源義経の事件簿⑦ 義経は死なず!

鷹山トシキ

第1話

 22年前、1984年7月

 鎌倉にある2つの家は抗争の末に仙道山勝せんどうさんしょうと大鷹斗真が一騎打ちをして命を落とし、斗真の兄、大貴は仙道家への復讐を誓う。一方、山勝の息子、源太は母の慶子に連れられ鎌倉を去り茨城に移り住み、抗争のことを知らずに成長する。


 22年後、源太は殺し屋を辞めて水戸市内で塾のセールスの仕事に就いていたが、愛車のオンボロフィットが原因で仕事をクビになってしまう。そこに故郷の鎌倉から手紙が届き、父の遺した広大な土地を相続したことを知る。源太は土地を売却することに決め故郷に戻るが、乗り込んだ列車で画家を目指す女性、いずみに出会い、互いに好意を抱くようになる。

 源太は3人を殺したことにより不死身モードになり、さらに八龍を着ると義経に変貌した。


 鎌倉に到着した源太は有力者の大鷹大貴の屋敷を訪れて土地売却の協力を依頼し、大貴は彼を歓迎する。屋敷で源太はいずみと再会し、彼女が大貴の娘であることを知る。

「まあっ、何ですか?そのカッコ」

 いずみはクスクス笑った。

 源太は八龍を着ていた為にいずみが静御前に思えた。源平合戦後、兄の源頼朝と対立した義経が京を落ちて九州へ向かう際に同行するが、義経の船団は嵐に遭難して岸へ戻される。吉野で義経と別れ京へ戻った。しかし途中で従者に持ち物を奪われ山中をさまよっていた時に、山僧に捕らえられ京の北条時政に引き渡され、文治2年(1186年)3月に母の磯禅師とともに鎌倉に送られる。


 同年4月8日、静は頼朝に鶴岡八幡宮社前で白拍子の舞を命じられた。静は、しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな(倭文(しず)の布を織る麻糸をまるく巻いた苧(お)だまきから糸が繰り出されるように、たえず繰り返しつつ、どうか昔を今にする方法があったなら)

 吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき(吉野山の峰の白雪を踏み分けて姿を隠していったあの人(義経)のあとが恋しい)と義経を慕う歌を唄い、頼朝を激怒させるが、妻の北条政子が「私が御前の立場であっても、あの様に謡うでしょう」と取り成して命を助けた。『吾妻鏡』では、静の舞の場面を「誠にこれ社壇の壮観、梁塵りょうじんほとんど動くべし、上下みな興感を催す」と絶賛している。


 この時、静は義経の子を妊娠していて、頼朝は「女子なら助けるが、男子なら殺すように」と命じる。閏7月29日、静は男子を産んだ。安達清常が赤子を受け取ろうとするが、静は泣き叫んで離さなかった。磯禅師が赤子を取り上げて清常に渡し、赤子は由比ヶ浜に沈められた。


 9月16日、静と磯禅師は京に帰された。憐れんだ政子と大姫が多くの重宝を持たせたという。その後の消息は不明。

 

 一方、源太の素性を知った大鷹家の人々は彼を殺そうとするが、大貴は屋敷内での殺害を禁じ、彼を屋敷の外に追い出してから殺すように指示する。


 大鷹家が父の抗争相手だと知った源太は、殺されるのを防ぐため様々な理由を付けて屋敷に留まり続けるが、限界に達したため屋敷を脱出する。いずみの助けを借りて逃げ出すことに成功するが、途中で大鷹家の人々に追い付かれてしまう。いずみは源太を助けようと父を説得し、源太も大鷹家の人々に立ち向かうが、彼らは聞く耳を持たず源太を殺そうとする。が、銃で撃たれてもドスで刺されても源太は掠り傷すら負わなかった。

「化け物か?アイツは……」

 天守閣から成り行きを眺めていた大貴は、どら焼きを食べていた。

 

 いずみは橋の上から飛び降り、源太は驚く大鷹家の人々を尻目に、彼女を助けるため橋から飛び降り彼女を救う。大貴は危険を顧みずに娘を助けようとしたことで源太への復讐を止め、源太はいずみと結ばれる。


