その8

(8)


 ――『何故』慈空はこの地を荒行『千日素足(せんにちすだ)』の満願の地にしたのか?


 ハリーはトラベラーズハットにマント姿で周囲を見渡した。

 無数の埋め込まれた丘陵の奥、そこに地中深く埋もれた弥勒像がある。その地に立って周囲を見渡せば、四方が無数の卒塔婆に囲まれ、強風でも吹いて何か一つの塔婆が倒れたりでもしたら自らに向かって倒れ込んでくるような心理的に威圧する景観。

 月が見えた。

 正に今その強風が吹いて、ハリーのトラベラーズハットの鍔を揺らし、マントを靡いた。

 そう、ここは無数の卒塔婆の下に眠る無数の種獣の骸無き魂が眠る墓場。最終戦争(アーマゲドン)により瞬時に現実世界の肉体から切り離され彷徨い続ける魂を慰める弥勒菩の慈悲深き場所。新世界に生きる人は言う。――ここは怒り(アンガー)と悲しみ叫ぶ者達(クライシスト)の墓地、アングライスト墓地(グレーヴ)。数多の種獣が最終戦争によって突如意味なく葬られた怒りと悲しみが眠り続ける場所。

 ハリーは正にその場所の石仏弥勒像の顔面が掘られた御堂の前に精神刀剣を腰に吊るして立っていた。

 慈空が御堂に入り、不動明王との『結』の為、最後の満願の呪印を行う間、立ち続けていた。

 疑問を思い浮かべながらも頬に吹き付ける強風の中で亡者達への想いを馳せるハリー。

 だが、強風の中に亡くなった者達の怨念の声は聞こえない、いやそれどころか不思議に安らかなる声だけが聞こえてくるような錯覚を持つ。それは慈悲深い弥勒の魂への愛撫がそうさせるのか。

 そう思うとハリーは強風を避けるようにハットの鍔を下げた。

 その時、突如空が金色輝きだした。その輝きが広がり始めると御堂から慈空が降りて来た。

「ハリー殿。全ては終わりました。空を見て下さい。金色の空が広がる。そしてそれはやがて大きな曼荼羅になるのです」

 ハリーは慈空が指差す金色の空を見た。見れば金色が粒子の様に広がりまるで空の一部を覆うような大きな絨毯にも敷物にも見えたが、しかしそれは違っていた。あらゆる文様と仏聖天が描かれた大きな様式が空に映し出された。

「――曼荼羅です。ええ、胎蔵界の曼荼羅。是こそ不動明王と私が『結』した証。母なる内に於いて私の願いを聞き届けてくれた証なのです」

 それから慈空はハリーを見た。

「ハリー殿。私はどうやらこれで満願を迎えられた。正に感謝します。貴方は私が想像していた以上の剣士、ええ、異能の剣士と言えるでしょう」

 ハリーはじっと慈空を見つめる。若僧の眼差しは細く閉じられてゆくとハリーに言った。

「貴方が大阿闍梨(グランドアルジャ)ダッシルダを退けたあの力、あれは何です?…私は見た。貴方が降り下ろした剣、いやその背後から突如現れた禍々しき黒い野獣の様な六本の凶暴な爪…、まるで恐ろしい。我らの呪法とは異なる力の発露…」

「さぁな。俺は知らん。お前達が見たものが何なのか」

 ハリーはにべもなく言った。

「答えられないというのですか?」

 慈空が嘲る笑みを浮かべる。

「そうさ。知らぬことだ」

 嘲りの後に目を見開き、力強くハリーを慈空が睨む。

「仏の世界に於いてあなたは禍々しき世界を繋げる危険分子としか言いようがないですね、貴方は」

「逆に俺が聞きたい事がある」

 睨みを突き返すハリーの言葉に慈空は穏やかに心を押さえるように言う。

「ええ、いいでしょう。私の為に働いてくれた貴方の為にお答えしましょう」

 さぁ来い、とも言わんばかりに慈空は構える。まるで禅問答に応える先師の様に。

「何故、この地を満願の地にした?」

 ハリーの問いかけに、1拍の間を置いて慈空が答える。

「…それは此処、この墓地こそが私の満願の為にもっとも適した場所だからです」

「何ゆえに?」

 切り込むようなハリーの言葉を心の素手で受け止める慈空。彼はふふと微笑して答えた。

「おや、追加ですか?貴方も中々しつこい性格の様ですね。良いでしょう全てをお話ししましょう。私が望んだ事、全てこの胎蔵界曼荼羅の輝く金色の空の下で」


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