第14話 ファーストキス大作戦その1、前編

 ミルヴァナはファーストキス大作戦のために必死に準備していた。犬役を滞りなくこなすためだ。以前に試着した犬の衣装はフィリップが取り違えていたらしく、後日に別のものを持ってきてくれた。そちらはサイズ関係なく、犬耳、尻尾、肉球手袋を付け、犬足ブーツを履くだけだった。後はいつものお仕着せなので、非常に動きやすい。


 衣装を着た状態でフィリップと実地訓練に入ったが、それは困難を極めた。とりわけ苦労したのが庭の地理だ。どこも同じような造りなので、何度も何度も迷ってしまう。フィリップも最初は何処か楽しそうに訓練してくれていたのに、いつの間にか魂が抜けていた。


「フィル、お願い! 気を強く持って!」

「ミーナがそれを言うのかよ……。頼むから道を覚えてくれ」


 最終的にフィリップは要所に看板まで設置してくれた。これで秘密裏にガゼボまで行くことができる。

 そして、ついにファーストキス大作戦の日がやって来た。

 今日はステファニーを盛装させなければならないので、朝から大忙しだ。ミルヴァナはまずステファニーを朝風呂へ入れ、クリームで全身をマッサージした。着替えのドレスの前にミルヴァナはピンクブラジャーを手に取る。苦労して手に入れた品を今日初めてステファニーに着せるのだ。ミルヴァナはピンクのブラジャーを盆に乗せて跪き、頭上へ掲げた。厳かにステファニーへと献上する。


「奥様、ピンクのブラジャーです」

「ほわああぁぁ! ずごいすてきぃ……」


 ステファニーは目を輝かせてブラジャーを見つめている。お風呂上がりのステファニーはショーツとガウンを一枚着ているだけだ。ミルヴァナはガウンを脱がせて真新しいブラジャーをステファニーに着せた。


「おっぱいのやつ!」

「奥様、これは特別なブラジャーです」

「とくべつ?」

「はい。大人用は針金でガチガチに固めている物が多いのですが、これは柔らかくできてます」

「やらわかい!」


 大人は活発に動かないので固くてもさして問題ない。むしろ形を美しく見せるために、固い物のほうが貴族女性に好まれるのだ。しかし、ステファニーはよく遊びで体を動かす。そこでミルヴァナは仕立屋に柔らかく作らせたのだ。


「子供に優しいブラジャーです」

「すごいねー!」


 ステファニーは嬉しそうに鏡の前に立ち、下着姿を堪能していた。ミルヴァナは自分の気使いが報われた気分だった。ふわふわとした心地がして心が温まる。普段はフィリップに馬鹿にされるが、やはり得意分野で役に立てると凄く嬉しい。


(はっ! また復讐のことを忘れていたわ! 危うく絆されるところだった。奥様……、侮れないわね)


 ミルヴァナはやっと復讐のことを思い出し、考えを巡らせた。今日のファーストキス大作戦で最後の最後にキスを邪魔する予定だ。しかし、さらにアベラルドを追い詰める策を思いついた。


「奥様、ぜひ旦那様にブラジャーのお礼をしてくださいな」

「おいたんにおれい?」

「ブラジャーを買ってくださったのは旦那様です。ありがとうと言いましょうね」

「あいっ! おいたんにありがと」


 これでアベラルドはお礼を言われると同時に「旦那様授乳事件」を思い出すはずだ。黒歴史を思い出し、羞恥に悶える様が目に浮かぶようだ。アベラルドの精神を容赦なく抉る策に、我ながら悪女だなとミルヴァナは得意になる。


「ふふっ、ぎゃふんぎゃふん……」


 またまたミルヴァナの心の声が漏れた。


「ミーナ?」

「はっ! すみません!」


 ミルヴァナは慌ててドレスの着付けに取り掛かった。ステファニーを着付けたあと談話室へ送り、すぐに犬の衣装を身に着け、ガゼボに待機しなければならないのだ。遅刻なんてしたらフィリップにまた怒られてしまう。ミルヴァナは気を引き締め直し、ファーストキス大作戦に挑むことにした。



 天上の夢乙女だと、アベラルドは思った。爽やかな水色のドレスがふわふわと揺れて、同じように長い金の髪が跳ねる。風に包まれたように軽やかで、水面に溶けたように光が瞬く。眩しいステファニーはいつもより大人っぽい。内に秘めた幼さが垣間見えるとき、思わずドキリとするほどだった。


(美しい……)


