始まりの物語 ~相棒はエトランジェ Zero~

和辻義一

摩天楼の片隅で

「この店に日本人か、珍しいな」


 すぐ隣のスツールに座った男が、日本語で俺にそう言った。


 比較的明るい感じのバーは、ホテルを出てから適当に歩いて訪れた店だった。適度にしなびたとても小さな店で、カウンターの向こう側に初老のバーテンダーが一人いるだけ。まだ店が混むような時間帯ではなく、これまでのところ俺以外に客はいなかった。


 「摩天楼」としても有名なマンハッタンは、年間を通じて世界中から大勢の観光客が訪れる場所だったが、出来れば今は喧騒の渦から逃れていたかった。そういった意味でこの店は、ただ一つのことを除けば、ほぼ俺の要求通りの店だと言えた。


 男は見た限り、三十代前半――俺とそう変わらないぐらいの年齢のようだった。端整な顔立ちで背が高く、やせ型。髪は少し長めで、銀縁の眼鏡をかけている。ネイビーブルーのロングコートを羽織り、グレーに近いブラウンのシャツに、黒いスラックス。足元は黒の革靴だった。


「なぜ俺が日本人だと思った?」


 俺は男に言った。


「中国人だったかも知れないし、韓国人だったかも知れない。あるいはベトナム人か、フィリピン人だったかも知れない」


「随分と理屈っぽいんだな、アンタ」


 男はバーテンダーにワイルドターキー8年のストレートを注文すると、やや皮肉げな笑みを唇の端に浮かべてみせた。


「同じアジア系でも、中国人や韓国人には独特のがある。それにアンタの見た目は、ベトナム人やフィリピン人からは程遠い」


「……」


「ただまあ、そこから消去法で日本人だろうって思ったんだが、それにしちゃアンタ、不思議な匂いがするな」


「さっきからお前が口にする匂いってのは、一体何だ?」


 話の行きがかり上、つい尋ねてしまった。男はバーテンダーからグラスを受け取ると、俺の方へと軽く差し出した。


武村たけむら真悟しんごだ。アンタ、名前は?」


 初対面にしては随分馴れ馴れしい奴だと思ったが、日本人と話をするのは久しぶりだった。


鳴沢なるさわ公佑こうすけ


 グラス同士が触れ合う音が、小さく鳴った。本名を名乗るのも久しぶりだった。


「匂いっていうのは、別に物理的な匂いの話じゃない。しいて言えば、雰囲気みたいなものかな」


 武村と名乗った男はウイスキーグラスに口をつけ、小さく喉を鳴らしてから息を吐いて笑った。


「今はこっちの探偵事務所で働いていてね……って言っても、研修生の身分H-3ビザなんだが。アンタは観光かい?」


「いや。それもなくはないが、仕事を探しに来た」


 実際、数日後にはこのニューヨークを発つつもりだった。ここへ立ち寄ったのは、アメリカに来たついでのようなものだ。


「ふうん。仕事探し、ねぇ……行き先はあるのか?」


「ワシントンD.C.」


「話はもう、まとまっている?」


「いや。ただ、知り合いの伝手つてはある」


 武村は少しの間考え込んだが、ややあってウイスキーグラスをカウンターに置き、言った。


「ダインコープ社、民間軍事会社PMSCだな」


 自分でも、少し表情がこわばるのを感じた。


「どうしてそう思う?」


「アンタから漂ってくる匂い、さ。血と汗と硝煙の匂い」


「……」


「嘘だよ。アンタの所作が妙にきびきびとした感じだったから、元は自衛官か警察官、消防士辺りかと思っただけ。あとは勘だよ」


 軽く肩をすくめてそう言うなり、武村はコートの内ポケットに手を突っ込み、タバコとライターを取り出した。マールボロの赤色が照明の加減か、まるで血の色のように見えた。


 俺が軽く眉をひそめると、武村はパッケージの中から一本タバコを取り出し、口に咥えながらニヤリと笑った。


「酒を飲みながら、おおっぴらにタバコが吸える。俺がこの店に来る理由の一つだ」


 そう――俺がこの店で唯一気に入らなかったのは、喫煙が可能なところだった。ニューヨーク市の条例で、レストランやバーでの喫煙は原則禁止となっているのだ。その一部例外のうちの一つが、オーナー一人がバーで働いていることというものらしい。


