その5

(5)



 ――奈落(ナビス)の炎は穢れを焼く炎ではない


 精神刀剣(ストライダー)が切り裂いた蛇炎の向こうから、編み笠を上げてこちらを驚き見る盲僧の白い目がはっきりとハリーには見えた。それはハリーが金剛金縛りの術を解き、跳躍して見事な剣技を見せたこと以上に、何かに驚いたようにも見えた。

 もしかしたらそれは盲僧から漏れ聞こえた言葉にあるのかもしれない。

「この世に罪を創り出してしまった嘆きの炎…だと」

 盲僧は白い眼に映る炎が消えるのを充分待ってから、剣を真横に伸ばして構えるハリーに言った。

「…何とも不思議な一言だ。その言外に無限の悲しみ、儚さ…まるで我ら仏教徒(ブッデーィン)の教義に迫るものが含まれている。それを聞けば閻魔も涙を流すやもしれん。ただ…」

 言ってから盲僧は金剛杖を鳴らして地を叩く。

「閻魔は涙を流そうが、慈空の願いを叶えた後の世の人々は、きっと慈空の為に涙を流すことになるだろう。それは断じてならぬ!!」

 きえいやぁあああああ!!

 盲僧の気合の声が響く。それはハリーの眼の中に飛び込んできて精神を絡めとる。

(来たか)

 ハリーは精神を強くしようと意識した。先程よりより強く精神を固くして、まるで何者にも割れない岩の様に。

 だが、その時――

「意思を固くしてはいけない。開放するのです。空の様に!!」

 その声がハリーの鼓膜奥を震わせると同時に足元かまるで蜘蛛の糸のような痺れが這いずりあがって来た。これは金剛金縛りの糸だろう。ハリーは突如聞こえた声を聞いた時、脳裏の奥に閃くものがあった。

 森羅万象の全てを絡み取る全てから自分を開放すべき境地、それは、


 ――空(くう)


 いや、零の世界。


 ハリーは固く閉じ込めようとした精神を開放した。するとどうどであろう。広がりはじめる精神の空を追う様に金縛りの糸が伸びて行き、やがてそれが覆いきれなくなって霧散したのだった。

(…これは、無限、、いや違う。これは…)

「その境地こそ色即是空の境地。そこにある一切の物質的存在は、実体のなき者。故に、空無…、だからこそ全てを絡み取ろうとする金剛金縛りの精神糸は空無と融合して、消えたのです」

 背後から慈空の声が響いた。声がハリーの背に当たる感覚がある。つまり金剛金縛りは失敗したのだった。

「とはいえ、大阿闍梨(グランドアルジャ)の金剛金縛りの術は並大抵ではない精神鍛練が有るものか元々それなりの精神的素地を持たぬ者でなければ、その精神の糸から逃れられません。さすがは風見鶏邸のハリー、辺境一の剣士と言うべきでしょうね」

 慈空の言葉に反応した盲僧が眉を潜めて言う。

「…風見鶏邸のハリー」

 何かを思い出しながら語りだす。

「成程…風見鶏(ウェザーコック)ホテルグループの壁人(ウォーリア)にハリーなる人物がいると聞いていた。腕は超一流。そして対『造魔』相手に無敗を誇り、そればかりでなく奇石『奇蹟(ミラクル)』を金銭に替えることなく僧会へ治めるともなく、唯、破壊する。まさに欲無く大僧正会(クレリック)が危険視する思想を持つ辺境の剣士、それがお主か…」

