第8話 彼女は馬鹿

 フィリップは午前中で仕事を済ませ、街へ自分の買い物へ行く予定だった。個人で利用する日用品を買うためだ。お仕着せを脱いで普段着に着替えてから屋敷を出ると、すぐに異変に気がついた。


「何やってるんだよ」

「ああっ! フィル!」


 ミルヴァナが地面に蹲って何やら描いていた。木の棒を握りしめて彼女が訴える。


「街への行き方が分からないの」

「街? だったら何を描いてたんだ?」

「地図を思い出して地面に描いてみたの。この地図でいえば街はどのへんかしら?」


 ミルヴァナは自身の描いた地図をフィリップに見せた。それをみたフィリップは呆れ返る。


(世界地図かよ。スケールがでか過ぎる……)


「街はここで、お屋敷もここだな」

「全く同じ場所じゃない。馬鹿なの? フィル」


 馬鹿に馬鹿かときかれてフィリップはカチンときた。


「馬鹿はお前だろ。縮尺考えて地図描けよ」

「しゃくしゃく?」

「ミーナと話してると疲れてくるな……」


 ミルヴァナはむっとしてフィリップを小突いてきた。小突かれるなど心外だ。これから助けてやるというのに。


「やめろ。街へ連れてってやるから」

「本当!? ありがとう!」


 現金な女だとフィリップは思った。しかしフィリップも街へ行く予定だったので、物はついでだ。案内くらいしてやろうと考えた。そして二人は歩き出した。


「フィリップもお使いなの?」


 ミルヴァナが握っていた木の棒を傍らに投げ捨てて質問した。


「いや、俺は個人的な用事だ」

「そう。私は一応お使いなの。フィルが通りかかってくれて助かったわ」

「全くその通りだな」


 どうもミルヴァナは抜けていて、放っておくとすぐに失敗しそうだ。浅い仲とはいえ仕事仲間なので助けてやろう。フィリップは自身が優しいヤツだということに改めて感心した。


「お使いって何を頼まれたんだ?」

「注文していた品物を店に取りに行くのよ」

「ふーん」


 フィリップは違和感を覚えた。屋敷で使うものは通常、商店の人間が持ってきてくれる。特注品であろうとそれは変わらない。わざわざ取りに行く必要がないのだ。


(もしかして、男に会いにいくのか?)


 ミルヴァナはきちんと着飾っていた。街へお使いに行くにしては綺麗過ぎる。合点のいったフィリップだが、急に面倒になってきた。


(何が面白くて逢引の面倒をみんといかんのだ)


 フィリップは隣で平然と歩いているミルヴァナをちらりと見た。その視線に気付いてミルヴァナはにこりと愛嬌を振りまく。


(可愛い顔してちゃっかりしてるな。強かな女だ)


 フィリップは、お使いを偽装してまで会う男に興味が湧いてきた。そして悪戯心が芽生える。待ち合わせ場所まで押しかけて、男と対面してやろう。わざわざ送ってやるのだから、一目見るくらい許されるはずだ。自分のような色男が彼女を送ってきたとなるとその男は嫉妬しそうだが、それはフィリップの知ったことではない。ミルヴァナと男の間に信頼があれば破局することはないだろう。


「俺が店まで送ってやるよ」

「わあ! ありがとう!」


(あれ? 素直に喜んでる?)


 期待した反応ではなかったが、ミルヴァナなら当然の反応かもしれないと思い直した。きっと彼女は何も考えていない。それから二人は他愛ない会話をしながら、街へ向かった。


 一方、ミルヴァナは使命を与えられていた。ステファニーのピンクブラジャーを店まで取りに行くのだ。通常、ステファニーの身につけるものは仕立屋が来て採寸し特注する。もちろん納品は屋敷に仕立屋を呼びつけて行われる。


