第2話 サキュバスの呪い、前編
黒い詰め襟に金糸の縁取りがなされ、胸には勲章が輝いている。正装したアベラルドは一縷の隙もなく、近寄るだけで威圧されるようだった。厚い胸板、ガッシリとした肩、広い背中に、太くて長い手足。どこをとっても絵面が強すぎる。加えて、鋭い眼光の三白眼に睨まれると、生命の肝を直に捻られるような悪寒がはしるのだ。
「――、ステファニーを妻として愛することを誓いますか?」
神父は恐る恐るアベラルドに質問する。お決まりの結婚の誓いなので、神父は堂々ときけばいいはずだ。それでも相手がアベラルドになると、途端に緊張が先行する。
「誓います」
「ぐふっ……」
アベラルドは神父の目を見て真摯に誓う。それだけで神父はダメージを受けたように顔を顰めた。列席している紳士淑女が気の毒そうに眺めている。神父はすぐに新婦の誓いにうつる。
「――、アベラルドを夫として愛することを誓いますか?」
「誓います」
小鳥のさえずりのような可愛い声で答えたのは、新婦ステファニー。子供時代からアベラルドと共に在った女性で、とても美しい人だ。黄金の髪にエメラルドの瞳。白皙のしなやかな手足は細く、華奢な腰を抱くだけで儚い夢のように散っていきそうだ。
「では、誓いのキスを」
アベラルドはステファニーと向き合い、そのベールをゆっくりと持ち上げた。真珠のように輝く肌が次第に露わになる。彼女の伏せたまつげが上向くと、煌めくエメラルドの瞳がアベラルドを射抜いた。
「くっ……、可愛い」
アベラルドは、思わず目を閉じて顔を逸らす。サキュバスが化けたステファニーとは比べ物にならない。本物のステファニーはまさに天使だった。アベラルドは彼女の唇をちらりと横目で確認する。艶やかでつるんとした桃色の唇がとんでもなく可愛い。ごくりとアベラルドの喉が鳴った。昔から思いを寄せていたステファニーと、ついにキスをするのだ。ピュアなアベラルドにとって、もちろんファーストキスである。
失敗は絶対に許されない。
アベラルドは焦った。結婚に浮かれすぎて脳内シミュレーションを怠っていたのだ。正確には初夜の脳内シミュレーションは完璧であったが、誓いのキスのシミュレーションを怠っていた。
(キ、キ、キ、キ、キスゥッ! そうだ、ついにキスするのだ! 目を閉じるべきか!? 雰囲気を大事にするなら閉じようか。ああ、どうすれば正解なのか分からない。まずい! 緊張と興奮でどうにかなりそうだ!)
アベラルドは大混乱、いや、大興奮だった。悶々とする彼を見て、ステファニーは小さく微笑む。新郎の考えなど新婦にはお見通しなのだ。ステファニーは背伸びをして、難しい顔をする無愛想な夫の頬に可愛くキスをした。
「ここにアベラルドとステファニーを夫婦と認める」
神父の宣言が教会にこだまする。アベラルドが一人興奮する間に誓いのキスは終わってしまった。アベラルドの顔面は蒼白だ。
茫然自失。
正々堂々とキスが出来るチャンスを逃してしまったのだ。もちろん夫婦となったのだから堂々とキスをすれば良いのだが、アベラルドにとっては万丈の山を越えるより難しいのだ。
「きすぅ……」
彼の小さな呟きはステファニーの耳に届いた。二人はゆっくりと退場し、ステファニーは列席する客人に笑顔を向けた。
「後でわたくしにキスをくださいな」
視線を合わせず前を向きながらステファニーが囁いた。冷静なステファニーは客人に失礼のないよう振る舞いながら、アベラルドを甘やかす。
「ゔぐっ!」
思いもよらない妻のおねだりにアベラルドは暴走しそうになった。感極まってステファニーを見つめる。三白眼から放たれる閃光は彼の妻を焼き払うほど鋭く熱い。そして、しつこい。
だが、ステファニーは平然とそれをかわし、静かに退場した。こうして、滞りなく結婚式は終了した。国民的英雄であるアベラルドは一般参賀にも対応し、新居へと帰宅したのは日が暮れてからだった。
エーデルレイク家が用意した屋敷は、救国の英雄が住むには小さいが、広い庭がとても美しかった。ダイニングで軽い食事をとって、身を清め、後は夫婦二人で就寝するのみ。いよいよである。待ちに待った初夜――
まずは式で逃したファーストキスを完遂する。
式後の彼の脳内は、ファーストキスで占められていた。お花畑思考でキスのシミュレーションが幾度となく繰り返される。甘く思い出に残るようなキスが良い。星空を眺めながら寄り添い、ワインを飲む。ロマンチックな逸話の眠る星座に思いを馳せて、二人は見つめ合い、ゆっくりと重ねられた唇からは芳醇な葡萄の香りが漂うのだ――
