第5話 復讐のはじまり、後編

 ミルヴァナは朝食後、ステファニーを自室へ送ってから従僕のフィリップを探した。どうしても「目の毒」とは何なのかを確認したかったのだ。しかも、食事に集中できなくなるほどの毒だという。ミルヴァナはそれこそがアベラルドの弱点だと考えた。常にアベラルドと一緒に居るフィリップなら知っているかもしれない。フィリップは談話室で主人を迎える準備をしていた。


「フィル、ちょっといいかしら」

「んー、ちょっと待て」


 フィリップはティーセットの最終チェックを終えると、ミルヴァナに向き直った。


「なに?」

「今朝、旦那様が言ってた目の毒って何かしら?」

「あー、それはアレだ……。奥様への想いが強すぎて気が散るってことだ」


 抽象的すぎてミルヴァナには理解出来なかった。


「想いって?」

「愛だよ、愛。言わせるな」

「愛ですって!?」


 サキュバスはアベラルドの純愛に負けた。彼の愛は強かったが、先程はその愛ゆえに目が毒されたという。あまりに違う反応に戸惑ってしまった。


「……旦那様も男なんだよ」

「性別の問題なの?」

「だーかーらー! 劣情爆発してんだよ!」

「れつじょーばくはつ?」

「うわぁ。これでも通じないのかよ」


 ミルヴァナは馬鹿にされてむっとした。悔しいがフィリップが何を言いたいのか分からない。しかし、これを理解すればアベラルドを弱らせることが出来るかもしれないのだ。恥をしのんで教えを乞う価値はある。


「お願い、フィル。教えて欲しいの」


 フィリップの瞳が一瞬揺れる。彼はミルヴァナの耳に唇を寄せると、囁くように答えを教えてくれた。


「――ラ――――み――――なっ――」

(そうかっ! そうだったのね!)


 さすがは元サキュバス。分かりやすい言葉で説明されて全てを理解した。


「ムラムラして、ちん――むぐぅ!」

「だああぁぁぁっっ! 皆まで言うな!」


 突然、フィリップが慌ててミルヴァナの口を塞ぐ。


「嫁入り前の若い娘は、陰部の話は禁止だ!」

「そんな規則があったのね。知らなかったわ」

「いや、規則じゃないが……。こいつ無知過ぎる」


 フィリップはがっくりと肩を落とした。しかし彼はすぐに頭を振ると持ち直し、ミルヴァナに指示を出す。


「無駄話はここまでだ。それより今日は旦那様が奥様とお茶をご一緒なさる。三十分後でいいか?」

「いいわ。三十分後に談話室ね」


 ミルヴァナにとって、淫欲を煽って夫婦愛をめちゃめちゃにすることこそが復讐だった。だが淫欲を煽ることで、アベラルド一人が毒で弱るのも悪くない。そうと分かれば、ステファニーに新たな悪事を仕込まなければと、彼女は急いでステファニーの部屋へ戻った。


 ステファニーは部屋のソファの上でゴロゴロと寝転がっていた。ミルヴァナはステファニーを起こして座らせると、これからの予定を報告する。


「奥様、このあと旦那様とお茶をご一緒する予定です」

「おいたんとおちゃ?」

「お菓子も食べられます」

「おかしーっ!」


 ステファニーは飛び上がって喜んだ。ミルヴァナはさっそく劣情爆発のための仕込みを開始する。


「奥様、あーん、をご存知ですか?」

「あーんしってるー!」

「さすがは奥様! 分かっていらっしゃる」


 あーんとは、手ずから食べ物を与え合う行為である。ステファニーはその可愛い口を開けて、あーんあーんとはしゃいでいる。


「あーんの後もご存知ですか?」

「あーんのあと? しらなーい」

「あーんの後はペロペロでございます」

「ぺろぺろ?」


 四歳児に教えるにはあまりにも卑猥。だが、ミルヴァナはお構いなしに悪事を仕込んだ。


「手についたお菓子を綺麗に舐めなくてはいけません」

「すごいっ! しらなかった! ミーナかしこい!」


 ステファニーが尊敬の眼差しでミルヴァナを見つめた。


「はやくなめなくっちゃ!」


 さらには使命感まで燃やしだした。ステファニーはやる気満々だ。その後、ステファニーの三つ編みをほどいて着替えを済ませた。そしてすぐにステファニーの気持ちが急いて、早めに談話室へ移動することになった。