 2006年8月

 桑田十三は茨城の小規模な介護事業所の施設長である。十三には17歳の息子、巧がいるが、前妻を失い、新しく後妻・慶子(源太の母)と結婚した。慶子は巧と折り合いが悪い。母親として努力していると見せる一方で慶子は、会社のカネを使い込んでいたケアマネージャーの七瀬冬彦と共謀し、策略をめぐらしていた。感受性の強い巧は、慶子の様子をみてとり、父親に別れるように進言する。十三は思い悩み、慶子に別居を示唆する。


 8月2日 

 横浜アリーナで行われたWBA世界ライトフライ級タイトルマッチで、亀田興毅がファン・ランダエタ(ベネズエラ)を2-1の判定で破り、史上3人目の10代での世界王座。


 源太はいずみと横浜に観戦しに行った。

 帰りに蜂に刺されたが痛くも痒くなかった。


 8月14日

 この日は首都圏で停電が発生した。

 巧は戸塚海人を中心とした不良少年を利用し、慶子を誘拐させ、身代金を要求させる。

 その間、戸塚らは街でナンパした女に乱暴をはたらく。

 十三は要求通り5000万円を用意し、七瀬に届けさせることにした。


 

 その夜遅く、水戸にあるアパートにふらふらと帰ってきたいずみは、ぼろ屑のようになっていた。

 源太は心配になり問いただしたが何も答えなかった。

  

 いずみは列車に飛び込み、命を絶った。葬儀を終えた源太は、水戸から姿を消した。


 2007年8月14日

 1年が経ち、源太は清範を1ヶ月30万で雇い、戸塚が働いていたコンビニをめちゃくちゃに破壊させた。それも1か月のうちに5回に渡り行なったので店員たちはみな震撼している。

 さらに源太は戸塚と巧に、いずみの名でメールを送り怯えさせる。


 ついに源太は戸塚の逃亡先であるネット喫茶に踏み込み、対決する。戸塚を脅し巧を呼び出し、戸塚を乗せてスポーツカーを運転し、巧を跳ね飛ばした。


 次には海岸に向い、浜辺で戸塚を降ろす。源太は戸塚の鳩尾を思い切り殴った。「よくも、いずみを!!」

 

 藤原は私立探偵を使って初恋の相手、ノリカを轢き殺した犯人を探していた。

 8月16日 - 岐阜県多治見市・埼玉県熊谷市でそれぞれ日本観測史上最高となる気温40.9℃を観測。

 冷房ガンガンの部屋で藤原はアイスコーヒーを飲んでいた。6月に発売された『睡蓮花』(湘南乃風)をラジカセで聴いていた。ドラマは最近、『花ざかりの君たちへ〜イケメン♂パラダイス〜』(フジテレビ系火9)を見ている。

 私立探偵、平清範から電話があった。藤原は最近ケータイを変えたばかりだ。

「ノリカさんを殺した犯人ですが、介護事業所ダリア荘の理事長、桑田十三であることが判明した」


 8月17日、源太は岩手の平泉に来ていた。

 岩手県内で最も面積が小さい自治体であり、東西16.15km、南北8.51kmの東西に細長い町域となっている。町の中央が北上盆地の一部を成しており、北上川が南流して氾濫原を形成している。西側を奥羽山脈から東に延びる平泉丘陵の東端、北側を衣川、南側を太田川、東側を北上川に囲まれたやや平坦な土地が町の中心部となっており、ここにJR東北本線・平泉駅や国道4号、町役場などがあり、また、奥州藤原氏時代の寺院や遺跡も集中している。なお、当時は北上川が現在より東側を流れていたと考えられている。


 平泉は衣川と磐井川に挟まれた比較的開けた丘陵地帯に位置し、すぐ東には北上川が流れているために水運の拠点として優れた地域であったことから、奈良時代以降平安時代にかけて、この地をめぐり各勢力による争奪戦が繰り広げられた。


 8世紀には胆沢平野一帯において大和政権と蝦夷勢力との間で軍事衝突が発生し、そのうち最大規模の戦闘であった延暦11年(792年)の大和政権の坂上田村麻呂と蝦夷方のアテルイの戦いでは平泉近辺が戦場となった。この戦に敗れた蝦夷勢力は次第に衰退し、延暦21年(802年)の胆沢城築城によって平泉一帯は大和政権の支配下に入るようになり、間もなく近辺で莫大な金が産出することが判明すると水運拠点としての平泉の重要性はいよいよ高まった。