 だが、旦那様授乳事件は起きてしまった。


 この屋敷の主人であるアベラルドに商人の出入りは逐一報告される。もし、仕立屋がピンクブラジャーのために屋敷を訪ねてきたと知れば、アベラルドはまた旦那様授乳事件を思い出す。その心労はいかばかりか。ピンクブラジャーの注文に関して、決して主人に知られてはならないのだ。使用人たちの涙ぐましい配慮により、採寸はミルヴァナが秘密裏に行い、注文は家令のサミュエルが闇夜に紛れて済ませた。後はミルヴァナが商店へピンクブラジャーを受け取りに行くのみだ。


 貴族お抱えの仕立屋は一見さんお断りである。ミルヴァナは事前に話を通しているとはいえ、いつものお仕着せでは敷居すら跨げない。淑女らしく装う必要があった。初めての街にミルヴァナは興奮しており、さらに気合いが入るのは必然だ。ミルヴァナはどこから見ても立派な淑女となっていた――


「キャスリンがフィリップとヤりたがってたわよ」


 立派な淑女ではなく元サキュバスだった。独身男性と淑女が道すがら話すような内容ではない。


「ミーナ、貞淑という言葉を知ってるか?」

「定食?」

「陰部の話は禁止と言っただろう」

「陰部と定食に関連があるの? 陰部定食? それっておいしいのかしら」


 話が通じなくてフィリップはげんなりした。


「男女の情事に関わることは、あまり積極的に話すな」

「積極的というか……、気が散るの」

「気が散る?」

「仕事中でもキャスリンが思い悩んじゃって……」


 フィリップは全てを察してしまい、少し申し訳なくなった。


「あー、その。すまん」

「いいけど……。彼女はもっと時間をかけるのがご希望だそうよ」

「こっちにも都合があってね」


 フィリップはそう言った後に気がついた。


(この話題は、もしや牽制か? 逢引する男を見られたくないために、恩着せがましく俺の交友関係を取り上げた?)


 もしそうならミルヴァナの認識を改めなければならない。とんだ曲者だ。そうしてフィリップが静かに緊張するなか、二人は街に到着した。街の入口でフィリップがミルヴァナに質問する。


「で? 店はどこなんだ?」

「待って。メモを貰ったの」


 サミュエルからのメモには店の住所と名前、担当者の氏名が書かれていた。


「いつもの店だな」

「場所知ってるの?」

「知らんが、だいたい分かる」


 フィリップは先導して歩き出した。ミルヴァナがそれに続く。店に近づくに連れて、フィリップの焦りは大きくなっていった。ミルヴァナが何も言い出さないからだ。メモまで用意されていて、偽装のレベルはかなり高い。ミルヴァナが、どのタイミングで男と会うのか全く分からなかった。もしや店員の中に逢引相手がいるのではないか。フィリップは考えを巡らせていた。


「着いた。ここだ」

「本当にありがとう。助かったわ」

「……」

「フィル?」

「俺も入る」


 こうなったら意地でも男の面を拝んでやる。ミルヴァナがキャスリンの話題を持ち出さなければ、素直に諦めて店先で別れていただろう。だが、牽制までされたらもっと見たくなってしまった。


「最後まで付き合ってやるよ」


 フィリップは渾身の笑顔でミルヴァナに微笑んだ。これで落ちなかった女はいない。


「わあ、ありがとう! 帰り道に自信がなかったの!」


 必殺の笑顔をスルーされ、フィリップは沈黙した。この女はいったい何なのか。全く考えが読めない。ただ、帰路まで当てにされているということは分かった。


「いらっしゃいませ。フィリップ様」


 女性店員がフィリップの顔を覚えていた。辛うじてフィリップが自信を取り戻す。先程のフィリップ渾身の笑顔を見た女性店員は、頬を染めて彼を見つめている。これだ。この反応を期待していたのだ。肝心のミルヴァナは見向きもしない。


「ほら、品物を取りに来たんだろ」

「あの。担当者のロジャー・クロス様はいらっしゃいますか?」

「ご案内いたします」


 二人は店の奥にある応接室に通された。さすが貴族御用達といえる重厚な装いの部屋だ。女性店員は案内を終えると退室し、フィリップとミルヴァナは二人きりになった。ソファに座って、静かに担当者を待つ。このタイミングで逢引相手が来れば、フィリップの小さな悪戯は成功する。フィリップは担当者のロジャー・クロスをミルヴァナの逢引相手とほぼ断定していた。屋敷に来ることが出来る者は限られている。その男以外考えられない。


「楽しみだな」


 うっかりフィリップの心の声が漏れる。それを聞いたミルヴァナは、彼が何を楽しみにしているのか分からなかった。ここではピンクブラジャーを引き取ることしかしない。いったいどういうことなのか?


