴えかけるように見つめられ、紅絹はわずか笑んだ。


「ああくろ坊達。昼餉の支度が出来たから教えに来てくれたんだね」


 ありがとう、と彼らの黒い頭を順になでると、彼らは気持ちよさそうにころころ転がった。


 屋敷のいたるところに何十匹と居るこの黒い毛玉は、小さな体で屋敷中の家事をこなしてくれていた。

 それこそ紅絹の手伝う隙もない仕事ぶりなので、手を出すことはあきらめている。


 だが、眠気もだいぶ収まった今感じるこの悩みの贅沢さに、紅絹はもやもやとした憂鬱さが胸中を渦巻くのを感じていた。






 茶の間には二組の箱膳が置かれ、一方の箱膳の前には色の濃い格子柄の着物を着て片膝を立てて座る紅樹がいた。

 毎日どこかへ出かけていく紅樹だったが、三度の飯は必ず紅絹と共にするし、出かける時もちゃんと紅絹へ一声かけていく。

 少なくとも、紅絹が目を覚ました時に居ない、ということはなかった。


「よう、紅絹。今日は眠くなさそうだな」


 どう返していいかわからず、こくりとうなずくので精いっぱいの紅絹を気にする風もなく、紅樹は「飯食うか」と紅絹を促した。


 いまだに兄妹という間柄になじめず、どうしてもよそよそしくなってしまう紅絹を、さりげなく気遣う紅樹に申し訳なさが募る。


 散ってしまうはずだった命を救われた、どうにか恩を返したい。

 その道が何か、いまだにわからなかった。







 この屋敷に来てから毎日が驚きの連続だったが、くろ坊達のこしらえる食事もその一つだ。


 妖でも腹はすくのは意外だったが、日に三度食事をするばかりか、朝から煮物などのおかずが付き、昼には必ず魚が出る。

 時には獣の肉でさえ。

 その時は思わずごくりとつばを飲み込んだもので、そしてご飯は毎日輝くような白米なのだ。

 村にいたころは日に二度がせいぜい、おかずの一日一品つけばいいほうで米なんてもってのほか、粟や稗に大根を刻んで混ぜた糧飯ばかり食べていた紅絹には眩しいばかりだ。


 しかも、くろ坊達の細い手で作られた料理はどれも絶品で、紅絹は動いてもいないのにご飯を毎回おかわりしてしまう。


 そして今日も先ほどの鬱屈した気持ちを忘れ夢中になって食べていたが、紅樹が淡い笑みを浮かべつつじっとこちらを見つめているのに気付き、面食らった。


「な、なに?」

「いい食べっぷりだと思ってよ。こっちも箸が進むねえ」


 紅絹はさっと朱に染まった顔でうつむいた。

 からかわれているわけではなく、紅樹は思ったことを口にしただけであると、ひと月共に暮らしていればなんとなくわかる。だが今の紅絹は無駄飯食いをしている気がしていたから少し堪えた。


 うつむいた紅絹のその明らかに落ち込んだ様子に、紅樹が困ったように苦笑していることを、紅絹は知らない。


「ところで紅絹、最近どうだ?」

「いえ、別に……」


 と、咄嗟に言いかけた言葉を紅絹は止めた。

 毎日顔を合わせているのだから、変わったことなどないことは、紅樹にもわかっているはずだ。


 ならば求められているのは別のこと。

 顔をあげると、紅樹は黒々とした瞳で何かを待つように静かに紅絹を見つめていて、ふいに、紅絹はこの一月ずっとそうだったことに気付いた。


 紅樹はずっと紅絹の考えがまとまのを、言葉を待っていてくれている。

 不意に、紅絹はもうここは村ではないことを思い出した。

 全てを封じ、紅絹のすべてを”無い”ことにされていた村ではない。


 もう自分の思っていることを口に出してもいいのだ。

 紅絹は、思い切って常々思っていたことを口にした。


「少し、暇です」


 声は小さく、遠慮が抜けなかったが、ちらりと見上げた紅樹は満足そうに口角を上げていた。


「そうか、暇か」

「はい、でも、村では暇なんてことなかったから。こんなこと感じるのが初めてで、心が空っぽになったみたいで、何をどうしていいかわからないんです」

「まあ、あれだけのことした後だもんな。気力も体力も全部使い果たしたんだ。それもおかしなことじゃないだろう。今、できること、したいことをちょっとずつやればいい」

「私のしたいこと……?」


 紅絹は途方にくれた。もはや箸は完全に止まってしまっている。


 七年前にすべてが変わってしまってからは、恐怖に惑い夜におびえているだけで時は過ぎていったし、その後はずっと狒々を倒す方法を考え、山を走り、家に帰れば家の手仕事を怒られながら覚えていたから、何時でも時間は飛ぶように過ぎていた。

