第18話 ミルヴァナの決意
ミルヴァナは乱れていた。突き当りの廊下の隅に倒れ込んで、何者かに追いやられている。僅かに上体を起こして、彼女は相手を恐る恐る見上げた。スカートは捲れて太腿が露わになり、流線形の白い脚が投げ出された。艶めかしいその脚で犬の尻尾を挟み込み、怯える子犬のように丸まっている。
「何するワンッ」
「さあ? 何だと思う?」
見下したまま追い詰める男――サミュエルは、すでに恍惚としていた。彼の息は荒く、肌にまとわりつくように睨めつけている。彼の舌がぺろりと唇を舐め、一層と渇望を露わにした。すると、漏れ出た魔力が影響して、ふわふわとカーテンが揺れ、小物や塵が舞う。
「分からない子には丁寧に教えてやろう」
「い、要らないワンッ」
ミルヴァナは困惑していた。フィリップならともかく、サミュエルに恨まれる覚えはなかったのだ。最近のサミュエルはミルヴァナを見つけては悪戯をしてくる。普段は軽く流せるような悪戯だが、今日のサミュエルは雰囲気が危なかった。
「どうして虐めるワン?」
「やばい。くっそ滾るな」
「サミュエル様?」
「ご主人様と呼べ」
「サミュエル様はご主人様じゃないワン」
「では宗主様と」
「そーしゅ様?」
サミュエルは不気味に微笑むと満足そうにミルヴァナを見つめた。一歩一歩近づくたびに、はぁはぁと息を吐く。いよいよ追い詰められてミルヴァナは硬直した。そのとき――
「見ぃつけた〜」
サミュエルが振り向くと、にやにやとするフィリップがいた。周りを浮遊していた物達が重力を取り戻し落下する。サミュエルの血管が浮き上がって、ぴくりと引きつった。良いところを邪魔され、地獄の怨嗟のような声で命令する。
「邪魔だ。失せろ」
「駄目ですよ。隠れんぼの鬼はミルヴァナの番です」
フィリップが渾身の笑顔を振りまいた。眩しく輝いて爽やかな風が吹く。
実は隠れんぼ中のミルヴァナがいなくなり、ステファニーが心配していたのだ。フィリップはステファニーに頼まれてミルヴァナを探していた。まさかこんな楽しい場面に遭遇するとは思っていなかった。絶好のタイミングで嫌がらせが出来て、フィリップは気分爽快であった。
「奥様が心配なさってます」
「……そうか。ならば行きなさい」
サミュエルは目の奥に憎しみを煮詰ませながらも笑顔を返した。非常に不愉快だが、ステファニーの名を出されては折れるしかない。サミュエルはその場を去ろうとして、途中、フィリップに凄んだ。
「今度やったら去勢してやる」
「必要なのは貴殿の方では?」
ゴゴゴッと不穏な空気が地の底から湧いてきて、暗雲が男達を取り巻いた。一触即発。睨み合った両者は臨戦態勢に入り、血の気配がすぐそこまで迫っていた。
「私が鬼ワンッ! 隠れんぼするワンッ」
鬼だか犬だか分からない間抜けなミルヴァナが、空気も読まずに言い放った。男達の闘志はふにゃりと萎んでいく。
「……私は仕事に戻る」
サミュエルが脱力して廊下を歩いて行ってしまった。途中、廊下に散った私物や小物を拾って去っていく。フィリップもそのまま通常業務に戻りたかったが、ミルヴァナをステファニーの元まで連れて行かなければならない。げんなりしながらフィリップはミルヴァナに手を差し伸べた。
「ほら、起きろ。奥様のところへ行くぞ」
「分かったワン」
「お前なぁ、なんで襲われたか分かってないだろ?」
「分からないワン」
ミルヴァナはきょとんとしている。フィリップはイライラしながら、何度も言ってきたことを再度教えて聞かせることにした。
「犬の真似をしてるから襲われたんだ。少なくともサミュエルの前では、耳と尻尾を外しとけ」
「そーしゅ様は犬が嫌いワン?」
「誰だよ、宗主様って? もしかしてサミュエルの奴か? うわぁ、ひく……」
ミルヴァナはなんとなく納得した。サミュエルは犬嫌いなので、犬に成りきっているミルヴァナを虐めたくなるらしい。そこまで犬としての完成度が高いということだ。そこは素直に誇らしかった。だが、虐められるのは嫌だ。かといって、ステファニーのために犬であることを辞めるつもりは全くない。では、どうすればいいのか?