 平安時代後期には衣川を拠点とする地元の豪族であった安倍氏が俘囚長として奥六郡を支配し、近辺では国司よりもはるかに強力な勢力を持つに至ったが、前九年の役で源頼義・義家親子に滅ぼされた。平泉はその際に源氏に味方した清原氏の支配下に置かれたが、清原氏の内紛である後三年の役を経て勝ち残った清原清衡(藤原清衡)が、前九年の役で安倍氏に味方して滅ぼされた実父の姓に復して藤原氏を名乗り(奥州藤原氏)、本拠を江刺郡豊田館(奥州市)から磐井郡平泉に移して居館を建設した。以後、清衡から藤原泰衡のまで4代にわたり奥州藤原氏の本拠地として栄華を極めた。奥州藤原氏の治世下では今日でも有名な中尊寺や毛越寺などが建立され、さらに第3代当主・藤原秀衡は名馬や金を朝廷にたびたび献上して京都の文化を取り入れた。また、十三湊やアイヌを介して北宋や沿海州とも交易をしていた。


 この時期の平泉の人口については諸説あり、チャンドラーは、軍隊との人口比から平泉の都市人口を5万人と推定し(平安時代末の鎌倉の都市人口を10万人とする推計に基づく)、佐貫利雄は、10箇所あった金鉱が養える人口がそれぞれ1万人であるとして、最盛期の平泉の人口を10万から15万人と推定している。


 一方、『吾妻鏡』や江戸時代の作と考えられる『平泉全盛図』(平泉古図)などをもとに、往時の平泉の人口を京都に匹敵する十数万人と見積もる説が流布しているが、『吾妻鏡』の平泉に関連する記述にはかなりの数字の誇張があることから、実際の都市規模はもっと小さかったと考えられている。


 しかし、秀衡死後の文治5年(1189年)、源義経を匿ったことから源頼朝の追討を受け、奥州十七万騎を擁する泰衡は敗走の混乱の中で家臣に殺され奥州藤原氏は滅亡した。その後、平泉は奥州総奉行として赴任した葛西氏の本拠となったが、鎌倉時代の平泉は産金量の低下や御家人の領地細分化などで次第に都市としての力を失い、中世末期までには奥州藤原氏によって建設された造営物の大半が失われてしまった。

  

 源太がいるのは達谷窟たっこくのいわやという毘沙門天をまつった堂だ。

 延暦20年(801年)、征夷大将軍であった坂上田村麻呂が、ここを拠点としていた悪路王を討伐した記念として建てた。正式には、達谷窟毘沙門堂。


 平泉の南西約6キロメートルに位置する。北上川の一支流太田川を西にさかのぼると、谷を分岐する丘陵尾根があり、その先端部に現在の天台宗達谷西光寺がある。達谷西光寺境内の西側には、東西の長さ約150メートル、最大標高差およそ35メートルにおよぶ岸壁があり、その下方の岩屋に懸造の窟毘沙門堂がある。さらにその西側の岸壁上部には大日如来あるいは阿弥陀如来といわれる大きな磨崖仏が刻まれている。


 達谷西光寺の境内は神域とされ、喫煙や飲食、ペット等動物を連れての参拝が禁じられている。別当は達谷西光寺であるが、境内入口には鳥居が建てられており、神仏混淆の社寺となっている。


 源頼朝も鎌倉への帰路に参拝している。

 源太は毘沙門堂を見てから階段を伝って下へと降りていたが何者かが背後から押してきた。源太は転がり落ちたが無傷だった。


 七瀬冬彦は源太を階段で突き飛ばした。介護の仕事はキツいわりに給料が安い。副業を考えていたとき、施設長の息子が殺される事件が起きた。昼間から酒を飲んだり、高級外車を乗り回したり、海外に何度も行ったり羨ましい限りだった。

「息子の敵を討ってくれたら100万をくれてやる」

 十三からその話を聞いたときは飛び上がるほど嬉しかった。ウチの施設にはボーナスがないから死活問題だ。

 源太を突き飛ばしたが痛がる様子もなくスグに立ち上がった。冬彦は猛ダッシュで逃げた。


 冬彦はレンタカーを使って奥州市へ逃げた。

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