その4
(4)
ハリーは身を低くした。腰も自然と落ちてゆく。四肢の力を踏みしめ精神刀剣(ストライダー)の柄に手を遣る。それでいつでも剣を抜ける姿勢になるが、ハリーの視線は面前に現れた旅装からは寸時も離れない。旅僧を静かに観察する。
(——旅装姿の旅僧…)
ならばこのような砂地で会っても可笑しくはない。広い夜の砂地で灯火でも見れば、そこに人を感じて、夜話の相手をしたいと願うのは人心の常かもしれない。だが、この僧ははっきりと言ったのだ。
――慈空よ、と
ハリーは背後で眠る僧の言葉を思い出す。
――私が満願を迎えるのを邪魔したい者もいるのですよ。だからこそ…
(邪魔するもの…)
ハリーは小さく息を吐いた。その漏れた息がやがて静かな夜の砂地に上を滑るように進んで、やがて面前の旅僧に触れたのか、僧は編み笠を上げて、自ら顔を覗かせてハリーを見た。
ハリーは僧の顔を見た。見て、ほぅと小さな呟きを心の中で吐いた。
僧の目が白かった。それはつまり義眼かもしくは瞳孔がない、つまり盲目だという事だった。
ならばこの僧がこの砂地を確実に此処迄やって来た事実を考えれば余程の修行を経た僧で、恐らく『観念』と言う呪法もさることながら、何か鋭い秘儀呪法を持つ僧であろうとハリーは思った。
白眼が動かず、ハリーを捉える。捉えると僅かに瞼が動いた。
「…ほう、どうやら慈空は良い手練れを道中遍路の友としたようだ。砂地にめり込む重さ、その重心の動き、僅かに揺れる空気の流れ…そして、油断なき眼の配り、どうやら面前に居るのは見事な剣士と言える。それ程の剣士を大僧正会(クレリック)で探してもマスター、いや上位マスター(ハイスター)でも何人いるか」
(…大僧正会(クレリック)だと?)
ハリーは旅僧が言った言葉を確かに聞いた。ならば、この僧は…
「やはり来ましたか。大阿闍梨(グランドアルジャ)――ダッシルダ」
ハリーの背後からいつ目覚めたのか慈空の声が響いた。その声は砂地に交じっている。ならば慈空はまだその体を砂地に横たえているのだろうとハリーは思った。
背後は振り返らない。唯面前の旅僧にだけ意識を集中させている。
(大阿闍梨(グランドアルジャ)――ダッシルダ…)
ハリーは静かに瞼を半眼にして。垂れる前髪から盲目の僧を見る。
手にした金剛杖。編み笠、その下の覗く顔と首から垂れ下がる数珠、それに触れる細き手。
夜気に吹かれる盲目僧の身体からは何か強力な力が湧き上がってきている。それが『魔』とは違うことはハリーにははっきりと分かった。ならばそれは自らの精神の内から湧き上がる強き精神であろう。
――つまり、これが聞くところの『念』といものか
ハリーは呼吸を整える。その念は盲目僧が数珠を手に触れてから、次第に強くなっている。
それに気づいてるのはハリーだけではなかった。
「成程、ダッシルダ。貴方は聖天摩利支天に念じて金剛金縛りの呪法で私を捕らえるつもりですか」
(…金剛金縛り)
慈空が言うや、突如、盲目僧は気合の声を放った。
「きえいやぁあああーー!!」
夜気を切り裂くような声と共にハリーの肉体を精神的な質量を伴った重さが襲い掛かる。それを感じた瞬間ハリーは精神を固くして抗した。その瞬間、何かがハリーに身体の自由を奪い、やがて身体を硬直させた。肉体に感じた重さは瞬時にハリーの眼から黒き余波となって、精神を縛り上げたのだ。
(…これは!!)
ハリーは驚愕した。
(身体が動かない…)
柄に手を伸ばした腕も手も動かない。いや盲目僧を見つめていた眼さえも。
(これが大阿闍梨(グランドアルジャ)の呪法の力か…)
初めて触れた大阿闍梨(グランドアルジャ)の呪力を感じて動けないハリーの側を盲目僧が金剛杖を突いて歩いてゆく。
「この剣士には悪いことをした。後で拙僧から心よりお詫びしよう」
言って盲目僧は身体を砂地に横たえている慈空へ向かって言った。
「――慈空よ、お前の満願は叶えられぬ。天に坐する聖天主が私を此処に遣わしたのだ。慈空、己の自己欲を恥じ、此処で聖天の教えを棄てよ、もし棄てぬのであれば、私は外道の法を使い、お主をこの世界より散華させよう」
言葉はハリーの鼓膜奥にも響いた。響くと心に『何故』が浮かぶ。
それは…
――慈空、己の自己欲を恥じ、此処で聖天の教えを棄てよ、
「何故です?」
その声が聞こえると砂地が動いた。身体を砂地に横たえていた慈空が半身を起こしたのだった。汗で身体に纏わりつく砂を払うことなく、立ち上がる。立ち上がると若僧は盲目僧に言った。
「何故私が棄教しなければならないのです。私は己の考えに従い『願』を弥勒堂で祈念した。邪な事なんぞ、何もありません。全てはこの『新世界』に生を給わった全ての者を助け給う事。これは天に坐する聖天の赦し得る徳ではなりませんか?故に私は千日行を行ったまでの事」
若僧の静かな強い声を金剛杖の強い音が地に伏せさせ、砂地を揺らした。
「慈空、心に問うてみよ!!己の信念の何処に正義がある!!己の欲はこの世の全ての種獣を助けるにあらず。ましてや、『造魔』をも救うなんぞ、外法も外法」
(造魔を救う?)
ハリーの黒髪が盲僧の熱気に触れて揺れた。
「己の信念はもはや外道の底、奈落(ナビス)の煉獄の炎に焼かれて叶えればよい!!」
(奈落(ナビス)だと…!!)
その言葉を聞いた時、ハリーの目の奥かに炎が見えた。それは昏き世界に灯る煉獄の炎だった。それが見えた時、ハリーの精神の何かが焼かれ瞬時に虚空へと跳躍した。
「穢れを焼き尽くす炎と共に散華せよ、慈空!!」
盲目僧が鋭い声を吐くや否や、焚火が燃え上がり頭上で大きな円になり、やがて螺旋を巻いてやがて大きな大蛇になった。
「散華せよ!!この煉獄の蛇炎(じゃろう)で。お主には聖天の慈悲も無し!!」
――いいやぁああああ!!
大阿闍梨(グランドアルジャ)の怒声と共に金剛杖が若僧へ振り下ろされ、蛇炎が鎌首を上げて慈空の身体に巻き突こうとした瞬間、突如、空気が切り裂かれた。
いや、空気だけではない。それは蛇炎諸共、真一文字に切り裂かれた。
やがて切り裂かれた炎の隙間から、ハリーが顔を覗かせた時、大阿闍梨(グランドアルジャ)は大きな驚きを見せた。
「お主…!!いつの間に私の金剛金縛りを解いたのだ!!」
ハリーは薙ぎ払った剣をそのままにして静かに言った。
「…奈落(ナビス)の炎は穢れを焼く炎ではない」
それから瞼を閉じて、何かを見つめるように言った。
「それはこの世に罪を創り出してしまった嘆きの炎なのだ」
言葉を放つハリーの脳裏に浮かんだもの。それは昏き世界を灯す炎だった。
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