弐、

 空は本格的に曇り始め、吐く息は白く、胸に入る空気は刺すように冷たかった。

 だが息を切らして全力で走る今は感慨に浸っている間はない。

 この山の道は何年もかけて歩き回り体を慣らし地形を頭に叩き込んである上、今回の為にいろんな場所に目印を仕込んである。

 足元が木の根や岩で入り組んでいても、森の様子が見えるか見えないかでも、なんとか走り回ることができていた。


 だが、酒に毒を盛り、右足を深く傷つけられたといえ、狒々ひひの足から逃れることは難しい。

 少し休憩しようと足を緩めた矢先、びゅっと風を切るような鋭い音が間近でして、左肩に激痛が走った。


「うぐっ……」

「そこかあ……!!」


 思わず漏らした少女の声に気付いたらしい狒々の声がそう遠くない位置から聞こえ、少女はとっさに目印を付けた木の真下の茂みに転がり込んだ。

 じくじくと痛む左肩には不気味な硬度を保った狒々の白い毛が突き刺さっており、狒々が無差別にはなった体毛が当たってしまったものと思われた。

 青年が殺されたのはこれかと納得するも、少女は手当を後回しに狒々をうかがう。


「どこだあ!」


 幾分動きは鈍くなったものの、少女にとっては十分脅威的な速度で茂みをなぎ倒す音が聞こえてくる中、隠れた場所から飛び出して逃げたいのこらえ時宜を図る。

 そうして巨体がそこを通った途端、目印の横に貼ってある縄を切り飛ばし、あさっての方向へ飛び出した。

 たちまちゆるんだ縄はその力を忠実に樹上に張られた罠に伝えてその先に括られていた袋の口が緩み、中身である大人のこぶしはあろうかという石を大量にぶちまけた。

 一つや二つならともかく、数十ともなれば真下にいた狒々はたまったものではない。

 狒々はたたらを踏んだが、その足元が不意に沈んだ。


「ギャアア!」


 下生えや落ち葉で巧妙に隠されていた穴の底には先の鋭い木杭が幾本も上向きで待ち構えており、それを狒々は左足でまともに踏み抜き咆哮した。


 仕掛けた罠の効果を見る間もなく駆け出していた少女は背中で聴いた身の毛もよだつような叫び声に

 足止めができたことを知り、わずかばかり安堵した。

 だがそれでも痛みをこらえ、走る足を止めずに考える。


 酒に盛った毒は少女が自分で集めて煎じたもので大した量は作れず、狒々を殺すまでには至らなかった。だが、足に深手を負わせられたことも相まって、動きを鈍らせることはできた。

 今回の罠でさらに速度は落ちることだろう。

 狒々の強みである移動速度を初手で削げたことは少女にとって行幸だった。


 それでも勝利は絶望的だった。


 何より決定打が足りない。今唯一の武器である刃渡りが掌程度の懐剣では機動力を削ぐことはできても、致命傷を負わせることは酷く難しいだろう。

 何十日もかけて山中に仕掛けた罠も、足止めにしかならないのはよくわかっている。


 事前にいくつか用意しておいた隠れ場にたどり着き、警戒しながらも片袖を割いて血に濡れた左肩の手当てをするが、寒さと恐怖に手が震えた。

 息を深く吸い、わめき散らしたい衝動をやり過ごす。


 この七年、理不尽な恐怖は常にそこにあり、もはや親しい友人のようなものだった。

 絶望は毎日のことでそうそう恐慌には陥らない。

 あの地獄のような三年間よりはずっとましだと。







 **********






 アレを見てから少女の世界は赤と黒に塗りつぶされた。


 一年目は悪夢に泣いた。日中でも血の匂いと色が忘れられず、肉片となった娘を幻視した。


 二年目は血と暴力の影におびえた。水滴の音さえ血の滴る音を思い出し、暗がりに何か通れば、それがただの鳥であろうと恐慌状態に陥った。


 三年目になると狂人の烙印を押され、蔵に閉じ込められた。暗闇が間近の場所に一人残され、不安と恐怖に泣きわめき、こぶしが血に塗れるまで戸を叩いて助けを求めたが、肉親でさえ会いに来ることはなかった。