ミルヴァナは考えた。馬鹿なりに一生懸命考えた。
「みんな犬になっちゃえばいいワン」
「は?」
犬は一頭では無力だが、群れで行動すれば大きな獲物も捉えることが出来るのだ。犬がたくさん居れば、サミュエルの虐めなど怖くはないはずだ。彼女の脳裏に犬となった同僚たちが次々と浮かび、彼女はにやりと笑った。ミルヴァナは自分に付けていた耳を外すと、そっとフィリップの頭に乗せた。
「すごく可愛いワン」
「おい、また馬鹿なこと考えてるだろ?」
「馬鹿なことじゃないワン。大事なことワン」
「ワンワン煩い。奥様が居ないのだから元に戻せ。そして、何を企んでいるのか今すぐ吐け」
使用人総犬化計画は犬耳フィリップによって阻止された。ミルヴァナは未だ不服そうにしているが、自分で犬耳や尻尾を揃えることが出来ないので、やはり諦めるしかなかった。
「そんなことより奥様が心配なさってる」
「そうだったわ! 早く行かなきゃ。もう! フィリップ、犬耳返してちょうだい!」
「ミーナが付けたんだろ。被害者面すんなよ」
フィリップは溜め息をつきながら犬耳をミルヴァナに返した。ミルヴァナは犬耳を装着して、フィリップと共にステファニーの元へと急ぐ。
すると、大事なまるたまちゃんが廊下の端に落ちていることに気が付いた。
「まるたまちゃん!」
サミュエルに追い詰められ、もみ合ったときに落としたのだろう。ミルヴァナは急いで拾い上げると廊下を駆けていった。
ステファニーは自室のソファに突っ伏して泣いていた。ミルヴァナはステファニーを悲しませた罪悪感に襲われる。ステファニーに歩み寄って優しく背中を撫でると、ステファニーはガバッとソファから飛び起きた。
「ミーナッ!」
「奥様」
ステファニーはミルヴァナに抱きついた。
「ミィナァァ〜! どこいってたのぉ!?」
「すみません、奥様。私が犬に成りきったばかりに……」
ステファニーはぐずぐずと鼻を鳴らして、ミルヴァナを見上げた。
「わんちゃんになってたの?」
「はい! 上手に出来ました!」
ぱあっとミルヴァナの笑顔が咲く。
後ろから二人を観察していたフィリップは、こめかみを押さえて天を仰いだ。サミュエルの前で犬になるなと助言したばかりなのに、上手に出来たと自慢しているのだ。頭痛しかしない。
「皆で犬に成れればいいのに……」
ミルヴァナは未だに使用人総犬化計画を諦めきれていなかった。それを聞いたステファニーがミルヴァナから離れ、少し考え込む。
「ステフもなりたい……」
「奥様?」
「ステフ、ユニコーンちゃんになる!」
ステファニーは高らかに宣言した。天を仰いでいたフィリップは、思わずステファニーを凝視する。ミルヴァナは手を叩いて喜んだ。
「素敵です!」
フィリップはすかさずミルヴァナをぐいっと引き寄せた。密やかな声で怒鳴りつける。
「奥様を変に煽るなっ!」
「あら、可愛くて良いじゃない」
ミルヴァナは気がついた。ユニコーンちゃんとなったステファニーはきっと可愛いだろう。何が何でもステファニーをユニコーンちゃんにしようとミルヴァナは考えた。
「まずは角を何とかしなくちゃ」
「ステフ、ピンクのユニコーンちゃんがいいっ」
「お待ちください。お裁縫道具持ってきます」
ミルヴァナはステファニーを自室に残し、裁縫道具を取りに部屋を出た。後ろからフィリップがついてきてミルヴァナを止める。
「本気で何とかするつもりかよ」
「当然よ。奥様の願いだもの。旦那様もきっと喜ばれるわ」
「旦那様にばれたら――……、鼻血吹くかもしれんな」
「鼻血?」
フィリップが遠くを眺めながら、にやりと笑った。
「俺も手伝ってやる。奥様のところで待ってろ」
なぜかやる気を出したフィリップが率先し、数十分後には衣装を用意してくれた。紙芯に布を巻きつけた角のカチューシャと小振りな付け耳、長くて茶色い尻尾だった。耳と尻尾は犬の衣装を作るときに出来た失敗作だが、フィリップが手直しして仕上げたものだ。それらをミルヴァナに渡してフィリップは口角を上げる。
「角は急拵えだが見た目は良いだろう。耳と尻尾は前に作ったものだ」
「まあ! フィル、ありがとう」
器用なフィリップはすぐに衣装を作ってしまった。ミルヴァナだけではこうはいかない。
「俺は旦那様のところへ戻るから、早く奥様と一緒に来いよ」
「ええ、分かったわ」
「「ふふふふっ」」
二人は同時に不敵な笑みを浮かべた。ミルヴァナは早速ステファニーに衣装を見せる。
「奥様、ユニコーンちゃんの衣装です」
「ほわああぁぁぁ! かわいぃ!」
ステファニーは頬を染めて喜んだ。ユニコーンの衣装を持って飛び跳ねている。ミルヴァナがステファニーに衣装を着せると、ステファニーは金の鬣を靡かせるユニコーンちゃんとなった。ステファニーは鏡の前でくるくると回って、何度も衣装を確かめる。
「しっぽ、ミーナといっしょだね!」
「一緒……」
