参、

 

 暗雲垂れ込める空は静かに淡々と、すべてを凍らせるように雪を振り落していた。


 重なり合う枝葉と、狒々の巨体が緩衝材となったおかげか、少女はこと切れた狒々の遺骸のそばで目を覚ました。


 ああ、終わったのか。


 凄まじい形相でこと切れる狒々の顔をみて、真っ先に思ったのはそんなことだった。

 罠で姿をくらませ、狒々に気付かれぬうちに祭儀場まで取りに戻った大包丁は、狒々の腹に見事突き立てられている。

 刺し貫いた時に鮮やかな血を全身に浴びて、白かったはずの襦袢は赤く染まっていた。

 その気色悪さに顔をしかめ、だが、長年の悲願を果たせたことを喜ぶ間もなく、移動しようと腕に力を入れようとする。


 周辺にはすでに雪が降り積もり、必要だったとはいえ衣服を手放している今、こんなところでぐずぐずしていたら凍死する。せめて、一番近くの隠れ場までいかねば。

 だが、うつぶせに横たわった状態のまま、指一本動かせない。


 それも当然のことだった。


 満身創痍の中、崖から転がり落ちたのだ。五体満足でいるほうが不思議なくらいだった。

 事実、貫かれた左肩は先程狒々に砕かれて用をなさなくなっていたし、足も折れているのか痛みというよりは熱のような感覚を覚えている。

 疲れ切り痛めつけられた体は、少女の意志とは裏腹に活動をやめようとしていた。


 全く動かない体に焦燥を感じていたが、そこで奇妙なことに気が付いた。

 夜空からは積もる勢いで雪が降っているのに寒さを感じないばかりか、少女の周りにだけに何か覆いがかかっているかのように雪が積もっていないのだ。


 血を失い、ぼんやりとする頭でも妙だと思っていると、この寒空なのに足袋に草履をひっかけただけの男の足が視界に入る。

 村人は家々に閉じこもり斎戒をする決まりだからこんなところには絶対に出てこない。

 そもそもここは道もない山中だ。

 なぜ人が、こんな場所にいる?


「全く、世の中何が起こるかわかんねえもんだなあ。―――お前さん、まだ生きているかい?」


 何やら上機嫌な様子で声をかけられて訝しげに視線をあげると、こちらをのぞき込んでいたのは、暗い色の着流しに暗がりでもわかる鮮やかな赤橙色の長羽織をひっかけた、端正な顔立ちの男だった。

 髷を結わず、長い髪をうなじでゆるりと括った男は、狒々ほどではないが、それでも見上げるように背が高い。

 だが、こめかみの少し上のあたりから艶やかな黒髪をかき分けるように二本の角が伸びていて”鬼”と呼ばれる妖だと知り、少女はもう迎えが来てしまったのかと思った。


 あんな神でも殺せば地獄へ連れていかれるのか。


 男は始め面食らった様子だったが、失敗したとでもいうように苦笑した。


「あー狒々の血を浴びたせいで俺の隠形が効かねえのか。いやいや、鬼は鬼でも獄卒じゃあねえから。お迎えにはちょいと早いさ」


 まるで意思が伝わったかのようなその言葉に少女は面食らう。


「いやあ、それにしても凄まじいもんだったな」


 目が合うと男はなぜか嬉しげに眼を細め、片手に持つ煙管を帯に挟み込むと少女の前に片膝をついた。


「酒に附子を盛って弱らせた挙句、仕掛けた罠で攪乱。更にはおとりを使って隙を作り、自らぶすりと刺しに行くなんざ大の男でさえやる前に逃げちまいそうな所業だ。それを弱い娘っ子一人でやりきるたあ、恐れ入ったぜ」


 その言葉で、少女はこの男が時折感じていた視線の主だと悟った。

 明らかに妖の男に咄嗟に狒々の仲間かと考えた少女が警戒心もあらわに睨み付けると、男は心外そうに形の良い眉をしかめた。


「あんな変態猿公と一緒にしないでくれよ。俺はあれよりはるかに強え妖怪だぜ?