「最近じゃあどこもかしこも健康ブームってやつで、喫煙者は肩身が狭いんだ。勘弁してくれよ」


 そう言いながら武村はタバコに火を点け、深々と紫煙を吸い込み、吐き出した。


「身体に良くないと分かっていて、なぜタバコを吸う?」


「そりゃもちろん、美味いからさ。健康に関して言えば、酒だって身体に良くない」


 俺の問いに答えた武村が、ちらりとバーテンダーの方へと目をやる。


「健康志向なんて、くそくらえですな」


 場の雰囲気から察したのか、バーテンダーはガラスの灰皿を差し出しながら英語でそう言うと、タバコのヤニで黄ばんだ歯をむき出して笑った。どうやらここのオーナーも、かなりのヘビースモーカーらしい。


「俺に言わせれば、どれだけ健康に気をつかってみたところで、死ぬときはどうせ死ぬんだ。だったらせいぜい、生きているうちにいろんなものを楽しんだ方が得だと思うよ」


 そううそぶいた武村に、俺は答える。


「酒の匂いはアルコールが抜ければ消えるが、タバコの匂いはなかなか身体から消せない。何をどう楽しむのかは個人の自由だが、それが命取りになるってのは御免だ」


「……アンタ、やっぱり元軍人か?」


 眼鏡の向こうの武村の目が、一瞬光ったような気がした。


「アンタ、今までの仕事は何をしていたんだ?」


「それは、お前に何か関係があることなのか?」


「場合によっては」


 武村が、唇の端を歪めて笑った。意味がよく分からなかったが、俺は仕方なく答えた。


「つい先日までは、カルヴィにいた」


「カルヴィ?」


「コルシカ島にある、小さな町だ」


 俺の言葉に、武村は少しの間考えてから言った。


フランス外人部隊レジィヨン エトランジェールか。それも空挺兵パラトルーパー、なかなかのエリートじゃないか」


「随分と博識なんだな」


 素直にそう思った。普通、フランスの片田舎の町の名前を言っただけで、そこまで思考が辿り着く者はそういないだろう。


「なに、ガキの頃から本が好きでね。今までに読んだ何かの本に、確かそんなことが書いてあったってだけさ」


 そう言いながら灰皿にタバコの灰を落とした武村に、俺は尋ねた。


「そう言うお前は、アメリカこっちに来る前は何をしていた?」


 俺の問いに、武村は少し意外そうな顔をした。


「気になるのか?」


「俺ばかりがあれこれと詮索せんさくされるのは、正直気に食わない」


「なるほど、そりゃごもっともで」


 武村は吸いかけのタバコを灰皿の縁に置き、カウンターに置かれていたグラスの中身を少し飲んでから、ぼそりと答えた。


「警察官だよ」


「ただの警官、って訳でもなさそうだな」


「おいおい、そりゃ一体どういう意味だ?」


 小さく肩をすぼめてみせた武村に、俺は言葉を続ける。


「さっきお前が言っていた、匂いって奴だ。こういう言い方をしちゃ何だが、片田舎の警官にしては所作が垢抜けしすぎているし、教養もありすぎる」


 俺の言葉に武村は一瞬目を丸くしたが、やがてくくっ、と喉を鳴らして笑った。


「そいつはまるで、日本全国の警察官を敵に回すような物言いだな……でもまあ、アンタのその推測は粗削りに過ぎるが、センスは悪くない」


 武村は、再びグラスに口をつけながら言った。


「ただの警察官かどうかは分からんが、警視庁の組織犯罪対策部ソタイで世話になっていたよ。第二課にかにいた、麻薬と銃器の国際調査が担当だった」


「いわゆるキャリア組って奴か?」


「まさか。警察でキャリア組ってのは、警察庁に採用されたエリート様達のことを言うんだよ。俺がいたのは警視庁。だから俺は、その括りで言うならばノンキャリア組って奴だな」