 そわそわそわそわ。

 うろうろうろうろ。

 アベラルドも我慢できずに談話室へ来ていた。その隣でフィリップが手際よくお茶の準備を進めている。アベラルドは朝食時のステファニーのことを思い出していた。彼女の眩しい笑顔を思い出すだけで心が踊る。部屋にノックの音が響いて、アベラルドは我に返った。急いでアベラルドが入室許可を出すと、ステファニーとミルヴァナが入ってきた。


「おーいーたーん!」


 軽い足取りでステファニーがアベラルドに駆け寄る。小走りなど淑女として恥ずかしい行為だが、ステファニーが駆け寄るとなれば話は別だ。可愛いは正義なのだ。


「よく来た。ステファニー」

「おかし たべにきたー」

「そうか、そうか」


 アベラルドとステファニーは席についた。テーブルには可愛らしい形のクッキーが並べられ、苺ジャムやチョコレートなど目に鮮やかだ。シェフが気合を入れて作った菓子らは、ステファニーには宝石のように見えた。


「ほわあぁぁっ!」

「ステファニーはチョコクッキーが好きだったな。いるか?」

「んあい!」


 すぐにフィリップがトングを使ってチョコレートクッキーをつかみ、ステファニーの皿に取り分けた。皿に置かれた途端にステファニーが食べる。


「おいしいっ」

「良かったな」

「おいたんもチョコすき?」


 好きかと聞かれてアベラルドの胸がどきりと跳ねた。問われているのはクッキーの好みだ。アベラルドを好きかときかれてもいないのに、ついつい緊張してしまう。


「す、す、好きだっ!」

「ステフもだいすきー!」

「くっ……しあわせ……」


 クッキーを自身と置換するだけで至福を得る。アベラルドの幸せ回路は騙しやすいのだ。ほのぼのとしたお茶会が続く中、ミルヴァナがステファニーの汚れた口元をナフキンで拭った。同時にステファニーの耳元でひそひそと囁く。


「あ! そうだった!」


 ステファニーは何かを思い出したようだ。彼女はテーブルに少し身を寄せると、アベラルドに向かって口を差し出した。


「あーん!」

「なっ――」


(これはっ! 伝説の恋愛登竜門! 手ずから食べ物を与える恋人同士の睦みごと……)


 アベラルドは興奮した。ステファニーは口を開いてクッキーを待っている。その小さく開けた口から花弁のような舌が見えていた。湿り気のある唇をそれがぺろりと舐めると、ステファニーが喉をこくりと鳴らして唾液を嚥下する。クッキーを待ちきれず唾液が溢れただけだが、ひどく色っぽい。ステファニーの中身は四歳児だが、体は花も盛りの麗しい女性である。


(目が離せない。離したくない)


 アベラルドは固まってしまった。それを見たフィリップが小皿に一枚のクッキーを乗せると、さっとアベラルドの眼前に差し出した。アベラルドはステファニーから視線を外さずにクッキーを手に取る。


 手が震える。心が震える。

 ゆっくりとクッキーをステファニーの口へ寄せた。寄せるたびに心臓がドクンと耳を打つ。クッキーを柔らかな舌先に乗せると、彼女の呼吸まで感じられるような気がした。舌に乗せられたクッキーを、ステファニーは唇で包むように挟んだ。


(手を離すのが惜しい……)


 アベラルドは出来る限りゆっくりと手を離した。ステファニーがクッキーを咀嚼する。全てがスローモーションで再生され、それを脳に焼き付けた。だんだんとアベラルドの息があがる。

 ふいにステファニーがアベラルドの手を掴むと、そのまま彼女はその舌で指を――


(なななななめっ!? おれのゆび? ええぇ!?)


 アベラルドは頭が真っ白になった。


「これは夢だこれは夢だこれは夢だ」

「旦那様、お気を確かに」


 彼は背もたれにだらしなく身を預け、目は焦点が合っていない。フィリップがアベラルドの体を揺らして呼びかけている。


 一方、ミルヴァナは達成感に浸っていた。目論見通りの反応が楽しくて仕方がない。


(ぷぷぷっ! 不様だわ! 舐められただけで朦朧としてる。この調子でもっとぎゃふんと言わせてあげるわ!)

