第4話 復讐のはじまり、前編
アベラルドの一日は葛藤から始まる。
初夜以降、妻のステファニーとは別室にて就寝している。四歳児(精神のみ)に手を出して、心に傷を作りたくないからだ。同時に妻を一人で寝かせる罪悪感に囚われていた。アベラルドが聖人ならば、平静を保ちながら妻と同衾できただろう。だが彼は英雄で、しかも妻の前では一人の男に成り果てる。それは自然なことだが、ピュアな彼は罪深いことと捉えてしまうのだ。今日も起き抜けに罪悪感に囚われ、ベッドの上で膝を抱えていた。
「おはようございます、旦那様」
従僕のフィリップが朝の挨拶に訪れた。暑苦しいアベラルドとは対照的に、見た目は爽やかな青年だ。青銀色の髪を束ねて横に流している。
「ああ、おはよう。フィル」
「今日の予定ですが、午前中は奥様とご一緒に過ごし、午後から軍務となっております」
「分かった。ありがとう」
戦後のアベラルドは忙しかったが、それも最近は落ち着いてきた。そこで彼は定期的に妻との時間を作るようにした。事情を知る軍もそれを了承し、英雄特別待遇を与えてくれた。ステファニーと過ごす初日の今日――
「何をして過ごそうか」
そわそわそわそわ。
心ははやるばかりである。最近忙しくてあまり妻に会えなかった。朝食や夕食も時間が合わず、すれ違い生活をしていたのだ。たまにステファニーが遊びに来てくれたが、それも数えるほどしか無かった。
「今朝は奥様が旦那様と朝食をご一緒したいとおっしゃています。奥様とご一緒なさいますか?」
フィリップが確認する。アベラルドはフィリップの言葉を反芻した。
――奥様とご一緒なさいますか?
――奥様とご一緒なさいますか?
――奥様とご一緒なさいますか?
「ステファニーと朝ごはんっ!」
ぎらりと眼が光る。ステファニーと朝食をとるのはこれが初めてだ。朝日が差し込む明るい部屋で、ステファニーが優雅に朝食を食べる。爽やかで清廉なるステファニーはお伽噺話の乙女の様だろう。そして彼女は小栗鼠のように愛らしく咀嚼し、蕩けるような笑顔を見せるのだ。
妄想だけで、ぎゅんぎゅんにテンションが上がる。
アベラルドは勢いよくベッドから降りると、裸足で絨毯を踏みしめて宣言した。
「俺はステファニーと朝ごはんを食べるっ!」
「かしこまりました」
朝から無駄に猛々しい。そして、彼は楽しそうだった。
アベラルドは朝食の席に着きながらステファニーを待っていた。落ち着かない様子の彼に、フィリップが紅茶をすすめていると、扉の向こうからステファニーの声が聞こえてきた。
「おーいーたーん、ステフだよ」
――ガチャパリーン
ステファニーがアベラルドを訪問すると時折何かが欠損する。慌てたアベラルドが粗相したのだ。落としてしまったカップをフィリップが掃除する。アベラルドは慌てて入室許可を出した。
「入ってくれ」
「んあいっ!」
扉を開けて入ってきたステファニーを見て、アベラルドは息をのんだ。なんと破廉恥にもネグリジェのままなのである。
「ステファニー! どうしたんだ? その恰好は!」
彼は席を立つと、ステファニーから距離を取るように後ずさった。その様子を見てミルヴァナは喜びに震える。
(ふふふっ! 愉快だわ。旦那様が奥様の姿に怒っている。ピュアが聞いて呆れるわね。そのまま純愛が壊れてしまえばいいわ。くふふっ)
高揚する気持ちを必死に抑えて、ミルヴァナは静かに佇んだ。内に激情を抱える英雄と元サキュバスの両者。そんな二人とかけ離れた呑気な四歳児は、くるりと一回転した。
「ステフ、みつあみなのー!」
「くっ――、なんて可愛いメドゥーサなんだ……」
確かにステファニーの三つ編みは蛇の頭のようだが、女性を魔族に例えるのは非常識だ。普段のアベラルドなら絶対に犯さない過ちだが、今の彼に思考する余裕はなかった。
「めどーさってなに?」
「美と豊穣の女神だ……」
アベラルドの中で魔族と神々がごっちゃになる。間違った知識だが、これを訂正する者は誰もいなかった。
「びとほーきょーのめがみ?」
「豊胸の女神……」
アベラルドに緊張が走る。衣服の下に隠れていた筋肉が一気に張り詰め、布地が破れそうだった。アベラルドの面差しに影が降り、不穏な雰囲気が辺りを包む。
「思い悩む必要はない。ステファニーは十分魅力的だ」
彼は唐突に妻を励ました。極めて失礼だが、四歳児は気にしなかった。
「みろくてき?」
「可愛いってことだよ」
「くふふっ、みつあみかわいい!」
「ああ、そうだったな」
豊胸の話ではなく、三つ編みの話だったと改めて気が付いたアベラルドは自分を恥じた。アベラルドのピュアはもはや正常な判断が出来ない域に達している。彼はステファニーから視線を逸らして、挙動不審になった。
「三つ編みも可愛いが、着替えてきてくれないか。目に毒だっ。食事に集中できそうにない……」
「あいっ! おきがえする」
ステファニーはアベラルドと楽しそうにはしゃぎ、ミルヴァナは悔しがった。
「くっ……、次こそはぎゃふんと言わせてやるわ!」
これはまだ始まりに過ぎない。これからいくらでも復讐の機会はあるのだ。復讐の目的はアベラルドの淫欲を煽り、真のピュアな存在を汚すこと。それにより彼は淫欲の強さを実感するのだ。
しかし、ミルヴァナのやっていることは、ただの悪戯だった。今のミルヴァナは無理矢理にでも薬を盛り、二人を強制的に繋げることができる。四歳児の精神を引裂き、夫は後悔の中に囚われるだろう。彼らを不幸のどん底へ追いやることが可能なのに、なぜそれをしないのか?
そう、ミルヴァナは馬鹿だったのだ――
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