第3話 Eine Öffnung~はじまり(3)

「真尋が幼稚園からずうっとエスカレーターだった学校を辞めて、野球の強い高校に進んだことは知ってたでしょう?」



お義兄さんが優しく言った。



「ええ。 すごいお嬢さんお坊ちゃん学校だったから、ぜーんぜん馴染めなかったって・・」



前にそんな話を聞いたことがあった。




「それと同時にね。 ピアノもやめて野球やりたいって言って。 ホント桜井先生は泣いて止めてくれたのよね、」



お義母さんはその時のことを思い出したのか、少しつらそうな表情になって先生を見た。



「いやあ。 その話を聞いて、ウイーンから戻ってきて。 何とか考え直してもらえないかとその頃彼を教えていたわたしの弟子と一緒になって説得したけど。 本当に意思が強い子でね。 一度決めたことは絶対に曲げなかった。」



「ほんま。 ヘンなトコ頑固やもんな、」



志藤さんはふっと笑った。





「ピアノを続けていくと、やっぱりコンクールが目標になってしまいがちです。 それがイヤになってしまったんでしょう。 あんなに好きだったピアノが好きじゃなくなったって。 その一言で諦めたんですけどね、」



先生はそっと紅茶に口をつけた。



「でも・・どうしてまたピアノに戻ってきたんでしょう、」



私は



不思議な気持ちにかられてそう訊いた。




「野球をやるだけやったら、気が済んだんじゃない? 高校を出たら自分がどの道を行ったら生きて行けるのか。 いちおう考えたんだと思うよ。」



お義兄さんは静かにそう言った。




やりたいことを我慢しないで



気が済むまでやる。



それがあまりに真尋らしくて。



8ヶ月前から真尋はウイーンを拠点にしてヨーロッパ各地を仕事で飛び回っている。



今、間違いなく彼がしたかったことをやっている最中だ。




「でもね。 もう一度ピアノをやりたいって私に電話をくれたときは嬉しかったよ。 本当に。 今でもその時の気持ちをはっきりと覚えてる。 ちょうど仕事で日本に戻ることになっていたから、予定より早く帰ってきてね。 まず、確認したのは真尋の『手』だった。」



先生は笑って自分の手を広げて見せた。



「ああ、なんの怪我もなく無事だったって。 それだけで、また泣けてしまって。」



先生の気持ちが乗り移ってしまった。




本当に心から嬉しかったことが伝わってくる・・




「だけど。 いきなり『おれ、ウイーン行きたいんだけど。』には涙が引っ込んじゃったけどね、」




みんなから笑いが起こった。



ほんと



真尋の唐突な性格には今でも振り回されているから。




普通の人が考えつかないことを平気で言ってくる。



「それから大変だったでしょう、」



志藤さんは笑いながらそう言った。




「もう。 それはそれは。 まずブランクを埋めなくちゃならないし。 2年半ピアノから遠ざかってたらやっぱり指も動かないから、子供がするような指を動かす練習から始めたり。 とにかく・・もう実技を仕込むのが精一杯でしたよ、」




北都フィルとの競演が決まってから真尋を必死で『調教』してきた志藤さんには



痛いほどそれがわかるらしくて



ずうっと笑いながら頷いていた。




むちゃくちゃばっかり。




それは私が真尋のことを知らなかったときからで。



今と同じようにたくさんの人に手をかけてもらって



真尋はウイーンにやってきた。



そして。



私と出会った。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る