肆、




「あーあ。この煙管気に入ってたんだがねえ。まあ思わず二匹分の血が手に入ったし、良しとするか」


 目の前で起こった信じられないような出来事の衝撃が抜けず、少女は男が残念そうに狒々から煙管を回収するのをぼんやりとみていた。

 煙管と壺をそれぞれ帯と懐にしまった男は、先ほどと同じように少女の前に片膝をついた。


「さてと、先の続きだが」


 少女に話しかける男がたった今二匹の狒々を狩ったとは思えないほど何ら変わりがなかったから、少女も先ほどと変わらず男を見返し、先を促すことができた。


「お前さんの戦いぶりは感心したんだが、最後のとどめの刺し方はそりゃあ危ない綱渡りだった。そこでちょいと疑問ができた」


 こんなひとに、たかだかちっぽけな自分を疑問に思うことがあるのか。

 一呼吸置いた男は、問いかけてきた。


「あの時、お前さんは狒々を道連れに死ぬつもりだったのかい?それとも生き残るつもりだったのかい?」


 死にかけの人間に酷なことを聞くなあと、少女は他人事のように思ったが迷わずに答えた。

 もちろん、最後の最後まで生き残るつもりだったと。


「ならば、生き残った後は?好いていた男は別の女を選んでいるんだろう? しかもお前のお父つぁんは人買いに売るつもりとも言っていたな。誰も待つ人がいないとわかっていて、それでもあの村に戻るつもりだったのかい?」