 アベラルドはただその言葉しか浮かばない。彼は魅入ってしまった。動かざること山の如し――


「――な――ま」

「お――ん」

「だ――なさ――」

「――おいたんっ!」

「ハッ!!」


 一同の必死の呼びかけにより、アベラルドの意識が浮上した。直後に、ぐらりと巨躯を揺らし床に膝をついた。


「はぁ……はぁ……」


 苦しくて息使いが荒くなる。ステファニーがあまりに愛らしくて、息をすることを忘れていたのだ。膝をついて蹲ったまま、アベラルドが息も絶え絶えに言葉を発する。


「はぁ……、可愛ぃぞ。ステファん……、ニぃー……」


 妻を褒めただけなのに、どこぞの変態のようだった。フィリップが水を用意してアベラルドに差し出す。なんとか体勢を立て直し、彼は水を飲んで心を落ち着けた。辺りを見渡すとステファニーとフィリップが心配そうにアベラルドを見ている。どうやら談話室で意識を飛ばしていたようだ。


 今日のアベラルドは珍しく白いモーニングコートでばっちり決めている。黒一色の軍服は威圧感があるので、少しでもステファニーが心安らかに庭園を楽しむための配慮だった。二人合わせて仕立てた衣装は、素敵な夫婦を存分に演出していた。傍から見れば、庭の散歩のためだけに全力でおめかししているだけだ。しかし決してそれだけではない。


 ――記憶に残る素敵なファーストキス


 その瞬間を作るため、それぞれの作戦行動がついに開始された。


「旦那様、庭の薔薇が見頃でございます。奥様とご一緒に散策されてはいかがでしょうか?」


 フィリップが最初の一手を打つ。談話室から庭へ出なければ、何も始まらない。


「ステファニー、行こうか」

「はぁいっ!」


 ステファニーは元気にお返事をした。彼女は率先して庭へと駆け出す。ステファニーはまだエスコートを受けることが出来ないのだ。アベラルドは眩しそうに微笑んで、ステファニーの後に続いた。フィリップが言うように、まさに薔薇が見頃を迎え色とりどりに咲き乱れていた。ガゼボへと向かう道なりに花が連なり、庭師とフィリップの努力が結実した景色だった。


「ほわわわぁ! すごいぃ!」


 ステファニーは花の香りを嗅ぎながら大きく息を吸い込んだ。


「触ると棘に刺さるから気をつけろ」

「んあいっ! ピンクのおはな!」


 夫婦はピンクの薔薇を愛で、お互いにどんな花が好きなのかを語り合った。ステファニーが蝶を見つけて興奮し、アベラルドがそれを捕まえてやると二人は楽しそうに笑い合う。とても良い雰囲気だった。


 そんな二人を見守りながら後ろに続くのは、サミュエル、フィリップの二人だ。ミルヴァナは犬役の準備のためここにはいない。サミュエルは細事の処理と、有事の対応のために。そして、フィリップはガゼボでのお茶会の世話役としてついてきていた。


 いよいよガゼボの手前に差し掛かる。フィリップは緊張した。ミルヴァナは本当に一人で待機場所に辿り着いているのか。こんなに不安になるなら庭師に案内を頼めば良かったと後悔した。犬役のことをステファニーに秘密にするために、作戦に関わる人間が制限されており、フィリップは庭師に頼めなかったのだ。


 ――ガサガサッ


 近くの花壇の茂みが怪しく揺れた。ミルヴァナが無事に辿り着いていたのだ。フィリップはホッと胸をなでおろし、ミルヴァナを待った。


(さあ! いつでも来い!)


 ――タタタタッ! ぴょん!

『ワオ〜ン!』


 飛び出したのは魔犬だった。


「あっ! わんちゃん!」


 ステファニーが魔犬を見つけて駆け出す。魔犬の正体を知る者達は震撼した。


(なぜヤツがここに居るのだ!!)


 男性陣は同時に同じことを思った。特にアベラルドはステファニーを守らなければならない。下品な魔犬に恫喝しようとして、途端に気がついた。ステファニーは魔犬のことを愛らしい子犬だと思っている。ここでアベラルドが子犬を脅せば、ステファニーは悲しむだろう。せっかく良い雰囲気だったのに、こんなことで失敗は出来ない。アベラルドはフィリップに目配せして、魔犬を追いやるようにと念を込めた。


 それを受けたフィリップはアベラルドの意図を正しく汲み取った。彼は大きく頷くと、魔犬を捕獲するためにステファニーの元へ駆け寄った。だが、時は既に逸していた。ステファニーは腰を低く落として魔犬を受け入れる体勢に入っている。魔犬は迷わずステファニーの胸元をめがけて全力疾走だ。


(間に合わない――)


 ステファニーの胸元が魔犬で穢されてしまう――その瞬間――


「ワオォォ〜ンッ!」

 真打の登場。ミルヴァナが手を丸めてポーズを決め、木陰から現れた。

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