かみ……くれ
ノーバディ
第1話
深夜二時、八月に散歩するならこの時間が最高だ。昼間の熱気を残しつつ時折り流れてくる風は心地良い。
今日は相方の家で徹夜作業の予定だった。ジオラマ制作だ。ミッションを終えた戦車から降りた乗組員が焚火をしてる風景。
締切まであと二週間。もう完成の目処は立ってるが仕上げの事で相方と揉めてしまった。
もっと
バランスの問題なんだよな。リアルに走ると面白味に欠けるし、分かりやすくし過ぎるとチープになる。
相方も俺も一旦こうなっちまうと折れないんだよな。これ以上議論しても埒が開かない、今日はお開きにして頭冷やそうって事で解散になった。
資料や簡単な資材をかばんに詰めて帰路に着いた。相方の家からうちまでは三駅。当然この時刻は電車も走ってない。俺はのんびり歩いて帰る事にした。途中で買った缶コーヒーは思いの外冷たかった。
そっか、夜に見える草ってこうなんだ。今ここで焚火をして写真に撮れたらいい資料になるのに、なんて事を考えてた。
あれ? ヤバい、腹が痛え。そういや相方の家でも結構冷たい物飲んだ。缶コーヒーがトドメになったみたいだ。
この辺にコンビニなんて無いし家まではもちそうにない。ヤバい、限界が近い。
野糞の覚悟を決めた頃神が降臨した。腹の痛みが治ってきたのだ。腹痛メーターさっきまでは九十を超えていたのが急に四十五くらいに下がってきた。
いける! これなら家まで帰れる。
十分程経った頃また腹痛メーターが上がり始めた。五十、五十五、七十、九十。
待って! ちょ、ムリ。なんなのこの上がり方! 心の準備ってもんがあるやろ。
括約筋、がんばれ! お前の活躍に期待しているぞ! ……つ、つまらん。いやそんな事考えてる場合じゃない。ヤバい、秒単位でメーター上がっていく。ここは住宅街。周り隠れる場所などない。もう漏らすか電柱の陰でするかの二択だ。ベルトに手をかけた時、また神が降臨した。メーターが徐々に下がり始めた。これが便意の波って奴か。
俺は慎重に歩を進めた。このまま家のトイレまで我慢……は諦めた、ムリだ。
近くのコンビニなんて無い、却下だ。
ならば最低限人に見られずミッションコンプリートできる場所を探すしかない。そうだ、誰にも見られなければミッションは成功なのだ。
俺は大人の尊厳を少しだけ脱ぎ捨てた。
ゆっくりと、慎重に、俺は歩いた。多分次のビッグウェーブに俺は耐えきれない。今やるべきなのは次の波が来るまでに安息の地を見つける事。俺は模型作りで培った集中力を結集した。
数分後、奴は来た。今世紀最大級ビッグウェーブの予感。
焦るな、焦るな俺。大丈夫だ、まだ耐えられる、もう少しだ。何がもう少しなのかは分からないが多分もう少しだ。耐えろ、俺。
急に視界が開けた。見えたのはごく小さな公園。そしてその奥に小さな公衆トイレ。
なんと神々しい建物なのだろう。この美しさの前では異世界の宮殿も霞むに違いない、見たことはないが。
いかん、安心したせいか急にメーターが上がり始めた。トイレに入るには公園のど真ん中を突っ切らなければならない。周りに何も無い場所での大事故、これだけは避けたい。
メーターはもう限界を超えていた。急げ、俺。耐えろ括約筋。五メートル、三メートル、一メートル、ドア、便座の蓋、噴出。
勝った! 俺はさっき脱ぎ捨てた大人の尊厳を取り戻した。この感動を両親に、いや共に闘った相方に伝えてやりたい。深夜三時にして良い連絡ではないな。
コンコン、と隣の個室から音がした。
隣に人が? やべえ、派手にぶっ放したの聞かれてた。恥ずかしい。
「かみ……くれ」
なんだ、
「かみ……くれ」
