第15話 ファーストキス大作戦その1、後編
「ワオォォ〜ンッ!」
真打の登場。ミルヴァナが手を丸めてポーズを決め、木陰から現れた。
「はわわわあぁぁ! ミーナ、わんちゃんになってる!」
『メメメメメスッ!』
ステファニーと魔犬が、双方別の意味で喜びに震えた。すぐに動き出したのは魔犬だった。
『ふがっ! ふんっ、ワオォーーン!』
荒々しく息を吐きながら魔犬が疾走する。魔犬のターゲットがミルヴァナに変わったからといって、婦女子が魔犬に穢されそうな状況は変わっていない。ミルヴァナに危機が迫っていた。
しかし、フィリップは一瞬「ミーナならまいっか」と考えてしまった。それほど庭での訓練に苦労させられたのだ。だがフィリップも一応、紳士を自称している。魔犬の正体を知らない女性を見捨てるのは、さすがに憚られた。
「はーい、そこまで」
魔犬よりミルヴァナの近くにいたフィリップは、余裕綽々で首根っこを掴んで捕らえた。
『ふがふがっ! ワオォーーン!』
魔犬の足はまだ地面を蹴っているかのように動いている。自身が捕らわれたことに気がついていない。
「ミーナァ!」
後から追ってきたステファニーがミルヴァナに飛びついた。
「ワン!」
ステファニーを両手で受け止めて、ミルヴァナは犬のように鳴いた。すっかり犬に成りきっている。ステファニーはミルヴァナを見上げて喜びの声を上げた。
「ミーナ、わんちゃんになったの?」
「そうですワン」
「かわいぃ!」
「ありがとワン」
ステファニーはフィリップに捕まった魔犬と、ミルヴァナを交互に見た。少し考えてから何かに気がついたようだ。
「このわんちゃんは、ミーナのおともだち?」
そう言われてミルヴァナは魔犬を見た。魔犬とは仲良くはないが、ここは仲良し設定でいくほうがステファニーのお気に召すはずだ。
「お友達だワン!」
「わーい! みんなでいっしょにあそぼー!」
ステファニーはやる気満々だった。
「おにごっこだー! きゃー!」
突如として鬼ごっこが始まった。ステファニーがミルヴァナから距離を取るように走り出す。
「捕まえるワンッ!」
ミルヴァナがステファニーを追いかけると、魔犬が身を捩ってフィリップの拘束から抜け出した。
「あ、こいつ!」
『ワンッワンッ!』
「きゃー! にげろー!」
ステファニーが魔犬から逃げ出した。魔犬は錯乱しながらステファニーを追いかけている。もちろんアベラルドとフィリップが魔犬を阻止しているが、すばしっこくて捕まらない。
それを見たミルヴァナは感心しきりだった。さすが本物の犬は実に犬らしい。見事な四足歩行だ。ミルヴァナはより犬らしい演技のために、魔犬のマネをすることにした。走るのをやめ、地面に手をついて四つん這いになる。
「ワンッ」
やはり四つん這いになると犬らしさが増す気がする。ミルヴァナは誇らしくなり笑顔で吠えた。
「ワンワンッ!」
「無駄吠えが過ぎるようだな……」
いつの間にかミルヴァナの背後にいたのはサミュエルだった。ミルヴァナは四つん這いのまま彼を見上げる。サミュエルの頬は紅潮して、眼鏡から覗く目がギラギラと光っていた。薄っすらと汗をかき、辛そうに浅く呼吸している。
「ミルヴァナがメス犬……、はぁはぁ……」
明らかに様子がおかしい。
「どうしたですワン?」
「くっ……、なんて間抜けなっ」
「間抜けじゃないですワンッ! 犬ですワンッ」
「そう煽るな。後でゆっくり鳴かせてやる」
ミルヴァナの痴態は彼の性癖を芯まで貫き、加虐心を肥大化させた。彼は口の端が不気味に上がり、倒錯的な笑みを浮かべている。
「さぁ、こっちへ来い」
「いやですワンッ!」
「生意気なメス犬めえぇぇっ!」
サミュエルは乱心した。
――ゴオォォッ
彼の魔力が暴走し、背後の薔薇が灰と化す。渦巻く熱気がさらにサミュエルを熱く滾らせた。またもやミルヴァナに危機が迫る――
ミルヴァナに二度目の危機が迫って、フィリップはまた「ミーナならまいっか」と思った。だが、フィリップはサミュエルが大嫌いだ。ミルヴァナを助けることでサミュエルに嫌がらせが出来て、さらにミルヴァナに恩を着せることができる。一石二鳥とはまさにこのことだった。
