第2話

 鎌倉にて恋人の恵子と暮らす平清範は喫茶店を経営している。2人のもとを、桑田十三の右腕の七瀬冬彦が訪ねてくる。清範はミニクーパーで十三が待っている奥州湖へ向かう。


 清範は、水戸で相棒の源太とともに私立探偵の職に就いていた。十三は、500万を盗んで行方をくらませた新人介護士の恵子を探してほしいと清範に依頼する。依頼を引き受けた清範は、群馬県前橋市で恵子を見つける。やがて2人は恋に落ちる。清範が自らの身分を明かしたところ、恵子は500万を盗んでいないと主張する。恵子は清範に一緒に逃げようと懇願する。


 奥州市に逃げた清範と恵子は、目立たないように暮らしていた。そんな2人のもとを源太が訪ねてきて、口止め料として金銭を要求する。清範と源太のあいだで格闘が繰り広げられた末、恵子が源太を撃ち、車で走り去ってしまう。清範の手元には、大量の預金が入った恵子の通帳が残された。


 過去の回想を終えた清範は、十三の屋敷に入る。そこには仙道慶子の姿もあり、清範を驚かせる。十三は新たな仕事を清範に持ちかけるが、罠を察知した清範は依頼を拒み、鎌倉に戻る。慶子は冬彦に、清範は助手の戸塚を尾行させる。戸塚が清範の隠れ家に着いたところで、冬彦は清範を撃とうするが、戸塚に阻止される。


 十三の屋敷を訪れた清範は、慶子の裏切りを彼に伝え、取引を持ちかける。

 そこに死んだと思っていた源太が入ってきた。

 清範はサブマシンガンで源太を殺そうと撃つが、彼は無傷だった。

 意外なところに弱点があるんじゃ?と、清範は気づいた。

 源太は麻酔銃で清範を撃った。駆けつけた藤原刑事によって清範は逮捕されたが、十三は逃げてしまった。

「逃げ足の早い奴め」

 源太は無性に腹が減ってきた。

 強飯が食いたい。鎌倉時代の主食だ。現在のおこわのルーツで、現代ではもち米で作るのが一般的だが、当時はうるち米の玄米を蒸して食べていた。


 藤原は取調室で清範を徹底的に取り調べだが、口を割らなかった。『太陽にほえろ!』なんかじゃ、ゴリさんとかがボコボコに被疑者をぶん殴ったりしたが、そんなことしたらクビになっちまう。

 取調室を出て、刑事部屋に向かった。

「アイツ、かなり口が固いらしい。何としてでも十三を見つけ出せ?オマエは手を出すな?殺すのは俺だからな!」

 初恋の相手ノリカを十三に轢き逃げされて苛立つのは分かるが、かなり昔の話だろ?源太は藤原って呆れるほど純粋だな?と思った。


 源太はフィットを駆って岩手県北西部にある岩手山に向かった。この山には大嶽丸って鬼が棲んでるって伝説がある。鬼の館が岩手山の奥地にあり、山の麓に住む人々を次々に喰っていた。797年に坂上田村麻呂の部下、霞ヶ原忠義って人物によって退治されている。ってことはあの赤い髪の鬼は別人ってことになる。

 落石が起きて道が塞がれていた。

 実は戸塚が爆薬で落石を起こしたのである。

 バック走行で来た道を戻ることにした。

 背後からバズーカ砲を手にした戸塚が現れた。ドッカン!ドッカン!ぶっ放すが源太は無傷だった。

 戸塚は源太を殺せば100万もらう約束だった。

 フィットは爆発してまっ黒焦げになったが、源太は平然と麻酔銃を撃った。  

 藤原軍団がやってきて、あっという間に戸塚は逮捕された。


 数日後、源太は彦根城にやって来た。彦根城天守最上階の南北面にある、入母屋破風の内部の空間を利用した破風の間。小さな引き戸を設置して、孤立した小部屋になっている。伏兵として冬彦が潜んでいた。十三から源太を殺したら理事長の座を譲ると約束されていた。

「オマエ、あのオッサンがそんな約束守ると思うか?」

「うるさーい!」

 冬彦はケータイ型拳銃を武装していた。ガラケー型でダイヤルを押すとアンテナ部分から実弾が発射される仕組みになってる。連続で4発発射されたが、源太は何の痛みも感じなかった。

「あ〜腹減った〜。もう、昼飯だな〜」  

「こえ~よ〜!」

 冬彦もあっという間に確保された。

 

 源太は鎌倉城を思い出していた。鎌倉時代に兄の頼朝が入った鎌倉のことだ。東、西、北を険しい丘に囲まれ、南は相模湾に面した都城の地形。都市全体が城のようだった。

 虚ろ舟に乗って昔に戻って、兄を討つべきだろうか!?

 源太は藤原のバイクの後ろにのっかり、化粧坂切通の先にある虚ろ舟の基地に向かっていた。

 いずみの兄、大貴がドローンで攻撃してきた。

 ドローンには小型のマシンガンが搭載されている。藤原のナイスなテクニックにより全弾を回避し、基地の前までやって来た。

 藤原はショットガンでドローンを撃墜させた。 

 大貴は丸腰で源太の近くまでやって来た。

「桑田なら備中松山城だ」

  

 雲海に浮かぶ天守閣を雲海展望台から源太は眺めていた。

 松山城は、岡山県高梁市内山下にあった日本の城(山城)である。別名、高梁城。愛媛県松山市にある松山城を初め、各地の同名の城との混同を避けるために、一般的には「備中松山城」と呼ぶことが多い。日本100名城の一つ。現存天守12城の一つでもあり、この中で唯一の山城である。臥牛山山頂(標高487m)から南稜線にかけて遺構が残っており、そのうち一つである小松山城跡に現存天守(標高430m)がある。