 それに女は自分で口説いて何ぼだっての」


 やはり男は少女の心が読めるようだ。

 だが、声を出すのさえ億劫な今は楽ができてちょうどいいと思った。

 ならばなぜ、そんなに強い妖がこんなところにいるのか――。

 男はそんな問いをしてきた少女を面白げに眺めながら答えた。


「一等鮮やかな緋色の着物が欲しくてな。なじみの呉服問屋に聞いたら狒々の血が一番だというから、ちょいと遠出代わりに狒々狩りに来たのさ。そしたら狒々が神さま気取りで生贄を要求しているときたもんだ。いただけねえが、ずるがしこい猿公に会えんのは手間が省けるってもんで、あの祭儀場近くに潜んでいたんだが。そしたらお前さんの反撃があんまり見事だったもんで手を出しそびれちまってなあ。どんな結末になるのか気になって見届けさせてもらったんだよ。悪く思わないでおくれ」


 見てはいたが、助けはしなかったと臆面もなく言う男に、恨む気持ちは沸いてこなかった。

 もしこの男が言う通り強い妖で男の手によって助けられていたら、ここまでの傷は負わなかったかもしれない。

 だが、そうしたら狒々への負の感情を消化しきれずに、またあの悪夢に苦しめられたことだろう。

 それに、口では言っていても要所要所でかく乱を手伝ってくれていたのだと少女は直感していた。

 ならば時折あった狒々の奇妙な行動にも納得がいく。

 むしろそんな回りくどいことをしてまで、少女の仇討を邪魔しなかったことに感謝したいくらいだ。

 少女の返事に男はくつくつと笑うと、少し爪の長い手でさらりと少女の短くなった髪をなでた。


「良い覚悟だ。やっぱり邪魔しないでよかったな」


 撫でられることなど久しぶりで少々照れくささを感じていたが、髪の短さを意識した途端あることに気が付いた。

 男が初めから祭儀場近くに潜んでいたのなら、少女が狒々にさんざんまさぐられているところも余さず見られていることになる。

 狒々を油断させるために言いなりになっていたとはいえ今更ながらに羞恥心がこみあげてきて、顔に血が上るのがわかった。


「覗きで喜ぶような趣味はねえよ。ったく、お前さん死にかけてんのに気にするのはそこかい?」


 思わず恨みがましくじとりと睨むと、呆れたように男にそう返された。

 確かに、そんな場合ではないのは重々承知していた。

 だが、狒々を殺したことで七年ぶりに張りつめていたものが解け、普通のことを普通に気にする余裕ができて、何の気兼ねもなく会話ができることに少しはしゃいでいるのだ。


 この状態では、医者にかかれたとしても助からないだろう。

 それなら、せめてこと切れるまで他愛のない話をしていたい。


 少女がそう願うと男は苦笑をして何かを言いかけたが、ふいに顔をあげた。

 そのままゆっくりと立ち上がった男に、立ち去るつもりと思った少女は酷く残念に思ったが、ほどなくどどっどどっっと大地でさえ揺れるような大量の足音が聞こえてきて驚いた。