おお、そうだ。大事な戦友を見殺しにする事はできない。紙、紙っと。ねえ! いや正確には芯の周りに五センチ程あるだけだった。これじゃあ自分の分もままならない。
「ごめん。こっちもない」
「かみ……くれ」
「いや、本当に無いんだ。ごめん」
「かみ……くれ」
本当に無いんだが……。向こうものっぴきならない状況なんだろうな。
「こんな事いうのもなんだが、トイレットペーパーの芯とかあるだろ。それをほぐしてなんとかならんか?」
我ながら酷い事を言う。でもこっちだってほんの十分前には大人の尊厳を捨て去る寸前だったんだから。
「かみ……くれ」
まだ言うか。いやもしかしたらそっちの個室には芯すら無かったのかもしれない。仕方ない、こっちの芯を投げてやるか。
「これじゃ……ない」
はぁ? なに贅沢ぬかしてやがんだ。最悪拭かずに出るという選択もあんだろ。大人の尊厳はそうやって守るんだ。
「かみ……くれ」
付き合いきれねえ、俺は帰る。
なんだ? ドアが開かない。
「かみ……くれ」
なんだこれ、気味が悪い。俺は思いっきりドアを叩いてみた。所詮公園のドア。大の大人が力一杯叩けばぶっ壊れるだろう。
一見ベニヤ板の組み合わせたただのドアにしか見えないのにその感覚は大銀行の巨大金庫の様だった。巨大な金庫を叩いた事無いけど。
なんだこれ、完全に何かおかしい。言いたくは無いけど現実の世界とは思えない。
「かみ……くれ」
俺は子供の頃爺ちゃんに聞かされた怪談を思い出した。
『「かみくれ、かみくれ」って言われたその男は気味悪く思いながらも目の前にあったチリ紙を隣の個室に投げ入れたんじゃ。すると突然頭の上から恐ろしい化け物が現れて「その紙じゃない、この髪じゃあ〜!」と男の髪の毛を頭の皮ごと剥ぎ取っていったそうな』
やべえ、絶対やべえ奴だ、これ。
俺、さっきペーパーの芯渡しちゃったよな。あれは紙として認識してくれなかったからオッケーなのか? セーフ。
いや待てよ。俺大丈夫なんじゃね? だって俺……。
「かみ……くれ」
「髪、無い。だって俺スキンヘッドだし。坊主頭。髪の毛無いの。オッケー?」
模型作りとかやってると髪の毛って邪魔なんだよな。髪の毛一本で数時間の苦労が無駄になるなんてよくある話だ。だから俺はいつも剃ってあるんだ。
「かみ……くれ」
「だから無いんだって」
「たま……磨く」
「え?」
「かみ……磨く」
「たま……磨く……かみ」
そういえば爺ちゃんに聞いた事あるな。
水晶だかなんだかの玉を磨くのに、動物の皮や魚の皮で粗磨きして最後に目の細かい和紙なんかで仕上げ磨きするんだとか。
こいつも何か物作りに関わってる奴なのか? モデラー仲間なら話は別だ。ここで助けなければモデラー魂が廃るってもんだ。
「玉を磨くのに使う紙か?」
「かみ……くれ」
心なしか嬉しそうだ。
「そうなんだな。ちょっと待ってろ」
確か鞄の中にサンドペーパーが何種類かあったよな。
「かみ……くれ」
「これでいいか?」
目の粗い奴から細かい奴まで数種類のペーパーを隣の個室に投げてやった。
「この紙じゃあ〜〜!」
隣から歓喜の声が聞こえた。
「できたら俺にも見せてくれよな、その玉」
「たま……磨く」
俺の身体が急に動かなくなった。
『ちょっと待って』
声が出ない。
「これで……磨く……」
頭の上から巨大な何かが降りてきた。
「たま……磨く」
何かが俺の頭をかすめた。
『たすけて』
「あ……たま……磨く」
ゾリっという音と同時に鈍い痛みが頭を走った
「あ……たま……磨く」
俺は悲鳴をあげる事もできなかった。
かみ……くれ ノーバディ @bamboo_4
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