 己の恐怖をわかってくれるものなど誰も居ないのだと思い知らされ、孤独に身を引き絞られるようだった。

 一日一度の差し入れで命をつなぎ、わが身の不幸を嘆き悲しみ、来る日を指折り数えて怯え続けたが。





 閉じ込められて半年ほどたったある日、嘆くことに飽いている己に気付いた。




 涙を流そうにも頭の中に冷静な部分ができていて、意味のないことと断じてしまう。

 怯えて恐怖に震えることも、長くは続かなくなった。

 大人しくなったことで蔵から出されることになり、少女は久しぶりに広い空を見上げた。

 清々しく晴れ渡っているのが妙におかしくて、思わず笑っていた。

 危うく蔵に戻されかけた位だが、その時少女は狒々の事、そして贄になった娘たちのことを考えていた。


 姉のようだった娘も、今までささげられていた娘達も、贄になることを知ったのは祭りの寸前になってからで、己の不幸に泣く事が精いっぱいだっただろう。

 だが、自分は嘆きつくしてしまった。泣いてもだれも助けてくれないことも知ってしまった。

 ならば、自分で自分を助けるしかないじゃないか。


 破れかぶれであろうと悪あがきであろうと開き直った少女は、それから祭りの日まで生き残るための努力をした。


 何もせずとも死ぬのなら、殺す気で抗おうというのが少女の出した結論だった。

 蔵から出されてもいまだ疑惑の視線が消えなかったから行動の大半を狂人の奇行とされたため、かえって動きやすく、少女は最低限の家の手伝い以外、神の山を歩き回ることに費やした。

 狒々の姿を何度も思い返し吐き気や頭痛に襲われながらもやめることはなく、そうしてそこに狒々が住んでいないと気づいてからは、どうしたら巨大な敵に傷を与えられるかを考え有利に働くような罠を考案し、試行錯誤を繰り返した。


 生きたものを切ることに動揺しないよう、肉を裂くのがどんなものかを知るために率先して獣の解体を手伝いもした。

 そんな不屈の努力を続けても、周囲の理解は端から望まなかった。

 幼馴染の青年が村人の冷たい視線の中でも変わらず接してくれてほんの少し揺らぎもしたが、それでも狒々を殺そうとしていることは一切口にせず、そぶりすら見せないように徹底したのだ。


 言葉に出せば狒々に気付かれる可能性を考えたからだったが、それともう一つ。

 村人たちが聞けば、狒々の怒りを恐れ少女を監禁し、次の祭りに贄にするために飼い殺すことは目に見えていたからだ。

 それくらい村人たちが祭りに関しては何でもすることを、一度奈落に落ちた少女は肌で感じることができていた。


 自分の非力さも、敵の強大さも身に染みていたが、死に方を一人で決められるのは思いのほか気楽で、予想通り贄に選ばれた時は恐れもあったが、計画通りに行くという奇妙な安堵も覚えたものだ。


