第23話 ファーストキス大作戦その2、前編

 赤のすっきりとしたイブニングドレス。いつもより大人っぽいステファニーにアベラルドは魅入ってしまった。巻いた金の髪が緩く流れて、細い首筋がチラリと覗く。そこから鎖骨へ視線を落とすと、華奢なネックレスが沿うように輝いていた。


「おいたん?」


 パチっと目が合う。エメラルドの瞳を真っ直ぐに見つめると、虹彩の煌めきに夢中になりそうだ。吸い込まれそうになるのを、アベラルドは視線を逸して誤魔化した。目に入った彼女の唇は、淡いピンクに色付いている。可愛らしい果実のようなそれに触れたら、どんな味がするのだろう――


「おいたん、おなかすいた」

「ハッ!!」


 危なかった。ステファニーの引力に負けてキスをしてしまうところだった。アベラルドは気を引き締め直した。本番はディナーのあとなのだ。こんなところで失敗できない。


「そうだったな。すまない」


 アベラルドとステファニーはディナーを食べ始めた。彼は終始妻に夢中で、何を食べているのか分からなかった。ステファニーがスープを一匙掬い、口元に運ぶだけで胸が高鳴る。その唇に、今夜口付けるかと思うと身体が熱くなった。恐ろしいほどの早さで時間が過ぎていく。


「おいしかったねー」


 ディナーが終わり、ついに二人は星を見にテラスへ出た。アベラルドは緊張しすぎて歩き方がぎこちない。


「旦那様、庭へ降りたほうが暗いので星が綺麗にご覧になれますよ」


 陪従していたフィリップが自然に魔術陣のある庭へと誘導する。庭ではすでにサミュエルが魔術陣の準備を終えていた。


「おいたん、あれなぁに?」

「あれで流れ星を作るんだ。願い事をしてごらん」


 アベラルドがサミュエルに視線で合図を送ると、サミュエルはいくつかの魔核を魔術陣へ放り投げた。陣に着地すると同時に魔核が光り、粒状になって陣へ吸い込まれていく。一つ魔核が無くなる毎に、流れ星が一つ空から落ちてきた。消費している魔核は、サミュエルが予め作った魔力の塊だ。それが短時間でどんどん消費されていく。


「わあぁ……」


 ステファニーはただ空を見上げて燃えゆく星を見つめていた。


「ステファニー、星に願いを」

「あいっ」


 ステファニーは祈りのポーズをとると、目を閉じた。


「おいたんのおよめさんに、なれますよーに」

「ゔぐっ……」


 初めてステファニーから男として認めてもらえたような気がした。前にもステファニーから好きだと言われたが、その好きがどんな意味を持つものか分からず、ずっと不安だったのだ。アベラルドは嬉しくて泣きそうになった。喉の奥から愛の言葉を出したいのに、詰まって思うように声にならない。アベラルドはもどかしく唇を震わせた。


「――ステファニー……」

「え~~~いっ!」


 突然、ミルヴァナがアベラルドに体当たりした。アベラルドはわずかに体勢を崩したが、ただそれだけだった。


「何をするっ!?」

「あれ?」


 ミルヴァナはアベラルドを魔術陣に押し入れたつもりだったが、全く届いていなかった。良い雰囲気の主人達を邪魔しただけだ。


「馬鹿ミーナ……」


 それを見てフィリップは手で両目を覆った。あれだけ自分に任せるように言ったのに、独断で暴走して失敗したのだ。ミルヴァナの失態に敏感に反応したのはサミュエルだった。魔術陣から離れてアベラルドへ駆け寄る。


「旦那様、お怪我はありませんか? 使用人の教育が行き届いておらず申し訳ありません。ミルヴァナ、旦那様に謝罪しなさい」

「は、はいっ。申し訳ありませんでした」

「まあ、いい。次はないぞ」


 アベラルドにとって今大事なことはステファニーだ。雰囲気を壊されたことは腹立たしいが、今はステファニーのお嫁さんになりたいという願いを聞いたばかりだ。この瞬間を無駄にしたくなかった。アベラルドはステファニーの願い事を思い出し、胸がじーんと熱くなった。