 これはただ事ではないと無理にでも起き上がろうとすると、諌めるように男の羽織っていた赤橙色の長羽織をふわりとかけられた。


「お前さんに聞きてえこともあるし話をするのもやぶさかじゃあねえが、どうやら邪魔が入るみてえだ。ついでに用事も済ませちまうから、大人しくしてな」


 かけられた羽織は一枚だけでとても暖かいばかりか、丁寧に香が焚き染められているようで落ち着く良い香りがした。

 明らかに上等そうなそれを今の自分にかけたら血まみれになるのではないかと気が気ではなかったが、地響きをさせながら猿の大群が現れてそれどころではなくなる。


 百匹は居るだろう猿たちが騒がしく鳴きながら男と少女を取り囲むと、その後ろから夜の闇に溶け込むような黒い毛並みにしわくちゃの赤い顔をしたの狒々が二匹、現れた。

 比較的無事な右腕を支えに体を少し持ち上げそれを目の当たりにした少女は狒々が一匹ではなかったことに愕然とした。


 自分が曲がりなりにも狒々を殺せたのは狒々が最後まで侮っていたこと、入念な準備と覚悟の上で不意を打ち続けられたからだとよくわかっている。

 満身創痍の少女にすでになすすべなどない。


 村も変わらず、自分は贄のままなのか。


 抗いきれたと安堵した直後なだけに無念やるかたなく、少女は悔しさに涙をこぼしそうなのを唇をかみしめて堪え、男と狒々のやり取りを見つめた。




 **********






 二匹の狒々は男に気付くと訝しげにじろじろ眺めまわした。


「なぜ、鬼がここに居る?」

「ここは我らの土地ぞ?なぜ都かぶれの鬼がここに居る?」


 明らかに馬鹿にするような物言いにも、男は口元に曖昧な笑みを浮かべるだけで何も言わない。

 悠々と煙管に煙草をつめ、どこからともなく火をつけのんびりと紫煙をくゆらせている。

 だが、ほどなく走ってきた子分猿の報告を聞き、

 己の仲間の死を知った狒々たちは歯をむき出しにして殺気立った。


「兄者を殺したのはお前か!!」

「いんや、あれを殺したのは俺じゃねえよ。別のようでたまたま通りかかっただけさ」

「ではなぜ七年に一度の贄を取りに行った兄者が死んでいる!!」


 今にもつかみかからんばかりの狒々にも動じずのんびりとした雰囲気を崩さない男が、少女のことを曖昧に答えたことを少女は意外に思った。

 この男がどの位強い妖なのかわからなかったが、多勢に囲まれたこの状況でいったいどういうつもりなのか。

 思えば寒さと雪を退ける妙な術を施したのも男だろう。

 まるで、守っているような行動に少女は戸惑っていた。

 だが、狒々が鼻をひくひくとうごめかせると、何かに気付いて騒ぎ出した。


「兄者のだけではない、血の匂いがするぞ」

「これは人間の、しかも生娘の血の匂いだ」

「なんと、ではこの近くに贄の娘がいるのか!」


 二匹が口々に言い合うのに、少女は見つかったとひゅっと吐息を詰めたが、狒々たちはなぜか場所までは特定できないようでしきりに周囲を見回している。

 奇妙に思ってそろそろと男を見上げると、横顔しか見えなかったがわずかに舌打ちするのがわかった。


「ったく、人が隠しているってのに、獣は鼻がきくこって……」


 どうやら男は本気で少女を守る気らしい。

 少女が見ているのに気付くと視線だけで「出てくるな」と止められ、大人しく息を殺してやり取りを見守る。


 狒々たちはいらいらと足を踏み鳴らしていた。

 匂いでは手が届きそうなほど間近にあると断じているのに、姿が見えない。

 狒々たちに見えるのは地に広げられた長羽織と、薄い笑みを浮かべ煙管を吹かしている男だけだ。

 さんざんあたりを嗅ぎまわった末、ようやく男が隠した可能性に行き当たった二匹は赤ら顔をみるみる怒りの形相に変化させた。


「キサマ、我らの贄を横取りしたな!!」

「ここは我らの領域だぞ!たとえ鬼と言えど容赦はせん!」

「自分の縄張りを主張するならな、弱えもんを守ってからにしな。

 なんも知らねえ弱い娘をなぶり殺しにして悦に浸っているなんざ、程度が低いってもんだ。

 何より俺が気に入らねえ」

「「何だと!?」」


 火に油を注いでいるとしか思えない言いように、狒々たちは一層地を踏み鳴らして憤慨した。

 それに呼応するように子分猿らもキイキイと怒り出し、少女は気が気ではない。

 だが渦中の男は飄々とした態度を崩さず、紫煙を吸い終えると、煙管の灰を地面に落とした。

 それにますますいきり立つ狒々だったが、片割れは余裕を見せようとでも思ったのかわずかに怒りを収め、無理に笑みを浮かべるように顔をひきつらせた。


「偽りに気付かないニンゲンが悪いのだ。我らは妖らしく人をだまし、奪い取ったまでよ!

 殺しつくさなかっただけましと思ってくれねばな」

「そうじゃ、そうじゃ、都にしがみついて呪うばかりの鬼に言われとうないわ!

 とっとと娘を差し出して往ね!」


 片割れが唇をめくりあげてさもおかしげに笑うのに、もう一方の狒々も勢いづいて笑う。

 その嘲弄に男は小さくため息をついて、煙管を手の内でくるりと回した。


 だが、少女は己の肌にざっと鳥肌が立つのがわかった。


 その何気ないしぐさだけで男のまとう空気が全く別なものになったのに、狒々たちは全く気付かない。


「そうかい。なら―――」


 男が呟いたその瞬間。

 その手が掻き消え、初めに笑い始めた狒々の唇ごと煙管が頭を貫いていた。


「ヒ、ギャ……?」

「俺が強欲な妖らしく、染料欲しさにお前らを殺しても、悪くねえってことだな」


 頭を貫かれた狒々は数拍、何があったかわからぬように丸い目をぎょろりと動かしていたが、地響きをさせて崩れ落ちた。

 傍らでそれを見ていた一匹はあっけにとられていたが、理解した途端、雄たけびをあげて男を引き裂こうと手を伸ばすが、男の姿はすでにない。

 探す必要もなく、いつの間にか狒々の目の前まで飛んでいた男にすれ違いざまに太い首を掻き切られた。

 狒々が倒れこむ傍らに着地した男の、刃のように長く鋭く伸びた爪が狒々の血で鮮やかに染まっているのを少女は唖然と見ていた。


 瞬く間に巨大な狒々をに引き倒した男は大した気負いもなく懐から小さな壺を取り出すとふたを開けて狒々の死体に向ける。

 するとざあっと音を立てて二匹から鮮やかな血液が帯となって吸い込まれていき、男が頃合いを見てふたを閉めるころには死骸は一回り小さく干からびていた。


 時が止まったように動かなかった子分猿たちは男がついと流し見た途端、蜘蛛の子を散らすように逃げていき、また、男と少女だけの空間に戻った。

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