 だから、為すすべなくただ時が過ぎるのに怯えてた昔より、明確な脅威に対処しなければならない今のほうがずっといい。

 それが、狒々に対抗する手段の乏しい状態でも、取り乱したりせず冷静にいられる理由だった。





 **********





 少女は治療を終えると、隠れ場に用意しておいた草鞋を手早く足袋の上から履きつつ考える。

 本当は、酒に仕込んだ毒で狒々を殺せればと思っていた。

 すぐには倒れなくても、自らをおとりに仕掛けた罠に誘導し時間稼ぎをすることで自滅を呼び込むのが非力な少女でも勝てると見込んだ方法だった。

 しかしあの狒々の様子からして、自滅する前に少女の体力の限界が来るほうが先になりそうだった。

 別の方法も考えねばならない。


 まだ、罠はいくつかある。胡椒と唐辛子を粉にして小袋にしたものもまだ残っているが、それで殺すことは不可能だ。


 武器がいる。少なくともこの懐剣より大きなものが。


 あらかじめ用意できなかったのがひどく悔しいが、村で手に入るのは農具位なものだったから仕方がない。

 立った状態で少女の倍ほどはある狒々に刃を届かせる手立ても必要だ。


 策は思いついた。武器の当てもある。

 だが、ひどく危うくうまくいくかどうかは賭けに近い。

 それでいい、と少女は思う。

 何もせずとも死ぬのなら、己の命くらいかけてみせよう。


 そうして痛めた体でそっと隠れ場から抜け出そうとした少女は、途端ばっと振り返る。

 何かの視線を感じた気がしたのだ。狒々か、と思ったがあの生臭い匂いはしない。

 周囲をうかがうも、気配はない。


 ただの気のせいか。


 警戒しつつも移動を始めた少女の目は、その場から離れる影をとらえることはなかった。






 **********




 狒々のいらだちは頂点に達していた。

 追いかけ始めてからかなりの時間が過ぎたというのに、いまだ娘の柔肉を食むことができないばかりか、動きの悪い体のせいで罠に次々とはまり、娘を見逃す始末だった。


 少女に刺され、木杭に貫かれた両足が踏み出すたびにじくじくと痛み、怒りは増す。

 かけられた粉のせいで目鼻も効き難い。

 それをすべて獲物だと思っていた娘にしてやられたというのが許しがたい屈辱だった。

 捕まえた娘をどう嬲ろうか考えながら、いらだち紛れに手近な木々をへし折りつつ進む。

 その時、狒々の五感の中で比較的まともな聴覚が茂みをかき分ける音をとらえ、血走った目で振り向く。

 だいぶ視界はぼけていたが、遠くに白い布が翻るのをとらえた狒々は、凶暴な喜びに麻痺した顔面をひきつらせて笑った。


「見つけたぞお!小娘ぇ……」


 だが狒々は、追いかけることに夢中になるあまり、かすかに漂う紫煙の香りに気付くことはなかった。







 **********






 また下がったらしい気温と、失った血液のために低下する体温に震える体を必死に抑え、少女は息をひそめていた。

 狒々の執拗な追跡をかわしつつ、準備を進めるのはもはや無謀を通り越しており、体中に打撲や擦過傷を負った。

 更には一度狒々に危うく捕まりかけ、粉をなげてのがれたが、代わにまた降り飛ばされた影響で脇の骨が折れ、じくじくと痛んでいる。


 その直後毒の影響か錯乱したらしい狒々が少女を見失ったように明後日の方向へ追いかけてくれなかったらその時点で終わっていたと思うくらい危なかった。


 あまりの幸運にかえって不気味だが、今の少女はそういうものにすがり利用するほかはない。

 手当をした左肩も自己主張するように痛みは治まらない。

 肺は痛いほど呼吸を繰り返してもまだ足りず、断続的に走り続けている脚は限界を訴え続けている。

 これで狒々を殺せなければ喰われるだろうというのはよくわかった。


 準備はなんとかできたが、成功するかは五分。

 成功したとしても少女が生き残れるかはわからない。


 恐れを感じないわけではない。この一計ですべてが決まるのである、

 相手も弱っているとはいえ神とあがめられた巨大な生物だ。

 勝てる見込みの限りなく低い戦いはそれだけで少女を激しく消耗させ、少しでも気を弛めればあのころのように怯え狂うだろうというくらい心は追いつめられている。

 だが、と少女は手に持つ刃を柄を握りしめ、思う。


 見えない化け物に打ちのめされ続けた三年前よりずっとましだ、と。


 近づいてくる重い足音を聞き捉え、少女は息を殺して時を待つ。