「全く世話がやけるヤツだ。仕方ないな。助けてやる」
フィリップはミルヴァナの両手を取ると、ぐいっと引き上げて立たせた。サミュエルから隠すように背にかばう。
「フィルワン」
「無理にワンをつけなくていい。もはや誰のことか分からん」
フィリップは呆れながら犬に成りきるミルヴァナを眺めた。
「どういうつもりだ? フィリップ」
サミュエルが眼鏡の奥を怪しく光らせて、怒りのオーラを放っていた。ミルヴァナはびくついて、反射的にフィリップの影に隠れる。
「どういうつもりも何も、ミーナがいないと作戦にならないでしょう? サミュエル殿」
フィリップは渾身の笑顔を輝かせた。悔しがるサミュエルのなんと心地良いことか。これ以上なく清々しい。
サミュエルはフィリップを正面から睨めつけて、ぷるぷると怒りに震えていた。怨嗟の思念を飛ばすことしか出来ず、さらにイライラが増したようだ。
『キャウン、キャウ〜〜ン』
突然、魔犬の悲痛な声が聞こえてきた。そちらを見てみると、アベラルドが魔犬を捕らえていた。
「あっちも片付いたようだな。行くぞ、ミーナ」
「はいですワンッ」
フィリップとミルヴァナの二人は、サミュエルを無視してアベラルドの側へ急いだ。魔犬を持ち上げるアベラルドの周りで、ステファニーがぴょんぴょんと跳ねている。
「おいたんすごい! つかまえちゃった!」
「ステファニー、危ないから下がってくれ」
ステファニーは鬼ごっこを楽しんでいた。それを見たアベラルドは彼女の気持ちを汲んで、鬼として犬を捕獲したのだ。アベラルドはフィリップとミルヴァナに目配せをした。フィリップは正しく理解したが、ミルヴァナはさっぱり分からなかった。二人は小声で話し合う。
「俺が魔犬を連れて行くから、ミーナは奥様をガゼボへ連れていけ」
「分かったワンッ」
ミルヴァナはステファニーの手をとって歩き出した。
「奥様、ミーナと一緒にねんねごつこするワンッ」
「ミーナとねんねごっこ?」
「こっちですワンッ!」
「わーい!」
ステファニーとミルヴァナ、アベラルドの三人はやっとガゼボへと辿り着いた。サミュエルは遠くの方で控えている。これで邪魔者が居なくなった。いよいよ作戦も大詰めだ。
「ミーナは奥様のお膝で寝たいですワン。お願いしますワン」
「うん、いいよー」
ステファニーが長椅子に腰掛けるのを確認して、ミルヴァナはステファニーの膝に頭を乗せた。
――膝枕。
代表的な恋愛登竜門の一つ。人の体を間近で見つめても犯罪にならないギリギリの行為――(諸説あり)
アベラルドは興奮したと同時に、ミルヴァナが憎らしかった。
(くっ……、羨ましい……。俺もステファニーに膝枕してもらいたい! だが、今はそれどころではない。キ、キ、キ、キ、キスをしなければ! でも……)
膝枕はアベラルド自らの指示だ。それを頭では理解しているがどうしても嫉妬してしまう。気持ちがなかなかついていかないのだ。彼はその場でしばらく悶々と考え込んでしまった。
それを見たミルヴァナは今こそ仕込んだ悪事を働かせるときだと思った。ピンクブラジャーのお礼を言うことで、アベラルドの黒歴史を掘り返すのだ。ミルヴァナはステファニーの膝の上からヒソヒソ声で呼びかけた。
「今こそお礼を言うときですワン」
「あっ! そうだった! おいたん、ありがとう!」
「ん?」
アベラルドは急に話しかけられて思考がまだ追いつかない。考える前に反射的に問うていた。
「なんのことだ?」
「えっと……、ぶら、ぶら? んーと……」
「ぶらぶら?」
「おとなはガチガチにかたくって、こどもはやらわかいヤツ!」
「大人はガチガチに固く、子供は柔らかな、ぶらぶら……」
アベラルドは猥褻物しか想像出来なかった。同時に戦慄する。誰かが四歳児のステファニーに猥褻物の知識を植え付けたのは明白だった。記憶喪失になってから、ステファニーの面会は限られた人しか行っていない。まさか、屋敷の使用人らの中に犯人がいるのではないか?