 夜風が吹いた。

 ハリーは剣をやや下げて垂れる前髪の下で半眼にして睫毛に触れて行く夜風を受けている。唯、黙して語らず。ただそのまま盲僧をじっと見ている。

 その白き眼を。

「ならばこそ、金剛金縛りの術を解いたのも分かるし、慈空の助言があったとは言え術に掛からなかったのも分かる」

 言いながら盲僧は金剛杖を横に払う。それから再び首から下げた数珠を指先で転がし、再び何かを唱えようとした。

「…大阿闍梨(グランドアルジャ)」

 不意にハリーが言った。

 ハリーの言葉に気勢を制された指が止まる。

「俺は人を殺さぬ。この精神刀剣(ストライダー)が切るのは『造魔』のみ」

 指を止めて大阿闍梨(グランドアルジャ)が笑う。

「それは私もだ。ハリー」

「ならば聞く。後ろに居る慈空と言う僧は『人間』だぞ。それをお前は言葉で呪い殺すのか。人間を救い導くのが僧の本願ではないのか」

 止まった指が珠をなぞる。なぞると大阿闍梨(グランドアルジャ)が言った。

「先程聞いたであろう。慈空はこの新世界の『ガレリア』に生を受けた全ての種獣を救う――それは、『造魔』をも、と…」

「それは教義に反する教えか?」

 反発入れないハリーが問いかける。

「反するだと?」

「そうだ。この世界に生ける全ての生命はは尊い」

「その通りだ」

 今度は大阿闍梨(グランドアルジャ)が反発入れず答える。

「教えを請おう。大阿闍梨(グランドアルジャ)」

「何?」

 突然のハリーの言葉に当惑する声が響いた。ハリーの背後では二人の問答を黙して慈空が聞いている。

「…色即是空(しきそくぜくう)は空無、ならば一方、『空即是色(くうそくぜしき)』は万物の真の姿は空と言い、空は全てを否定せず、それはこの世に存在する物の姿を否定しない。ならばそれらの教えの前では種獣も造魔も、僧らが信じる仏聖天も同じく等しいのではないか。ならばこの「ガレリア」に生を受けた全てを救う信念は間違いではあるまい――まさにそれは貴僧らの教義真理の一つではないか。どうだ?」

 ハリーの問いかけに大阿闍梨(グランドアルジャ)の心を揺さぶるものがあったのか、それとも意外ともいえる仏典に対する知性に驚いたのか、横に大きく開いた金剛杖が下がってゆく。だが、しかしそれはピタリと止まると再び力をつけた腕によって元に戻った。

「ハリー、お主の言うことは教義の一片の側面のはぎり取った正義にすぎぬ。罪を犯す者を仏聖天は救済せぬ、ましてや人間に害をなす『造魔』を救わぬ」

「罪は『罪』を創り出したものが唯背負えばいい良い。『造魔』もまた然り、彼等に罪を問うべきではない。彼等は罪なき『ガレリア』の客人なのだ」 

 昏き世界に灯る炎がハリーの脳裏に浮かんで燃えた。それは嘆きの炎。

 だがその炎を揺らす強き風が吹いた。

「危険な思想よ、それは!!ならばそれを創り出した者が背負い、煉獄の牢で償えばいい」

 大阿闍梨(グランドアルジャ)が数珠を指で転がし始めた。転がすと何かを呟き、気合の塊を吐き出した。

「ハリーお前は知らぬのだ。慈空の天性磨き上げられたその素地、それは究極の一片のみを背負い、狂信的までにそれを磨き上げる天性に恐ろしさ。そう、魔性という人間の精神的産物を。それはこの弟子の魔性を見抜けなかった私の不徳、ゆえに罪である。だが私は罪を背負わない。唯、散華させて無に帰すのみ!!」

 大阿闍梨(グランドアルジャ)の語気の強さと共に夜風が強くなる。それがハリーには分かった。だがこれは自然に吹く夜風ではなかった。

「ハリーとはガレリア東部辺境では『夜風』という隠語らしいな。ならば存分に夜風を味合うがいい。何、拙僧も人間は殺さぬ。殺すは誓って『造魔』のみ、ゆえに安心して気絶せよ」

 びょうびょうと夜風が強くなり遠くでつむじ風が舞い上がった。それを見た慈空がハリーの後ろで指差す。

「ハリー殿、上を、空を!!」

 ハリーが眼を夜空へと動かす。

 星は見えない。唯風がびょうびょうと音を立てて砂地を勢いよくない上げて行く渦巻きの中心に、こちらを見下げて立つ何かが見えた。やがてそれが段々とはっきりとハリーと慈空の網膜に映し出されると慈空は言った。

「あれは風神(ジン)」

「風神(ジン)だと?」

 背後に問いかけるハリー。

「ええ。魔人ですよ!!」

 慈空の叫びに応えるように大阿闍梨(グランドアルジャ)が声を荒げる。

「聞け!!ハリー、私は欺かれたのだ、この愛弟子に、いやこの男の心の中に巣食う魔性に。ならば十分味わうがいい。この魔人の力を」

 言うや、大阿闍梨(グランドアルジャ)が金剛杖を振るうと突然、強風が砂を舞い上げた。

 ハリーは巻き上がる砂風を遮る様に顔を腕で覆った。その腕の隙間から風神の姿を覗き見た時、ハリーは背後で慈空の呟きが聞こえた。

「やはり、素晴らしい。大阿闍梨(グランドアルジャ)の呪力は…」

 聞いてハリーが振り返る。するとそこには風神を見つめ邪悪な笑みを浮かべて頬を染める僧が居た。

 









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