 幸か不幸かそのおかげで、針仕事だけはうまくなったが、自分のしたいことをして遊んでいたのは遥か彼方の記憶だ。

 ずっと生き延びることしか考えていなかったから、あのころはどうやって日々の遊びを決めていたのか、思い起こすことすら難しかった。


 そんな紅絹の困惑は伝わったようで、紅樹はこう続けた。


「まあ、わからないっていうんならそうだな、草紙でも読んでみるかい?」

「私、字が読めません」

「なら手習いから始めてみるか。俺がおしえてやるよ」


 予想外の提案に、紅絹は戸惑った。


「でも、」

「文字が読めるようになるのは興味がないかい?」


 文字を習っても使う機会がないと遠慮した紅絹だったが、そう聞かれて迷ってしまった。


「……あります」


 正直に言うと、紅樹は嬉しげににんまりと笑った。


「じゃ、きまりな。あと俺に敬語はいらねえからやめような。こそばゆくって仕方がない」

「はい……あ」

「それも練習しねえとな」


 思わずつけてしまうのを可笑しげに笑った紅樹に促され、紅絹は少し冷めたご飯を食べ始めた。

 自分の言葉を否定されることもなく、あっけなく受け入れられて拍子抜けした代わりに、胸がじんわりとあたたかかった。







 **********









 紅樹の行動は素早かった。


 昼食の後、紅絹にあてがわれていた畳敷きの八畳間にくろ坊達がせっせと文机を運んできたかと思うと、紅樹はどこから出してきたのかと目を疑うような量の絵草紙や手習い草紙を両手に抱えてやってきた。


「まずは”いろは”から覚えんのが良いだろうが、眺めるだけでも楽しそうなのを持ってきた。墨と硯はこれ使え」


 嬉々として道具を整えていく紅樹に、紅絹は目を白黒させつつ教えられるがまま、受け取った硯に墨を擦りはじめたが、そこでその硯箱が真新しいことに気付いた。


 墨は紅絹が紅樹に手をとられつつぎこちなく摺りはじめるまで使われていた様子もなく、筆など筆記用具一式を収めることができる箱には漆の上に螺鈿細工でかわいらしい蝶と花が描かれている。


 娘の好みそうな絵柄のそれが、紅樹のものとは到底思えない。

 草紙の中身もほとんど文字の少ない簡単なもののようだったから、これらの物すべて、紅絹のためにそろえたということになる。


 この嬉しそうな顔からして世話を焼く機会を狙っていたのだろうか。

 初めから無理攻めにせず紅絹の心が整ってから行動したことに、この奇妙な関係を本物にしようという紅樹の意欲を紅絹は感じた。


「これ……」


 その一言で言いたいことがわかったのだろう、紅樹にぽんぽんと頭を撫でられた。


「別に、大したことじゃねえよ。妹の願いをかなえるのも兄の役目だ。……筆箱は勝手に選んじまったけど、気に入らなかったかい」


 困惑が顔に出ていたのだろうか。紅樹が申し訳なさそうに眉を下げるのに紅絹は慌てていった。


「ううん、そうじゃないの。可愛いと思う。ありがとう」

「どういたしまして。よし、まずは”い”から始めるか」


 紅樹に促されて紅絹は、わずかにためらいながらも美しい筆をとった。

 可愛いし、気に入ったのも確かだが、見るからに上等そうなそれを自分が使うのは分不相応だと感じてしまう。

 だが、紅絹が「可愛い」といった時に紅樹があまりに嬉しそうだったから「もったいない、使えない」とは言えなかったのだ。

 それに自分のものだと言われた贈り物は紅絹もたとえようがないほどうれしかったから、これっきりにしてもらえばいいと言い訳をして心をなだめた。


 きっとこういうのは特別なのだから、大事にすればいいのだ。

 だが、このときの紅絹は紅樹の”かまいたがり”を少々見くびっていたのだった。







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