「誰からだ?」
「おいたんだよー」
(まさかそんな! 俺が無意識に猥褻なことをステファニーに話していたのか!?)
アベラルドはさらに戸惑った。全く記憶にない。言われても思い出せないなど初めてだ。しかもステファニーとの会話を忘れるなんてあり得ない。だが意識のないとき、例えば寝ているときなどに見せてしまった可能性は否定できない。最近、ステファニーとの時間を取るために、彼女にはいつでもアベラルドを訪ねて来ても良いと言ってある。朝に寝室を訪れて、固くなってしまったモノを見られたのかもしれない。
「俺のを見たのか?」
「おいたんの? おいたんももってるの?」
「ああ、持ってる……」
「わあ! みせてー!」
「みっ、見せる!?」
(ステファニーに俺のモノを?)
そう考えるだけで彼の股間はむずむずして来た。ステファニーは彼のモノを見たがっている。妻の願いを叶えようとアベラルドは考えた。もしフィリップが居たら「旦那様、お気を確かに」と言って止めていただろう。しかし彼は魔犬を連れて行ってしまい、今ここには居ない。誰もアベラルドの暴走を止める者が居ないのだ。
ステファニーに大事な場所を見せる――
アベラルドは興奮した。彼女のエメラルドの瞳が真っ直ぐ彼を見つめている。曇りのない眼差しは気高く、不浄を寄せ付けない清らかさがあった。あの瞳に洗われたい。彼女に全てを許してもらいたい。アベラルドはゆっくりとベルトに手をかけた――
「ハッ!!」
アベラルドはミルヴァナに見つめられていることに気がついた。婦女子の前で股間を晒すなどあってはならない。アベラルドはようやく冷静になれた。彼はミルヴァナが視線で止めてくれたことを心から感謝した。
「い、今は見せられない」
「そっか、またこんどね」
「今度ぉ……」
アベラルドがごくりと生唾を飲み込む。
「おいたんのはなにいろ?」
「色!? 俺の!?」
「うん!」
アベラルドはなんと答えていいか分からなかった。正直に言って、アベラルドのモノは綺麗な色とは言い難い。ステファニーとは夫婦なのでいつかはばれることだが、そんなグロテスクなことを告白する気にはなれなかった。ステファニーの心的負担が大きすぎる。
「それは秘密だ……」
「ひみつのいろかぁ。ピンクだったらいいなぁ」
「ピンク……」
成人童貞に期待されるピンクの純潔。あまりにも残酷で無慈悲な要求だった。
「あぁ、すまないっ……。本当にすまない……」
アベラルドは穢れた自身を恥じ、ただただ謝るしか出来なかった。
「あのね、ステフのはピンクだよ!」
「なにっ!?」
――ステフのはピンクだよ
――ステフのはピンクだよ
――ステフのはピンクだよ
「まさか生えて……」
ステファニーは女性だ。付いているはずがない。だがアベラルドは実際に見て確認したことは一度もなかった。
(もしかして男なのか?)