(ピンクブラジャー、好きなのかしら……)


 普通に考えれば、キャスリンに着てほしいのかもしれない。でも、この取引にフィリップは関与していない。ピンクブラジャーはステファニーのものだ。フィリップがブラジャーの引き取りを見ることができても、彼が楽しみにするようなことは何もないのだ。


 ステファニーのことが好きでない限り――


(これはチャンスだわ!)


 もしフィリップがステファニーのことを密かに好きならば、それを煽って三角関係に持ち込むことが出来るかもしれない。泥沼となった人間関係は最高の復讐になるだろう。わざわざ店にまで着いてきた彼は、きっとピンクブラジャーを見たいに違いない。生々しいステファニーの妄想を助けるためにも、是非ブラジャーを見せる必要がありそうだ。


「楽しみなんて……、そんなに見てみたいの? フィル」

「ああ、見てみたいさ。ミーナ」

「……」

「……」


 ひとときの間、二人の視線が交錯する。


「おほほほほっ」

「あははははっ」


 緊張感のある笑いが響く。二人は楽しくて仕方なかった。それぞれの馬鹿らしい思惑が火花となって放出され、お互いの間で激しく散る。


「お待たせいたしました」

「「来たぁっ!」」


 同時に発声した二人は前のめりで扉に近づき、担当者のロジャー・クロスに詰め寄った。突然迫られたロジャーは驚きたじろぐ。


「お前がロジャー・クロスか!?」

「ひいっ! 然様でございますぅ」


 フィリップのあまりの剣幕にロジャーが萎縮してしまった。それを見たミルヴァナが驚き、フィリップを嗜める。


「フィル、そんなにがっつかなくてもブラジャーは逃げないわ」

「は?」


 ミルヴァナはロジャーが持ってきた箱を受け取り、リボンを解いて蓋を開けた。淡いピンクブラジャーがキラキラと輝いている。


「見たかったのでしょう? ピンクのブラジャー」

「はあ!?」


 ロジャーが変質者を見る目でフィリップを一瞥した。


「いやいやいやいや、ブラジャーなんて見慣れてるから」

「そんなに頻繁に奥様のブラジャーを盗み見ているの?」

「ちがぁぁぁーーうっ!!」


 焦り過ぎてフィリップの言い訳が言い訳になっていなかった。ロジャーが引きつった顔をしている。フィリップはどうしてここにいるのかを思い出した。


「俺が見たかったのは逢引相手だっ!」

「逢引相手?」

「ミルヴァナの男を見たかっただけだ」


 そう言ってフィリップはロジャーに視線を投げた。ロジャーは激しく首を横に振っている。


「まさかまさか! 滅相もないっ!」

「そのようだな」


 フィリップは自分の勘違いに気がついた。ミルヴァナは初めから嘘などついていなかったのだ。当のミルヴァナを見ると、彼女は驚いたようにフィリップを見返していた。


「じゃあ、奥様のピンクブラジャーが見たかったわけじゃ……」

「そんなわけあるかっ!」


 その後、フィリップとミルヴァナはお互いの誤解を解いた。ブラジャーを受け取って店を出たあと、フィリップは自分の買い物をする気になれなかった。ミルヴァナを突き放すように別れた後、そのまま街から逃げ出した。屋敷へ帰って、自室のベッドへ沈み込む。


「疲れた……」


 フィリップは再認識した。ミルヴァナは正真正銘の馬鹿であると――

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る