 そう言って武村は俺の勘違いを笑ったが、不思議と嫌みな感じはしなかった。見た目や雰囲気には少し気障きざなところもあるが、根は悪くない奴なのかも知れない。


「で、元警察官のお前が、なんでわざわざ俺なんかに声を掛けた?」


 職務質問の一種か、という一言は飲み込んだ。これはさすがに余計な皮肉だろう。


 グラスに残っていた中身を飲み干し、バーテンダーに再びバランタインのロックを注文した俺に、紫煙を吐き出しながら武村が答える。


「声を掛けちゃ悪かったか?」


「初対面でいきなりあれこれと過去を詮索されるのは、正直気持ちのいいもんじゃない」


「ははっ、そりゃ悪かったな」


 灰皿で吸いかけのタバコの火をもみ消した武村が、こちらをちらりと見て言った。


「アンタ、探偵をやってみる気はないか?」


 あまりにも突然で意外なその物言いに、正直一瞬絶句した。そんな俺の様子を見て、武村が小さく笑う。


「なに、日本で探偵を始めるための修行のつもりでこっちに来たんだが、実はまだ相棒が決まっていなくてね。残念ながら今のところ、これといったあても無い」


「相棒、って……映画か何かの見過ぎじゃないのか?」


 つい鼻白む俺に、武村が苦笑した。


「別に冗談で言っているわけじゃない。探偵の仕事ってのは、一人じゃなかなか出来ないんだよ。だから、タッグを組むパートナーが必要なんだ」


「そうか。だが、なぜ俺にそんな話を持ちかける?」


 バーテンダーからグラスを受け取ってその中身を口にした俺に、武村は少し考え込んだ後で、意外にも真面目そうな表情で答えた。


「改まって言われてみれば、特にこれといって理由はないが……強いて挙げるならば、えんだな」


「縁?」


「そう。今夜たまたまアンタと出会った縁」


「いつもそうやって女を口説くのか?」


「男を口説く趣味は、俺にはないね」


 平然とそらとぼける武村に、今度は俺が苦笑せざるを得なかった。この男、一体どこまでが本気なのか。


 武村はパッケージの中から二本目のタバコを取りだし、口にくわえてライターで火を付けながら言った。


「まあ、俺もアンタに無理強いをするつもりはないよ……ただ、元軍人の次の仕事なんてものには、案外選択肢が無いはず。違うか?」


「……」


「そんなアンタに、試しに可能性の一つを示してみただけだ。探偵ってのは大金を稼げるような仕事じゃないが、PMSCの社員とは違って、歳を食ってもそこそこやってはいける」


 まあ確かに、自分の経歴は良くも悪くも一生ついて回る。そして、今の自分だったらどんな風にだって生きてはいけるのだろうが、先々のことを考えると、一抹の不安を感じないと言えば嘘になる。


「一応言っておくが、俺に探偵の素養は無いと思うぜ?」


 しばらくの沈黙の後、俺がそう言うと、武村はさも美味そうに紫煙を吐き出しながらニヤリと笑った。


「俺にだって最初から素養があったって訳じゃない。だがまあ、アメリカこのくにの良いところの一つは、本人にその気さえあれば、誰かが何だって教えてくれるってところだろうな」


「そうなのか」


 確かにこの国には、様々な分野のエキスパート達がいて、金さえ払えば何でも教えてもらえると聞いたことがある。昔の仲間達の中には、わざわざ長期休暇を取得して、訓練のために私費で渡米していた奴もいた。


「幸いなことに、俺が世話になっている探偵事務所は結構忙しいところでね。たとえ研修生でも、一緒に働いてくれる人間が増えるのは歓迎してくれるはずだ。それに、警備業務を請け負うこともたまにあるから、アンタにうってつけの仕事だって出てくるかも知れない」