ステファニーを見る。彼女は華奢で細く、慎ましいながらも乳房がある。どう見ても女性だが、世の中には「男の娘」と呼ばれる者も存在すると聞いたことがある。いかなる可能性も否定できなかった。
(俺はステファニーなら男でも……。いや、さすがにそれは……、でもステファニーなら……。だけど、でもでも、だって……)
アベラルドは混沌とした思考の渦に飲まれていった。頭が回るようにくらくらと目眩がする。この吐きそうな渦から逃れる方法は一つしかなかった。ステファニーのモノを確認するのだ――
「み、見せてくれ……」
「いいよー! ほらっ!」
ステファニーはドレスの襟ぐりをがばりと拡げて、胸元を惜しげもなく晒した。そこには柔らかそうな白い肌とピンクのブラジャーが眩しく輝いていた。
「うおおぉぉおぉぉぉおおぉっっー!!」
アベラルドは一目散に逃げた。彼は決して腰抜けではない。ただピュアが過ぎるだけなのだ。それを見たミルヴァナは歓喜した。
(あははは! やったわ! ファーストキスを邪魔してやった)
「ふふふっ、ぎゃふんだわ……。くふくふ」
すると上の方からステファニーの悲しそうな声が聞こえてきた。
「おいたん……、いっちゃった」
ミルヴァナは膝から頭を持ち上げて、ステファニーの隣に座った。彼女の横顔をそっと覗き見る。ステファニーの瞳には涙がたまり、口を引き結んでいる。今にも声をあげて泣きだしそうだった。ステファニーはちょっとしたことで泣き出すときがあり、そういう場合、落ち着いて話を聞いてあげていた。だが、今はいつもと雰囲気が違う。悲壮感漂う顔で必死に涙をこらえていた。ミルヴァナは急に胸の痛みを覚えて苦しくなった。なぜだか分からないが最近、ステファニーが悲しむと胸の奥がきゅっと締め付けられるのだ。
「奥様……」
「おいたん、ステフのこときらいなの?」
ステファニーの涙がぽろりと頬を伝った。一つまた一つと次々に涙が落ちていく。声のない涙がステファニーの顔をぐちゃぐちゃに濡らしていった。じんわりと全体がかすみ、ステファニーの姿が歪んでいく。
「あれ?」
ミルヴァナは指で自分の頬に触れた。しっとりと濡れている。
(私、泣いてる?)
魔族でも涙が出るのだと初めて知った。涙の原因は分かっている。この胸の痛みだ。ステファニーが悲しむと涙が出るほど苦しくなるのだ。
「嫌い、ではないと思います」
「ぐすっ……、ほんと?」
本当はアベラルドをかばうようなことを言いたくない。そのはずなのに、ミルヴァナの口は自然と言葉を紡いでいった。
「奥様は愛されています。旦那様は一緒にご飯を食べたり、遊んだり、お揃いのものを贈ったり……。このお庭も奥様のために綺麗なお花を揃えたんですよ。だから、大丈夫です」
ステファニーは未だ流れ続ける涙を拭うと、ミルヴァナに抱きついた。
「ステフ、おいたんすき」
ミルヴァナはステファニーを抱きしめ返した。小さな声で「知っています」と答える。ステファニーはミルヴァナの腕の中で顔を上げると、泣き顔を緩ませて笑顔を見せた。
「ステフね、ミーナもすき」
じんわりと胸が震えて、喉元に熱がこみ上げる。顔が燃えるように熱い。
「私も好きです。奥様」
「くふふっ。ステフとミーナ、おともだちだね!」
「友達……」
ミルヴァナに溜まった熱が昇華するように引いていき、胸の痛みが優しく癒されていく。ミルヴァナはポケットの中にあるローズクォーツの丸玉を握りしめた。昂ぶりが丸玉に吸い取られ、落ち着きを取り戻していく。
「初めてお友達ができました……ワン」
落ち着くと同時に犬役であったことを思い出し、ミルヴァナは語尾を修正した。
ミルヴァナとステファニーは二人で笑い合った。照れくさいけれど幸せな時間が二人を包む。ミルヴァナに初めての友ができた。すると途端に、アベラルドへの復讐が陳腐なものに感じられてきた。淫欲が強かろうが、純愛が強かろうがどちらでも良くなってしまった。両方強いということで良いではないか。ステファニーのためにも呪いを解いてあげたい。ミルヴァナはそう思うようになった。
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