第2話


則人

「……もも子」

 

すぐ横に婚約者が居るとも知らず、

 

もも子はうつ伏せの扇風機の下で、絶えず悶え続けている。

 

現実に引き戻すのが気の毒になるぐらい、夢中だった。

 

則人

「もも子!」

 

もも子

「!」

 

もも子は、今まで見たことのない表情で僕を見て、

 

見たことのない素早さで、扇風機を遠ざけた。

 

地面に倒れ、首振りの可動域を失った扇風機が、

 

「ガイン! ガイン! ガイン! ガイン!」と執拗に唸っている。

 

則人

「……何してるの?」

 

もも子

「……ごめん」

 

則人

「いや、ごめんじゃ分からないよ」

 

「ごめん」という言葉が本来の機能を果たしているのを、あまり見たことがない。

 

大概は保険をかけるためか、むごたらしい事実を認めるために使われる。

 

おそらく、今のは後者。

 

もも子は、扇風機とのセックスを認めた。

 

則人

「……どうしてこんなこと」

 

ありきたり過ぎて、自分でも笑いそうになる。

 

だがこれ以上の言葉は見つからない。

 

もも子

「則人くんには言ってなかったんだけど」

 

もも子

「私、こういうヘキなの」

 

もも子

「扇風機が、好きなの」

 

則人

「扇風機が好き……?」

 

よくドラマとかで、電話越しに放たれた言葉を復唱するシーンがある。

 

「何? 犯人が捕まった!?」みたいな。

 

現実にはそんなことしないし、非情なまでのご都合主義に辟易してしまうのだが。

 

その気持ちが、少し分かった気がする。

 

人間は理解を超えると、復唱することしかできないらしい。

 

則人

「とりあえず、服着なよ」

 

もも子はその場から動かず、行き場のない涙を目に浮かべている。

 

とにかく、時間が欲しい。

 

頭を整理する時間。

 

彼女にぶつける質問をこさえる時間。

 

そして、この状況にどんな結論を下すかを固める時間だ。

 

しかし、まず最初に湧いてきたのは、

 

愛する彼女を寝取った扇風機に対する、明確な殺意だった。

 

僕は、おそらく彼女が見たことのないであろう素早さで馬乗りになり、

 

ガインガインと抵抗する「頭」を何度も地面に打ちつけた。

 

もも子

「やめて‼︎」

 

もも子は僕を弾き飛ばし、「男」をそっと起き上がらせ、スイッチを切った。

 

もも子

「全部、私が悪いの!」

 

則人

「なんだよそれ」

 

則人

「お前が悪いに決まってるだろ!」

 

もちろん、「お前」なんて呼んだことは一度もない。

 

則人

「浮気相手が扇風機ってか?」

 

則人

「俺が相手じゃ、濡れもしないくせに」

 

則人

「コイツにはアンアン言いながら股開くのかよ!」

 

則人

「だいたい、挿れるモンだってないのにどうやってするって言うんだ?」

 

則人

「そんな物に興奮するって、お前、狂ってんだろ!」

 

あーあ、と思った。

 

だから時間が欲しかったのに。

 

これで、僕たちの「普通」は完全に壊れた。

 

もも子

「だから、ごめんって言ってるじゃん……」

 

それは、「ごめんって言ってるんだからこれ以上は詮索しないでよ」というニュアンスに聞こえた。

 

則人

「ごめんだけで納得できると思うか?」

 

則人

「こっちは彼女を寝取られてるんだぞ」

 

則人

「しかも、扇風機なんていうワケ分かんない物に!」

 

則人

「俺の気持ち、ていうか自分の置かれてる状況分かってんのかよ!」

 

これ以上、彼女を責めても仕方がない。

 

そう思い直そうとした時、もも子は思いもよらないことを口にした。

 

もも子

「則人くんは、私とエッチができないから怒ってるの?」

 

則人

「……は?」

 

もも子

「もし私とエッチできてたら、このことだって許してくれたんじゃないの?」

 

それは、命乞いのようにも聞こえた。

 

もし彼女と行為に及べていたとして、僕は彼女の「浮気」を許すことができるのか?

 

則人

「許せるわけないだろ」

 

則人

「こんな気持ちの悪いこと」

 

もも子はそれを聞くと、風呂場へ向かって一目散に走り出した。

 

どうか、悪い夢であってくれ。

 

いくらそう願っても、目覚めを告げるアラームは聞こえてこない。

 

その代わりに、シャワーの音に紛れた彼女の咽(むせ)び泣く声が、

 

長い廊下を挟んだリビングにまで木霊していた。

 

×                      ×                      ×

 

司書

「世界の変わった性癖、ですか?」

 

則人

「ええ、タイトルしか分からないのですが」

 

恥ずかしがっている場合ではなかった。

 

ネットにも大した手がかりはなく、藁にもすがる思いで図書館へやってきたのだ。

 

司書

「今日、返却があったみたいです。少々お待ちください」

 

司書は山積みになった本の中から、目当ての物を見つけてくれた。

 

それを半ば奪うように受け取り、

 

最寄りの椅子に座って一心不乱にページをめくる。

 

「店長?」

 

聞き馴染みのある声がして顔を上げると、舞だった。

 

「あ、それ私がさっき返したやつ!」

 

まさか、この図書館だったとは。

 

「店長も興味あるんですか?」

 

則人

「まあ、興味っていうか……」

 

「もしかして、私の言ったこと考えてくれたとか?」

 

則人

「え?」

 

則人

「……ああ、そうそう!」

 

則人

「俺も舞ちゃんみたいに、差別とか偏見について考えてみようと思って」

 

「本当ですか? 嬉しいです!」

 

ここで僕は、大胆なショートカットを試みた。

 

則人

「ちなみになんだけど」

 

則人

「この本に、『扇風機に欲情する人』とかって、書いてあった?」

 

「扇風機、ですか?」

 

「たぶん、なかったと思いますけど……」

 

則人

「……そっか」

 

露骨に落胆してしまったのが、自分でも分かった。

 

「もしかして……」

 

まずい。

 

「店長、そうなんですか?」

 

則人

「えっ」

 

俺?