「ぷはっ。ぎゃふんぎゃふん……、ふふふ」


 ミルヴァナの素直な喜びが漏れ出る。彼女は隠しごとが苦手なのだ。


「ミーナ」


 クッキーに夢中だったステファニーが、突然ミルヴァナを呼んだ。


「はい、奥様」

「ステフはクッキーやさんです! いらっしゃいませっ」


 ステファニーはお店屋さんごっこを始めてしまった。予想外の展開にミルヴァナは戸惑ってしまう。ここはアベラルドに丸投げすることにした。


「旦那様。奥様とごっこ遊びをなさって下さい」

「はっ! ステファニーと、ごっこ遊びだと? そんな、心の準備がっ……。まだキスもしてないし……」


 アベラルドの興奮が再燃する。いったいどんなごっこ遊びを妄想しているのか。


「旦那様、お店屋さんごっこです」

「いらっしゃいませっ」


 ステファニーはクッキーを並べて、アベラルドに期待の眼差しを向けた。アベラルドは勘違いを恥じて顔がかっと熱くなる。彼は気を取り直すと、姿勢を正してステファニーに向き合った。


「コホン、おすすめはどれかな?」

「んーと、おすすめはぁ……、チョコ!」

「ではそれを二枚貰おう」

「あいっ! 三百リラです」


 アベラルドは金銭を渡すフリをして二枚のクッキーを受け取った。そのままクッキーを食べる。するとステファニーはミルヴァナをじっと見つめながらお店屋さんごっこを続けた。


「いらっしゃいませっ、いらっしゃいませっ」

「……」

「いらっしゃいませっ、いらっしゃいませっ」

「くっ……」


 無垢を笠に着た「いらっしゃいませ」の圧力。街中で耳にしても何とも思わないその響きは、ステファニーにかかると不思議と焦燥に駆られる。何か買ってあげなければ、と義務感さえ湧いてくるのだ。ミルヴァナは圧力に負け、クッキーを注文することにした。


「チョコクッキーをくださいな」

「なんこですか?」

「五枚ください」

「んあい!」


 ステファニーはクッキーを皿に取り分けるとミルヴァナに渡した。


「おいくらですか?」

「三百リラですっ」


 アベラルドは三百リラで二枚、ミルヴァナは同額で五枚。その事実がアベラルドを動揺させた。


「なんだと……?」


 無慈悲な単価格差に愕然とする。明確なえこひいきだ。


「ミルヴァナ、ステファニーに何をした?」


 アベラルドは地を這うような低い声で怒りを放つ。ミルヴァナは何もしていない。ステファニーがお金の計算を出来ないだけだ。


「何もしておりません!」


 ミルヴァナに緊張が走る。アベラルドの威圧に肝を締め付けられ、脂のような汗がじっとりと伝った。ミルヴァナには魔族の力はもはや無い。今、アベラルドに攻撃されれば成す術は何もないのだ。久方ぶりの恐怖を感じて足が竦む。


「おいたん、どうしたの?」

「ステファニー……」


 不穏な沈黙が辺りを包む。ステファニーはよく分かっていないようだ。見かねたフィリップが助け舟を出した。


「奥様、旦那様が二枚だけなのはおかわいそうです。もっとクッキーを差し上げてください」

「さしあけ?」

「旦那様にクッキーをあげましょう、ということです」

「おいたん、クッキーほしいの?」


 むしろステファニーが欲しい――という言葉をアベラルドは何とか飲み込む。


「そうだ」


 そう答えると、ステファニーは満面の笑みを浮かべた。彼女は一枚のクッキーを手に取ると、身を乗り出してアベラルドの口元へと差し出した。


「おいたん、あーん!」

「うっ!」


(食べていいのか!? 手ずから? はっ!! まさかそんな……。食べた後は、舐めてもいいのか? ステファニーの白い指を……。指を舐めたいぃいイィぃ!)


「なめっ! なめたっ、ゆびっ! なめええぇっ!」

「旦那様、お気を確かに。舐めてはいけません」


 冷静なフィリップの忠言を聞いて、アベラルドは床に崩れ落ちた。


「あぁゔぅっ……」


 悲痛な呻き声を出しながら蹲り、本日のお茶会はお開きとなった。ミルヴァナは命拾いしたと安堵して、フィリップに感謝した。今回は肝が冷えたが、アベラルドの反応は上々だ。この調子で追い詰めていこうとミルヴァナは決意した。

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