またミルヴァナの胸がポカポカと温かくなり、顔がポーッとしてきた。誰かとお揃いになることが、嬉しいことだと最近知った。再び小さな幸福が訪れて、ミルヴァナは面映ゆくなってしまった。
「おいたんにみせにいくー!」
ステファニーは扉を開けて元気よく歩き出した。ミルヴァナも慌ててそれについていく。なんとか追いついてステファニーをアベラルドの執務室へ案内すると、ミルヴァナは扉をノックした。
――コンコンッ
「旦那様、奥様をお連れしました」
「入れ」
アベラルドは執務室で仕事中だったが、ステファニーのためならばどんな作業でも中断する。入室許可を得たステファニーは、意気揚々と部屋へ入って行った。扉の前できちんと挨拶をする。
「おーいーたーん! ステフだよ」
「ああ、よく来っ――!!」
アベラルドは息をのんだ。猫のような可愛らしい乙女が目の前にいるのだ。角が生えているが、フサフサの尻尾と耳は猫にしか見えなかった。それ以外はいつものステファニーなのに、妙に艶めかしい。アベラルドの鼻の下に赤い線が入り、フィリップが無言でハンカチを使って拭った。準備万端だった。
「おいたん! ステフね、ユニコーンちゃんになったの」
「なにっ!?」
ステファニーの口から憎きライバル――ユニコーンちゃんの名前が飛び出した。どうやらこの衣装はユニコーンちゃんを模した衣装らしい。アベラルドは嫉妬の炎を燃やした。ステファニーは可愛いが、ユニコーンちゃんに扮するなど許せない。羨ましすぎる。
「俺じゃ駄目なのか……?」
「おいたん?」
アベラルドはユニコーンちゃんと張り合った。ステファニーがアベラルドを装っても全く可愛くない。だが彼は願わずには居られなかった。
「ステファニー、俺になってくれ……」
「おいたんになるの?」
机を隔てた向こう側で、ステファニーは小首を傾げてアベラルドを見た。可愛らしい仕草に一層胸が締め付けられる。
「どうしたら、おいたんみたいにかっこよくなれるの?」
――おいたんみたいにかっこよくなれるの?
――おいたんみたいにかっこよく
――かっこよく
「お、俺は、か、か、かっこいいのか!?」
「うん! おいたんかっこいい!」
「ああぁぁ〜〜」
アベラルドは天にも登る心地だった。彼の頭上から光がさし、天の使いが降りてきてアベラルドを祝福する。初めて四歳児のステファニーから格好いいと言われたのだ。祝福の鐘が打ち鳴らされ、歓びの歌が彼を讃えた。
「んぬぁぁあっ! ステファニー!」
アベラルドは席をたち、手を広げてステファニーを迎えた。それを見てステファニーがアベラルドの元へと駆け寄る。
「お〜い〜た〜ん」
「ス〜テ〜ファ〜ニィ〜」
感動の抱擁が成されるその瞬間――
――グサッ
アベラルドは角で喉を一突きされた。
「カハッ! おのれぇ! ユニコーンちゃんめっ……」
アベラルドの憎しみが一層深くなる。紙製の角なので怪我はしなかったが、愛の抱擁を邪魔されて心が荒んだ。痛がるアベラルドを見てステファニーはしょんぼりと肩を落とす。
「おいたん、ごめんなさい」
「ステファニー……」
ステファニーは気に入っていたはずの角を取ると、ミルヴァナに渡した。
「おいたんが、いたいいたいしちゃうからいらない」
「奥様……」
ミルヴァナは胸が締め付けられる心地がした。ステファニーは大好きなユニコーンちゃんを諦めて、アベラルドを守ろうとしている。健気な彼女は四歳児だろうとも、アベラルドを大切にしているのだ。それに比べてミルヴァナは友達を失うのが怖くて呪いを解くことに消極的だ。急に自分が恥ずかしくなってきた。
反対にアベラルドは感動していた。自分のためにステファニーが自らユニコーンちゃんの衣装を取ったのだ。アベラルドは途端に優しい気持ちになり、大人の余裕が湧いてきた。ユニコーンちゃんを許せるようになったのだ。
「ありがとう、ステファニー」
アベラルドはミルヴァナからユニコーンちゃんの角を取り上げると、再びステファニーの頭に付けた。
「気をつけてくれたらそれでいい」
「ほんと!? おいたん、だいすきっ!」
ステファニーは嬉しそうにアベラルドに抱きついた。慈愛に溢れるアベラルドは彼女を包み込むように受け止める。とても愛情深い瞬間だった。彼の愛を一身に受けるステファニーは、ユニコーンちゃんの角を撫でると輝く笑顔で言った。
「やつぱりユニコーンちゃん、かっこいい!」
「くっ……、ユニコーンちゃんめっ」
結局アベラルドの嫉妬心は再燃し、まだまだ大人の余裕は身につかないのであった。
そんな二人を見て、ミルヴァナは涙が出そうになった。なぜそんなふうになるのか分からない。ただ今までにないほど心が震えた。どんな結果になろうとも、ステファニーの呪いを解く。そう決意した。
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