「くっ……お嫁さん……」


 アベラルドが余韻に浸っていると、サミュエルがミルヴァナに指示を出した。


「後で言って聞かせることがある。はぁはぁ……、これが終わったら私の部屋へ来い」


 すでにサミュエルの息が荒い。公然と部屋へ呼び出し、お仕置きを与える口実が出来てサミュエルは興奮していた。漏れ出た魔力で辺りの小石等にヒビが入る。サミュエルの様子を見てフィリップは辟易した。


「あー、家令殿。流れ星を流してください」


 サミュエルはフィリップを睨みつけながら定位置に戻る。途中、彼はフィリップに毒づいた。


「余計な口をきくな。お前を今すぐ折檻してやろうか?」

「ほらほら、手が止まってますよ。旦那様が流れ星をお待ちです」


 フィリップはにっこりと微笑んだ。サミュエルに嫌がらせするときは、とても楽しい。

 サミュエルが魔術陣に再び魔核を落とすと、流れ星が空を覆った。気を取り直して、ファーストキス大作戦の再開である。


「奥様、魔術陣に魔核を投げ入れてみますか? ご自分で流れ星を作れますよ」

「わーい! するー!」


 フィリップが予定にない提案をしてきた。アベラルドは訝しんだが、ステファニーが楽しそうなのでそれに付き合うことにした。ステファニーはサミュエルから魔核を一つ受け取ると、魔術陣に向かってそれを投げ入れた。粒状になり魔術陣に吸い込まれると、ステファニーは興味深そうに陣の中へ入って行った。


「ステファニー、あまり陣に入ってはいけない」


 アベラルドはステファニーに続いて魔術陣の中へ足を踏み入れた。

 瞬間、アベラルドの中で違和感を覚えた。腹の底で蠢く何かがせり上がってくる。悪寒が背中を駆け抜けて後頭部が痺れるように痛い。アベラルドは膝をついた。


「くっ――」

「おいたん!」


 ステファニーの声が籠もって聞こえた。薄く目を開けるとぼんやりとステファニーの輪郭が見える。


「大丈夫だ。心配ない」


 アベラルドは笑顔を無理矢理作ると、なんとか立ち上がった。悪寒や痺れは直ぐに消えて、痛みは薄らいだ。しかし汗は額を伝い落ち、身体には怠さと違和感が少し残った。勘違いなどではない。異常な何かが起こったのだ。


「旦那様!」


 サミュエルがアベラルドへ駆け寄る。アベラルドはそれを制すると、サミュエルに質問した。


「今のは何だ? 何かしたのか?」

「魔核が弾ける気配がしました。旦那様は魔核をお持ちだったのでは?」

「いや、持っていない」


 いったい何が起こったのか分からなかった。ここは危険だ。アベラルドは作戦中止を決断し、ステファニーを探した。


「ステファニー?」


 気づけば、ステファニーはミルヴァナの側に寄り添い、蹲る彼女の背中を擦っていた。それを見て身体の違和感が疼きだす。アベラルドはなぜか一歩も動けなくなってしまった。


「ミーナ、いたいいたいの?」


 ステファニーが心配そうにミルヴァナの顔を覗き込む。ミルヴァナは眉間にシワを寄せて呼吸を荒くしていた。


「大丈夫ですよ。サキュバスに成りたくても、成れないだけですから……」


 確実にサキュバスの力は戻りつつあるが、呪いが解けない。収まりどころを失った呪いは、ミルヴァナを蝕んでいた。身体中に痛みが走り、額には脂汗が滲んでいた。


「さくばしゅ? ミーナはおおきくなったら、さくばしゅになるの?」

「私はもう、大人ですよ。……もしかしたら、何者にも成れないのかもしれない」


 ミルヴァナは自嘲した。これは人を呪った報いなのだ。戦争で人間の精気を吸った罰なのだ。このままサキュバスに成りきれず、人間にもなれず、苦しみを受け入れながら生きることになるのだろうか。諦めの感情がミルヴァナを支配しはじめたとき、ステファニーが純真な質問を投げかけた。


「おとなは、なんにもなれないの?」

「大人は――」


 ――何にも成れない?

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