 更に容赦なく問いかける男の表情は全く読めなかったが、少女には男がただの興味本位で聞いているだけとは思えなかった。

 だが、興味本位でもいい、と思う。

 最後に誰かに想いを知ってもらえるなら何でもいいと、少女はじくじくと痛む心をそのままに、彼らの記憶を思い返した。






 少女が蔵に閉じ込められていた時に、食事を差し入れてくれたのは幼馴染の青年だった。

 小さなころから仲良くしていたからという理由で、村人から両親から押し付けられていたらしいが、律儀に毎日持ってきてくれていた。

 そして蔵から出た後もそれは形を変えて続き、誰もが少女を無いものとして扱う中、青年は顔を合わせれば話しかけてくれたのだ。


 それに安らぎと淡い思いを抱いたのは間違いない。

 だが己のことで手いっぱいで、それ以上に想うことはできなかった。


 それは青年も同じだったろうと思う。

 だが、幼馴染を気に掛ける程度のことが少女が異常だったばかりに周囲が誤解し、そこまでするのなら勝手に一緒になるのだろうと思い込んだのだ。

 淡くとも青年を想っていた少女は青年にその気がないことも悟っていたが、青年は村人の冷やかしに曖昧にはぐらかすだけだった。


 否定しても無駄な雰囲気だったが、それでも少し、期待したのも確かだ。

 それも青年が自分に興味を向けていないと気づくまでのことだったが。

 その相手が長者の娘で、しかも夜這いまでしているとは知らなかったが、青年が少女を想わないと決定的になった時、村に未練はなくなった。


「つまり、村に戻るつもりはなかったと」


 男の確認に、少女は祭儀場の近くに隠しておいた着替えと荷物を思い浮かべた。

 もし狒々に勝てたときは、それをもって都へ行くつもりだった。

 もともと継父に追い出されるか売られるかは時間の問題だったし、村に良い思い出もごく少ない。

 将軍様のおひざ元はそれは大きい都になっていると聞く。

 ならば何もわからずとも都に出て、奉公先でも針仕事でも見つけて暮らしてみようと思っていたのだ。

 なにより村以外の空の下にいったい何があるのか。

 この目で見て、聞いて、歩いてみたかった。


 それもかなわぬ夢になってしまったが。


 朦朧としてきた意識で、少女はいよいよ己の死期が近いことを悟っていた。

 痛みが遠のいているのがありがたい。自分の想いを知っていてくれるヒトにも恵まれた。

 できれば煮え切らなかった青年を一発ぶん殴りに行ければと思うが、今だいぶ満足してしまっている自分では化けて出るには弱いだろう。


 支えるのが億劫になっていた上半身を横たえようとしたら、男におとがいを持ち上げられた。

 もう話せることはないのだが。

 少しは負担が軽くなったものの、少しの不満も込めて男を見上げると、喜色満面の笑顔に出会い、その笑みの艶やかさに目を見張った。


「いいねえお前さん、気に入った。俺の妹にならねえか?」

「は……ゲホッ、ゴホッ!!」


 予測をはるかに超えた言葉に思わず声が出たが、こみ上げてきた物に激しくせき込んだ。

 男もさすがに慌てて、羽織ごと少女を抱き起すと落ち着くまでその背をさすってやっていたが、その表情は己の思い付きに終始楽しげだった。

 大量の吐血をして消耗しつつも落ち着いた少女は、上機嫌の男に視線だけでどういうことか問いかける。


「俺の種族はちょっとばかし特殊でよ。俺の血を飲むと眷属――仲間になる代わりに強い体を手に入れられるのさ。ただ、血が合わねえと体中の血管が破裂して死んじまうし、体が変わる痛みに耐えられねえ奴もいる。俺もめんどくせえしめったなことじゃ眷属なんて作らねえが、お前さんの折れてもただじゃ起きねえその気風と魂が気に入った。このまま死なせるには惜しいんだよ」


 少女は突然示された別の道に混乱し、戸惑いながらも男を見上げ続ける。


「まあ、妹っていうのは眷属になった後の俺の希望だな。実際は俺の子になるんだろうが、お前さん、父親にいい思い出がないだろ? 嫁っていうのも悪くねえが口説いてもいねえうちからそれは俺の主義に反する。何より俺はお前さんをどろっどろに甘やかしてみてえんだよ。笑顔になったらどうなるか。楽しいと思ったらどうするのか。それがすげえ知りたくなった。それならずっと一緒に居られる兄でいるのが一番だと思ったわけさ」