「簡単そうに言ってくれる」


 軽く被りを振る俺に、武村が小さく肩をすくめた。


「何の伝手もなければ、アンタの言うことも分からんではない。でもまあ、アンタにその気があれば、出来る限り俺が面倒を見るよ」


「ちなみに、わざわざ俺に声を掛けてまで、お前が探偵になりたい理由ってのは何だ?」


 いくら本が好きだからといって、この男がただ小説などに憧れて探偵の職を目指したとは考えづらい。武村が警察官を辞めてまで探偵という職を目指す理由は、一体何なのか。


 何気なく口にした言葉だったが、武村は何やら気まずそうな顔をした。


「理由を聞いて、笑わないって約束出来るか?」


「さて、ね……聞いてみないことには、何とも返事のしようがない」


 それは、この男の誘いに乗るかどうかも含めて。自分でも、少々意地の悪い笑みだとは思った。


 武村は残っていたグラスの中身を一息に飲み干し、ややあってから言った。


「警察官の立場では救えない人達を、救いたいと思ったからだよ」


 その言葉に、俺は少々面食らった。


 だが、ずっとこの男につきまとっていた飄々ひょうひょうとした雰囲気は感じられない。ひょっとすると、この男の生き方をがらりと変えてしまうような何かが過去にあったのだろうか。


「ちょっと意外な返事だったな」


「アンタもセンチメンタルに過ぎるって笑うクチか?」


 自嘲する武村に、最初は何と答えたものか迷った。


「そうだな……でも、俺が今まで生きてきた理由に比べれば、よっぽど立派だとは思う」


 俺が今まで生きてきたのは、あくまでも俺自身のためでしかなかった。この男のように、誰かのためになるように生きたいと思ったことは一度も無い。


 それから少しの間、武村はタバコを吸い続け、俺はバーの外の景色を眺めていた。


 元々は武村の言うとおり、伝手をたどってダインコープ社で世話になるつもりだった。そして、俺のこれまでの経歴から見て、俺が選べる仕事にそれほどの幅がないことも確かだった。


 まだ若かった頃の俺は、自分が一体どこまで出来るのか、それを試してみたかった。今にして思えば、求めていたのは「強さ」だったのだろうか――幸いにして陸上自衛隊では第一空挺団に所属することが出来、そこで空挺レンジャーにもなれた。


 そこから「本物の戦闘」を知りたくなって、勢いでフランス外人部隊に入隊し、実戦にも参加することが出来た。だが、そこに俺が求めていた「何か」は見当たらなくて、それに嫌気が差して除隊したのがつい先日のことだ。


 そして俺は惰性に流されるがままに、再び同じことを繰り返そうとしつつあった。だから、今目の前に示された「可能性」は、微妙にかぐわしい芳香を放っていた。


「一つだけ、気になることがあるんだが」


 小さく咳払いをしてから俺がそう言うと、武村は吸い終えた二本目のタバコの火を灰皿でもみ消して首を傾げた。


「何だ?」


「俺はフランス語ならそれなりに自信があるが、英語についてはネイティブには程遠い」


 少しの間を置いてから口にした俺のその言葉に、武村は一瞬目を丸くしたのち、小さく吹き出した。


「アンタ、そんな調子でよくアメリカで仕事を探そうだなんて思ったな」


「日常会話や軍関係の専門用語だったら、特に問題は無かったから。それ以上に必要なことは、これから勉強するつもりだった」


 小さなガキの頃から長らく一緒だった幼馴染みには、無鉄砲だとよくからかわれた。ふとそのことを思い出し、俺は少しだけ嫌な気分になった――いや、本当に思い出したのは、もう取り返しのつかない後悔だったのかも知れない。


 あいつには、ろくな別れの挨拶もせずに日本くにを飛び出してしまったから。除隊後に俺の足がアメリカへと向いたのも、それが理由の一つだった。


「まあ、その辺りのことも含めて、おいおい面倒は見るよ……ってことでアンタ、返事はイエスってことで良いんだよな?」


 武村が笑いながら差し出した右手を、俺は握り返した。


「ああ……これも何かの縁なんだろう、よろしく頼む」

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