 **********




 視界にとらえていたはずの少女が消え、狒々は気の狂わんばかりの怒りといらだちのまま

 消えたであろう地点まで走る。


 足を引きずって走る狒々に祭儀場に現れた時の余裕は微塵も無い。

 酒に仕込まれた毒は確実に狒々を蝕み、少女傷つけられた足は出血こそ止まっているものの本来の機動力には程遠い。

 しかも、妖術使いのように変幻自在に現れる少女にいいように翻弄され、山中に仕掛けられた罠によって決して浅くない傷をいくつも負わされていた。

 再度投げつけられた粉末によっていまだ嗅覚には異常をきたし、毒の影響か耳も目も怪しくなってきた。

 狒々の頭に、少女を喰おうという事柄はすでになく、ただ、この屈辱と怒りを収めるために奴を引き裂き完膚なきまでに叩き潰すことしか考えていなかった。


 狒々は、憎悪と執念で足を進めていたが、頭の片隅に追いやられていた理性がふと違和感を訴えた。

 今、狒々が走っているのは木々の密生した傾斜のひどくゆるやかな斜面で、それは負傷した足にも負担を覚えず下っている。

 だが、散々でたらめに走りまわされて感覚がくるっていなければここは山の中腹より上、山頂に近い位置のはず。

 怒りに我を忘れていた狒々だったが、元来の狡猾さをこの時だけは取り戻し、歩調を弛めた。

 すると数歩もしないうちに木々が途切れ、黒い雲の垂れ込めた空の広がる崖地の端にたどり着いたのだ。

 あのままの速度であったら間違いなく落ち、今のおのれでは生き残れたかも怪しい。

 眼下の黒々とした森林群にさすがに薄ら寒さを感じたが、狒々の関心はそこではない。


 ここで行き止まりならば消えた少女はどこへ行った?


 誤ってここから落ちたのか。いや、あの小賢しい娘のことだ。そうやすやすと落ちはしないはず。

 ならば、この近くにいるはずだ。

 赤く血走った眼でぎょろりと周囲を見渡すが、右手に現れた急な斜面や樹木の間を見回しても、今は人並みに落ちてしまった五感では見つけられず焦燥は募る。

 だが、隠れる場所があるとはいえ、しらみつぶしにしてしまえばいいのだ。


「できれば生け捕りにしてこの手で引き裂いてやりたかったが、まあいい。微塵にしてくれようぞ!」


 一体に毛針を片端から乱射しようとした矢先、ふわりと足元に落ちるものに注意をひかれた。


「雪、か……?」


 一粒が解けて去っても、白い結晶は次から次へと切れ目なく降ってくる。

 しばらくすれば降り積もるであろう勢いのそれに、なぜか意識を引かれ、はっとした。


 今までの罠はすべて狒々の死角である空から襲ってくるものが多かった。今回もそうだとしたら?

 ならばあの娘は昔と同じく木に登るに違いない!!


 狒々は樹木をふり仰ぎ、まさに真上の大樹の枝に白い着物を見つけて歓喜した。


「そこかあ!!」


 狒々が邪悪に声を張り上げた途端、不利を悟ったのか狒々に向かって落下してきたが、来るとわかっていて迎え撃てぬほど弱ってはいない。


 狒々は己の優位を確信し、その白い衣が赤く染まるようありったけの毛針をソレに向かって放出した。

 たちまち全身針鼠のようになりソレは体勢を崩した。


 だが。


 ずたずたになった着物の帯が解け、中からただの木の枝がばらばらと落ちてきて、ようやくそれが少女ではないと理解した時には遅かった。


 ドンッという重い衝撃を腹に受け、狒々は咆哮した。





 狒々から見て右手の急斜面の茂みに居た少女は、袷の襦袢一枚で転がるように斜面を駆け下りた勢いのまま、地を蹴った。

 これは狒々が上を見て脱いだ着物を巻き付けた木束に気を取られなければ意味がなかった。

 天候が味方をし、最初で最後の好機を全力で捉えた少女は、高低差もあって今は狒々と並ぶ高さまで持ち上がった体で、腰だめに構えたごと、振り返りかけた狒々に体当たりをした。

 耳をつんざくような叫びとともに狒々はよろめき、足を踏み外す。


 宙に投げ出される前に離れようとした少女だが、激痛と憎悪に顔をひきつらせた狒々が少女の左肩を握りつぶす勢いでつかんで離さない。

 骨が砕ける痛みに歯を食いしばり、少女は突き立てた刃で狒々の腹をさらに抉り裂いた。


「グオオオオオオオオォッッッ……!!」

「ああぁあああああぁっ……!!!」


 少女と狒々はもみ合いながら眼下の暗闇へ転がり落ちていった。

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