 堂々と言い切った男に少女は今が死にかけで良かったとちらりと思ってしまった。

 でなかったら気恥ずかしさとどうしようもない嬉しさに、身もだえして顔も上げられないくらい真っ赤になっただろうから。


 長年一緒に居た母でさえ、優しい言葉をかけてくれたことは数少ない。

 それなのに出会って間もなく、しかも生まれ育った村を見捨ててまで自分の生を優先した

 泥臭く生き汚いだけの自分をこの男は気に入ったと言い、兄になって甘やかしたいとまでいう。

 実際、少女を抱き起す手の爪はすでに短く優しいし、少女を見る瞳もよく見れば人と違うのにやわらかい。

 この鬼は本気なのだ。


 自失から立ち直った少女は気づいていた。

 少女がずっと恐れていた狒々を簡単に殺してしまうほど強くはるかに恐ろしいだろう男に、狒々に感じていたような恐怖も怯えも感じず、親しみさえ覚えていることに。

 そしたら、胸の奥からこみあげてくるものを抑えられなかった。



 ずっとずっと耐えてきて、ここまでやり遂げたのだ。

 やっと自由になれたのに、これで終わりなんて嫌だった。

 どうしようもない。もう駄目だと思っていても、できるものなら生きていたい。


 死にたくないと、叫びたかった。



 男が妖なのに怖くなかった時点で、少女の腹は決まっていたも同然だった。

 その心を読み取った男は、だが念を押すように問いかける。


「人をやめても生きたいかい?」


 その問いに、少女は迷わずうなずいた。

 基より人の身に未練などない。

 姿がどんな異形になろうと、己の心が変わらなければ十分だ。

 それに男と同じものになるのなら面白そうだとも思う。

 男に生える2本の角は、少女には触ってみたくなるほどきれいに見えたのだ。


「つくづくお前さんは面白いなあ」


 測らずとも褒められた男は、満更でもなさそうに微笑した。


「俺は紅樹ひるぎっていうんだ。お前さんは?」


 少女は久しく呼ばれなかった己の名前を最後の力を振り絞って唇に乗せた。


……」

「ますます良いねえ、名に同じ紅が入っているなんざよっぽど縁があるんだな。

 きっといい兄妹になれるぜ」


 男――紅樹の言葉に紅絹はわずかに笑みを浮かべた。

 すでに紅絹の焦点はあっておらず、呼吸も浅く、弱弱しくなってきている。

 もはや一刻の猶予もないのは明らかだ。

 紅樹は己の唇を自身の牙で噛み切ると少女をそっと抱き寄せる。

 血を与えられると聞かされ、指の傷でもなめるのかと思っていた少女はかすむ視界でも唇を血で鮮やかに染めた紅樹の艶めかしさに死にかけでもうろたえた。

 その動揺はわかっているのだろう。

 おかしげに喉で笑っていたが、頤をすくい顔を近づけるのを止めることはない。


「こっちのほうが具合がいいんだよ。良い子だから口開けな」


 あやすように言われ、もう抵抗する気力もない紅絹がおずおずと口を開くと、紅樹はやさしく唇を合わせた。

 途端、するりと舌が入り込んできて、己のそれと絡められ紅絹はわずかながらもおののいた。

 紅樹の舌が動くたびにとろりとしたものが紅絹の口腔にあふれていく。

 鬼の血は甘いのか。

 未知の感覚にわななきながらも、紅絹はこくりと飲み干した。

 細い喉が上下するのを確認した紅樹が唇を離した途端、紅絹の体が跳ねた。


「はっ……く!」


 今にも止まりそうだった心臓が紅絹の血が体内に滑り落ちた途端、痛いほどの勢いで強く鼓動を刻み始めた。

 それに合わせるように感覚の薄れかけていた指の末端にまで熱が広がり、焼けつくようなそれに紅絹はあえいだ。


「あぅ、……はあぁっ!!」


 額に浮かぶ玉のような脂汗を紅樹に拭われたことすら気づかない。

 まるで皮膚の内側の肉や骨をすべてとかされ、別のものにつくりかえられているような痛みが全身を襲っていた。


 事実そうなのだ。


 紅絹は痛みが激しくなるごとに、人の部分が消えていくのを感じていた。

 血の効果が出始め、砕かれた肩や、折れた足が逆回しのように戻ってゆく。

 痛めつけられていた内臓も荒れ狂うように動き回り、その変化にびくびくと陸に上がった魚のように紅絹は震えた。


 紅樹はその変容の速さと滑らかさに感嘆していた。

 通常はのたうち回るような痛みが一時は続くものだ。

 だが、紅絹は痛みにあえいではいても紅樹の腕に収まり、半刻もたたないうちに変化を終えようとしている。


「よほど鬼の血に気に入られたのか。俺との相性が良かったのか」


 後者だといいねえと、紅樹はつぶやき苦悶する紅絹をあやすように撫で続ける。

 紅絹は全身の痛みに朦朧としながらも、こめかみの上あたりから湧いてくる奇妙なむずがゆさに気付いた。

 それは、メリメリと肌を裂き、両側から盛り上がってきたが、紅絹は割れるような痛みと同時に束縛からか解き放たれるような爽快感を味わっていた。


「あ、うあああぁ―――っ!!」


 一際高い悲鳴を上げた直後、不意に終わったことを知った。

 生命の危機は去り、全身の重い倦怠感が残る。

 痛みも徐々に引いていくのがわかったがまるで実感がわかず、定まらない焦点で紅樹を探した。


「ひる、ぎ……?」


 不安のまま名を呼ぶと、紅樹は安心させるように微笑した。


「おう、よく耐えたな。かわいい角が生えてるぞ?」


 いたわるように撫でられた頭に、指が触れるたびにひどくくすぐったい部分があって、紅絹は角が生えていることを知り、ほっと安堵の溜息をついた。

 死ななかった。これからも生きていられる。

 途端、疲れ果てた精神が休息を求め、紅絹は急激な睡魔に襲われる。


「今までよく頑張ったな、紅絹。後は俺に任せて眠りな」


 ただ呼ばれる名前が特別に感じられたのは初めてだ。

 ずっと欲しかった言葉に、紅絹は涙をこぼして目を閉じた。






 妹となった紅絹の安心したような寝顔をしばらく愛でた後、紅樹は羽織で大事にくるむと横抱きに抱えて立ち上がった。


「後で俺の妹を二番手にしやがった馬鹿を一発殴りに行かねえとな」


 紅絹の話だけで、弱った心に付けこみ紅絹を長者の娘との密通の隠れ蓑にした青年のあさましく傲慢な考えを紅樹は見通していた。

 紅絹は好意的に解釈していたようだが、確信犯なのは間違いないと紅樹は断じている。

 妹になる前とはいえ許せねえよなあと、紅樹は凶悪に笑うが紅絹がもぞりと身動きしたことで、それはとりあえず置いておくことにする。


「まずは落ち着いて寝られる場所に移動しないとな。―――まったく、不思議な縁もあるもんだなあ。だから生きんのは面白れえ」


 これからどうやってかまってやろうか夢想しつつ、紅樹が何気なく一歩踏み出した途端、その姿を覆い隠すように雪が濃密に吹雪き、それが収まったころにはすでに彼らは消え失せていた。

 あとはしんしんと降り積もる白い雪が、すべてを覆い尽くしていった。







 

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