「くっ、完璧すぎる……」
ロマンチックなファーストキス。これしかないとアベラルドは確信していた。乙女思考全開のアベラルドは、体躯も妄想も逞しいのだ。彼は家令に用意させたワインとグラスを持って、ステファニーの待つ寝室へと急いだ。
「ステファニー、ワインを持ってきた」
しんと静まり返った寝室に違和感を覚える。そっとベッドへ近付くと、穏やかな寝息をたてるステファニーが横たわっていた。
まさかの寝落ち。
アベラルドの完璧なシミュレーションが根底から覆された。
「焦るな……、焦るな。アベラルド」
アベラルドは眉間に皺を寄せて苦痛に耐えた。沈みそうになる気持ちをどうにか留める。自分にはサキュバスの誘惑にさえ打ち勝つ鋼の精神がある。彼は心の中でそう唱えた。アベラルドはワインをサイドテーブルへ置くと、ちらりとステファニーに視線を向けた。
彼女は小さく胸を上下させながら静かに眠っている。寝台に流れる黄金の髪は艶めき、金の小川に浮かぶ姫君のようだ。口元は僅かに笑みが浮かび、幸せな花嫁は幸せな夢を見ている。息をのむほどメルヘンな世界がそこにあった―――
「はっ!!」
危なかった。無意識に唇へ吸い寄せられ、ファーストキスを完遂するところだった。
「寝ている婦女子を襲うなど……、できないっ!」
おやすみのキスをするなど、アベラルドにとって千仭の谷に突き落とされるほど罪深いのだ。
一呼吸おいて冷静に現状を把握する。今夜は初夜だ。先に寝てしまったとはいえ、愛する妻を一人で寝かせることは出来ない。寝ていようとも妻を慈しみ守るのはアベラルドの役割なのだ。彼は思い切って同衾することにした。そっとシーツを捲る。瞬間、花のような香りが鼻を掠め、白目をむきそうになった。
(危険だ! 危険地帯だ! このままではベッドへ入った瞬間、ステファニーの引力に負けて、キ、キ、キ、キ、キスをしてしまう! それはまずい。寝ているステファニーに無体を働くなど言語道断。だが、妻を一人放置して寝かせるなど出来ない! 俺はどうすればいいんだあぁっ!)
思考の無限ループは明け方まで続けられた。アベラルドはベッドの傍らで、シーツを上げ下げしただけで終わってしまった。断じて遊んでいたわけではない。彼はただピュアが過ぎるだけなのだ。
夜が明けて、ようやくステファニーが目を覚ます。アベラルドは澄ました顔で朝の挨拶をした。
「おはよう、ステファニー」
ステファニーはエメラルドの瞳を瞬かせると、不思議そうに首を傾げた。
「おいたん、だあれ?」
「ぐはあっ!」
舌足らずな愛妻が眩しすぎて、アベラルドの目を容赦なく焼き尽くす。朝まで同衾の葛藤を続けていたアベラルドにとって、これは致命傷となった。彼は硬直したまま後ろに仰け反り、床へ沈み込んでしまった。
――ズウゥゥン
アベラルドは幸せに涙しながら昇天した。
それを見たステファニーは自ら部屋を出て、慌てて使用人に助けを求めた。
「しらないおいたん、こけちゃった」
寝室では不気味に微笑んだアベラルドが白目をむいていた。使用人は急いで医師を呼び出したが、アベラルドは医師を待つ間に意識を取り戻した。アベラルドは先にステファニーを診察するように指示を出し、一同はステファニーの部屋へ集まった。アベラルドと使用人等が見守るなか、ステファニーの診察が始まる。
「外傷はないですね」
「くすぐったい〜」
「奥様、いくつか質問に答えてください」
「くふふふっ、くすぐったい」
ステファニーは自分が「奥様」であるという自覚がない。医師が質問し、ステファニーがそれに答えるたびに、彼女の症状の深刻さが浮き彫りとなった。
ステファニーの記憶が無くなっていた。五歳以降の記憶がほとんどない。ステファニーは自分のことを四歳児だと思っていた。原因は不明で、最終的に医師が下した診断は心理的ストレスによる記憶障害だった。
アベラルドは思い悩んだ。ステファニーを精神的に追い詰めたのは、自分であると思い込んだのだ。戦地にて従軍していたとき、毎日手紙も書けなかった。今年の誕生日の贈り物は家令に選んでもらった。今までピュア過ぎて、愛を囁いたこともなかったのだ。後悔先に立たず。アベラルドは鬱々とした日々を過ごした。そして、主人と奥方の不幸な出来事に使用人等もまた心を痛めた。
しかしステファニー付きのメイド、ミルヴァナは影でほくそ笑む。何を隠そう、彼女こそ元サキュバスであった――
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