 

いろんなカードが頭をよぎったが、ここはあえて沈黙を作らないことを優先した。

 

則人

「……実は、そうなんだよ」

 

則人

「たまにだけど、扇風機を扇風機として見れない時があるっていうか……」

 

これ以上言い訳を重ねても、墓穴を掘る気がする。

 

もも子に容疑が向くぐらいなら、今はこうしておくしかない。

 

「……そうだったんですか」

 

「すみません、気付けなくて」

 

知人が扇風機にムラムラしていたとして、それに気付ける人間がどれだけ居るだろうか。

 

まして僕は、将来を共にする相手のそれにすら気付けなかったのだ。

 

則人

「いや、いいんだよ」

 

則人

「日常生活には何の支障もないし」

 

則人

「ただ、そういう性癖が存在するとしたら、向き合い方を知るチャンスかもしれないと思って」

 

「私も調べてみます」

 

則人

「ああ、ありがとう」

 

今度は、舞のほうが落胆していた。

 

多様性を標榜しておきながら、最寄りのそれに気付けなかった自分を責めているのだろう。

 

どこまでも真面目な子だ。

 

だが、その背中に何を言えばいいのか、僕には分からなかった。

 

×                      ×                      ×

 

図書館を出ると、スマホが鳴った。

 

『しばらく実家に帰ります、本当にごめんなさい』

 

もも子からのメッセージ。

 

内心、助かったと思った。

 

家に帰ったとして、まともに話せる自信がない。

 

僕以上に、彼女がそう感じているはずだ。

 

どれだけ彼女を追及したとしても、行き着く答えは一つ。

 

そういう性癖だから。

 

それ以上でも以下でもない。

 

説明のしようがないのだ。

 

それで僕が納得するはずがないのも、彼女は分かっている。

 

とにかく、お互い時間が必要だ。

 

ただひとつ、引っかかっていることがあった。

 

「もし私とエッチできてたら、このことだって許してくれたんじゃないの?」

 

果たして、そんなことがあり得るだろうか。

 

何度考えても、その言葉の真意にたどり着けない。

 

——確かに、もどかしさは感じている。

 

もともと性欲が強いほうではないし、性愛のために人間関係を棒に振ったこともない。

 

それでも、彼女を抱けないのはストレスが溜まる。

 

プライドの最も深い部分を、なじられているような気分になる。

 

とはいえ、それを第三者に相談したりしないし、まして浮気に走ったりもしない。

 

それは「普通」に反するからだ。

 

誰もが、交際する男女はセックスしていて然るべきだと思っている。

 

だから僕もそれに合わせて、なに不自由なくセックスしている男を演じる。

 

所詮、他人がその真偽を確かめることはできない。

 

と同時に、彼女には「セックスなんてしなくてもいいんだよ」という「普通」を与えてやる。

 

彼女は安心し、その普通の中で僕との交際を続ける。

 

こうすることで、誰もが普通で居られる。

 

持論を醜くぶつけ合ったり、価値観を消耗し合ったりすることなく、平穏無事に暮らしてゆける。

 

しかし彼女は、それに異を唱えてきた。

 

「私とセックス出来ないから、あなたは怒っているんでしょ」と。

 

扇風機を愛撫する自分を棚に上げてまで、僕の作り上げた「普通」に冷や水をかけてきたのだ。

 

一体、どういう了見なのだろうか。

 

お前の不能を、普通のこととして受け入れてやったというのに。

 

考えれば考えるほど、無性に腹が立つ。

 

気が付くと僕は、家とは違う方向へ歩き出していた。

 

×                      ×                      ×

 

紺のワゴンRが、新宿のインターチェンジを下りた頃。

 

一言も話さなかったもも子が、ついに口を開いた。

 

もも子

「もう、聞き飽きたと思うけど」

 

もも子

「本当にごめんなさい」

 

もも子

「何から話せばいいのか、何を謝ればいいのか、分からないの」

 

もも子

「でも、則人くんを傷つけたことには変わらない」

 

もも子

「だから、ごめんなさい」

 

一体、僕にどんな言葉を期待しているのだろうか。

 

なんとなく分かる気がした。

 

則人

「……明日、2時から4時の間にエアコン取り付けに来るって」

 

もも子

「えっ?」

 

則人

「もも子、ウチに居れる? 俺、明日仕事だからさ」

 

もも子

「……うん」

 

則人

「壊れたら、新しいのを買えばいいんだよ」

 

則人

「無理に直す必要なんてない」

 

則人

「いろいろ聞きたいことはあるけど、昨日のことは忘れることにする」

 

則人

「だから今日からまた、普通に暮らしていけないかなって」

 

則人

「俺は、そう思ってるよ」

 

もも子

「……ありがとう」

 

涙を溜めているのが、運転しながらでも分かった。

 

彼女を許したわけではない。

 

異常な性癖を、認めたわけでもない。

 

ただ、当たり前のように受け入れてやることが、

 

何よりの復讐になると考えたのだ。

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