その7
(7)
確かに闇が在った。
それは突如、風を寸断しこの世界に現れた。振り下ろされた剣なのかそれとも大きく伸びた獣(ビースト)の六本の爪がそれを生み出したのかは分からない。
唯、ハリーの面前には確かに暗闇が在った、いや、それは生まれた創り出されたのかもしれない。
「母なる世界に帰せよ。魔人」
ハリーの声が響く。
すると闇は見開かれた大阿闍梨(グランドアルジャ)の魔人の前で突如何かの意思を示す生き物の様に今度は大きく開いて牙を生んだ異様な口になり、突如、魔風を魔人をもその闇の中に咀嚼始めたのだった。
その口の姿は聖なる淫靡さを持った何とも禍々しき口であった。
異様ともいえる世界の出現にその場にいる誰もが唾を飲んだ。
――大阿闍梨(グランドアルジャ)も慈空も、そして捕食され咀嚼された魔人(ジン)さえも。
牙はやがて魔人の姿を咀嚼し終えると大きな舌を出して、やがて静かに閉じた。後は風も無い夜だけがあるだけだった。いやハリーの眼差しの端には夜の終わりを告げる陽の端が見えた。
朝が来る。
その陽の光が大地を照らす時、慈空の満願の日が訪れる。
大阿闍梨(グランドアルジャ)は突如現れた余りにも異様な光景に言葉が無かった。何という禍々しき口。
まるで女人の陰部にある様な、邪さ…
そう思った時、大阿闍梨(グランドアルジャ)ははっと閃き思った。
(あれは…もしや曼荼羅胎蔵界の入り口、それは謂わば女性…いや、人間が生まれ落ちる産道とその唇の姿…つまり)
――母なる世界に帰せよ。魔人
「…つまりあれは聖唇(ヴァジャイーナ)なのか」
大阿闍梨(グランドアルジャ)が呟いた時、その喉元に剣の切っ先が届いた。白目を動かし見ればそこにハリーが居た。喉元に触れんばかりに剣の切っ先に朝陽が反射する。それに目を染め向ける仕草を見てハリーが言った。
「欺かれていたのは俺の方だ。大阿闍梨(グランドアルジャ)。お前は盲目ではない」
にじる剣先で大阿闍梨(グランドアルジャ)の喉元が上下に動く。
「最初、この闇夜の中、俺達を追う事が出来るというのは長き修業がそうさせたのかと思ったが、今俺が剣先を突きつけたと時、お前ははっきりとこの剣先を見ている」
大阿闍梨(グランドアルジャ)の白い眼は剣先見つめて動かない。否定も肯定もしていない、その眼差しにハリーが言う。
「そうさ」
ハリーの断定的な言葉が続く。
「人間でもいくら修行を積んだとしても俺達を追いつくことは絶対的に出来ない。…つまり大阿闍梨(グランドアルジャ)、お前の眼は人工網膜なのだ。俺も知らないわけではない。お前はイービック社が開発した夜間生体関知網膜(ナイトコンタクト)、夜の闇中でのみ見える人口網膜を眼につけているのだろう。となれば、お前は陽の光の中では盲者…陽の光の中では動けず、そして盲人のまま…つまり、お前は明日の朝は俺達を追えない」
大阿闍梨(グランドアルジャ)の喉が動く。
「…だとしたら?」
問いかけにハリーが答える。
「この異常気象地帯の砂地でお前は生き延びるために俺が言えるのは、早くに砂地を堀り陽の蔭に入り生命を維持しろと言える。それと…」
「それと?」
「俺達を追うことは出来ない。諦めるんだな、と。もうお前に大きな術を使える精神力は残っていまい。それは俺には分かる。せめてもの俺の気づかいとしてお前に無限酸素水筒(ミネラルサーバー)は残しておこう、それで慈空の満願の日を此処で生き延びて待つがいい」
剣先は喉を突きささんばかりに触れている。触れる剣先に大阿闍梨(グランドアルジャ)の声帯が動く。
「運命の輪の外に居ろと言うのか?」
「輪の中には俺が居る」
ハリーが即答する。
「そこで何が出来る?」
大阿闍梨(グランドアルジャ)が食い下がる。
「出来ることは、契約を守ることだ」
ハリーの答えに喉が動いた。
「守ることだと?」
「そうだ。俺は風見鶏邸ハリー、旅人の安全を守らなければならい」
ハリーは当然の様に答える。
「どんな?」
大阿闍梨(グランドアルジャ)は白い目を剥かんばかりにハリーに迫る。鬼気迫る金剛杖が大地を鳴らして響く。響いて、ハリーが言う。
「この僧がアアングライスト墓地(アングライスト・グレーヴ)の弥勒堂まで安全に行かせることが俺の契約と仕事だ」
「それだけの理由か」
「仕事だからな」
断定的にハリーが言い放った。
「ならば、お主に聞く」
ハリーは半眼の瞼を見開いた。
「お主は召喚したあの魔人を…本当に切ったのか?人間だぞ、お主は?どうなんだ?」
ハリーは垂れた前髪の隙間から大阿闍梨(グランドアルジャ)の白い目を見て微笑すると剣を喉元から引くと言った。
「さぁな、聞きたければ切られた本人に効くんだな。唯、奈落に落ちた魔人が奈落の底で生きていればの話だが」
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