 城のある臥牛山(松山)は4つの峰からなり、小松山に本丸・二の丸・三の丸が階段状に配され、大松山、天神の丸、前山にも遺構がある。海抜約430mの臥牛山小松山山頂の本丸へは、麓の城下町から約1,500m、1時間ほどの道のりがある。この城は戦に備えて建設された「詰の城」であり通常はあまり使われていなかったと思われる。


 江戸期の備中松山藩時代は山城で不便なため、山麓の城下町に「御根小屋」と呼ばれる藩主の御殿と家来の武家屋敷群を構え、そこで藩の政務を行った。現在、御根小屋の跡地は岡山県立高梁高等学校となっている。


 備中(岡山県西部)は小藩に細分化され、倉敷のような幕府の直轄地もあったので備中松山藩の石高は6万石ほどであった。


 城跡が国の史跡に指定され、江戸時代に建造された天守、二重櫓、土塀の一部が重要文化財に指定されている。そのほかに石垣、復元された櫓、門、土塀が現存する。日本三大山城の一つとされる。


 仁治元年(1240年)、秋庭三郎重信が備中有漢郷(現・岡山県高梁市有漢町)の地頭となり大松山に最初の城を築いた。元弘年間(1331年頃)、高橋宗康が小松山まで城を拡張した。


 城主は時代と共に上野氏、庄氏、三村氏と変遷する。戦国時代、三村元親の時代には大松山・小松山を範囲とする一大城塞となった(現在も石垣の一部が残る)。


 元亀元年(1570年)には元親が備中に兵を進めた宇喜多直家を迎え撃つために出撃した際に、直家と通じた庄高資・庄勝資親子に松山城を占拠されるという事態が起こったが、翌元亀2年(1571年)2月に穂井田元清の協力の下で庄高資を討ち、松山城を奪還した。天正2年(1574年)、三村元親は毛利氏から離反し織田信長に寝返った。翌年にかけて、三村氏と毛利氏の争いが続く(備中兵乱)。城は毛利方の小早川隆景により落され、元親は自害した。備中兵乱の後、毛利氏の領有となった。


 近世を通じ、城主は池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏と入れ替わり、最後の城主は板倉氏であった。


 慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで毛利氏が西軍につき敗れた後、江戸幕府が城番(小堀正次・政一)を置いた。この頃、麓に御根小屋が築かれた。


 元和3年(1617年)、池田長幸が入城し、6万3000石で立藩するが、寛永18年(1641年)、2代長常が嗣子なく没したため同家は廃絶。備後福山藩主の水野勝成家臣が城番となった。翌寛永19年(1642年)、水谷勝隆が5万石で入封。2代勝宗は天和元年(1681年) - 天和3年(1683年)にかけて天守建造など3年にわたる大修築を行い、城は現在の姿となった。しかし、3代勝美は嗣子なく元禄6年(1693年)10月に死去。その養子となった勝晴はわずか1か月後の同年11月に13歳で早世し、水谷家は断絶した。


 水谷家断絶後は赤穂藩主・浅野長矩が城の受取りにあたり、家老・大石良雄が城番となった。元禄8年(1695年)、安藤重博が6万5000石で入封するが、正徳元年(1711年)に転封。同年、石川総慶が6万石で入封した。延享元年(1744年)、石川氏が転封になると、板倉勝澄が5万石で入封し、明治時代まで板倉氏が8代続いた。


 慶応4年1月18日(1868年2月11日)、戊辰戦争で朝敵とされた松山藩は執政であった陽明学者・山田方谷の決断で無血開城した。


 明治6年(1873年)、廃城令が公布され、御根小屋は取り壊された。山城は新政府によって7円(現在の約5万円)で商家に売却された。しかしあまりにも不便な場所にあることから山上の建物は解体されずに放置・荒廃が進み、天守はツタが生い茂り崩壊寸前、天守脇にあった八の平櫓にいたっては倒壊した。昭和初期、高梁中学校教諭の信野友春が山城を調査しその詳細な記録を『備中松山城及其城下』に著し刊行する。信野の著書を契機に山上の建物が修復の機運が高まり、修復のために高梁町によって1万8000円の予算が組まれた。昭和5年(1930年)より二重櫓、天守の順で修理がなされた。


 昭和16年(1941年)には天守、二重櫓、三の平櫓東土塀の3棟が当時の国宝保存法に基づく国宝(旧国宝、現行法の「重要文化財」に相当)の指定を受ける。これら3棟は、昭和25年(1950年)、文化財保護法の施行により、重要文化財となった。昭和31年(1956年)11月7日には城跡が国により史跡に指定される。昭和35年(1960年)、高梁市が管理団体となる。平成6年(1994年)より本丸の復元整備が行われ、本丸南御門、東御門、腕木御門、路地門、五の平櫓、六の平櫓、土塀などが復元された。平成18年(2006年)4月6日、日本100名城(68番)に選定された。


 桑田は3日籠城したが腹が減ったって理由でSATに投降した。

 一難去ってまた一難、源太が宿泊するホテルに赤毛の鬼が出現した。

 ロビーで決闘になり、源太は八龍の鎧を着て鬼に廻し蹴りを食らわした。

 SATも参戦し、源太が距離をとった瞬間に一斉射撃をしたが全く歯が立たない。

 鬼は鋭い爪で源太を襲うが、源太はひれ伏さなかった。不死身ではあるが、源太では鬼を倒せないとSATの面々は悟った。

 そのとき!藤原が颯爽と現れた。

 彼は二刀流だった。片方の刀で✗✗✗して、もう片方の刀で鬼の首を切り落とした。

「これからは俺の時代だ」

 藤原は冷たく笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

源義経の事件簿⑦ 義経は死なず! 鷹山トシキ @1982

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る