普通を風になびかせて

明星圭太

第1話


則人

「門脇もも子さん」

 

則人

「僕と、結婚してください」

 

彼女は少し驚いた様子で、僕を見ていた。

 

驚いていたのは、むしろ僕の方だった。

 

おそらく人生で一度しか言わないであろうこの台詞を、

 

いとも簡単に、スラッと発音していたからだ。

 

もも子

「……よろしく、お願いします」

 

彼女は、すごく控えめに頷いた。

 

大袈裟にリアクションしない感じが、実に彼女らしかった。

 

シャンパンの泡が、祝砲のように立ちのぼる。

 

そのグラスを持ち上げ、彼女の方へ少しだけ傾ける。

 

則人

「じゃあ、これからの僕たちに、乾杯」

 

彼女もグラスを傾けて、「チン」という上品な音が、店の中に響いた。

 

視線を横に向ければ、見渡す限り東京の夜景が広がっている。

 

完璧だ。

 

高級フレンチ、夜景、プロポーズ。

 

これぞ僕が追い求めた、理想の——

 

いや、普通のプロポーズ。

 

それは、お笑い芸人が「プロポーズ」というコントで設定するシチュエーション。

 

丸の内の女性100人に「プロポーズといえば?」とアンケートを取り、およそ過半数を占めるシチュエーション。

 

ともすれば「ベタ」や「キザ」という言葉に置き換わってしまう、そんなシチュエーション。

 

しかし、それこそが至高。

 

普通とは、理想の裏返しだ。

 

すなわち普通を求めることは、理想を叶えることと同義だ。

 

それが僕・小石川則人の信条。

 

何を恥ずかしがることがあろうか?

 

現に彼女は今、僕の向かいでスパークリングワインを飲みながら、

 

東京の夜景に半ば陶然とした表情を浮かべている。

 

こういうので良いんだよ、こういうので。

 

僕は彼女にバレないように「うんうん」と頷きながら、グラスを口に運んだ。

 

もも子

「なんか、ちょっと暑くない?」

 

彼女はブラウスの胸元をチラチラと動かし、風を仰いでいた。

 

則人

「お酒のせいかも。お水もらおうか?」

 

挙手で店員を呼ぼうとした矢先、ギャルソンらしき男が、巨大な扇風機を店内にせっせと運び込んでいた。

 

彼女と同じように「暑い暑い」と唱えていた客たちも、次第にざわつきの種類を変え始めた。

 

ギャルソン

「大変申し訳ございません」

 

ギャルソン

「空調が故障してしまいましたため、暫くの間こちらを使用させていただきます」

 

およそ体育館の部活で使われるような、無骨な設計の巨大扇風機。

 

高級フレンチの店内には似つかわしくないフォルムと、ブロロロロ……という謎のモーター音。

 

その音に匹敵するほどの非難轟々が、ギャルソンへと向けられていた。

 

「ふざけんな!」

「こっちは高い金払って食べに来てるんだぞ!」

「金返せ!」

……。

 

もも子

「なんか、大変だね」

 

彼女は、何に気を遣っているのかよく分からない発言をした。

 

則人

「とりあえず、飲み終わったら場所変えよっか」

 

僕はあくまで、普通で居続けた。

 

別に客たちだって、普通にしていればもっと快適なのに。

 

フレンチレストランのホールで業務用巨大扇風機が回っていようが、

 

静かに食事さえしていれば、お前たちの望む優雅さはいくらか手に入る。

 

なぜ自ら、それを放棄するのか。

 

当たり前として受け入れてしまえば、なんてことはない。

 

みんな、「普通じゃない」ことへの免疫が低すぎる。

 

先ほど、結婚という絶対的普通を手に入れた僕の心は、まさに凪そのものだった。

 

扇風機の風はここまで届いているはずなのに、

 

彼女の胸元は、なぜか汗ばんだままだった。

 

×                      ×                      ×

 

その夜。

 

さっきも夜だったが、さらに深い夜。

 

僕たちはいわゆる、軋むベッドの上で優しさを持ち寄っていた。

 

はずだったのだが。

 

もも子

「……ごめん」

 

則人

「謝らないで」

 

則人

「きっと、飲み過ぎただけだよ」

 

いや、今日が初めてではない。

 

前にも、というよりも毎回、彼女のコンディションは優れてはくれなかった。

 

大事なのは愛情だ。

 

僕たちは行為に頼らなくても、お互いを愛している。

 

それを証明するように、僕はもも子の震える体を強く抱きしめた。

 

床には、役目を果たすことのなかった最薄の堤防が、無残にへばりついていた。

 

×                      ×                      ×

 

昨日、フレンチで味覚を酷使したせいか、

 

今はこの居酒屋の、ポテトサラダの雑な味が妙に愛おしい。

 

そして、向かいでビールを飲むこの男の、大味なトークも。

 

大智

「持ち検ってパンツの中までは見られないらしくてさ、その先輩」

 

大智

「ケツとタマの間に、ペタッて貼り付けてあったんだって」

 

大智

「それでなんとか、ことなきを得たっていう」

 

自分の話でもないのに妙に自慢げなのが、この男・米本大智を象徴している。

 

則人

「へえ、そんな世界もあるんだな」

 

僕は、コイツが欲しがっているであろうベストな相槌をプレゼントした。

 

大智

「そんで、プロポーズは上手くいったのか?」

 

則人

「ああ。来週には婚姻届を出すよ」

 

大智

「いいな〜、俺も早く結婚してえ」

 

則人

「すればいいじゃん」

 

大智

「まだ両親にも挨拶してねえよ。俺がラッパーなのも知らないし」

 

大智

「こんな奴に娘をやりたいとは思わないだろうし」

 

則人

「そういうもんか……」

 

大智

「俺もお前みたいに、普通に就職してりゃよかったのかな」

 

則人

「いやいや羨ましいよ。お前はちゃんと、やりたいことやってるんだから」

 

大智

「まあな〜」

 

いわば、サル同士の毛繕いだ。

 

こうして互いの日常を擦り合わせ、不安を和らげている。

 

しかし、互いがそれを羨んだりはしない。

 

面白半分にそれを聞いて、またそれぞれの日常へと帰っていく。

 

互いを認め合う仲だからこそできる、高度な芸当なのだ。

 

則人

「ま、お互い頑張ろうぜ」

 

僕は毛繕いの終了を告げ、席を立った。

 

大智

「あ、言い忘れてたけどさ」

 

則人

「?」

 

大智

「結婚、おめでとう」

 

大智は僕に、握手を求めてきた。

 

ラッパーらしからぬ、プレーンな握手だった。

 

旧友のこういった一面を見られるのも、結婚の良いところなのかもしれない。

 

×                      ×                      ×

 

「家のエアコンが壊れた」ともも子から連絡が入ったのは、

 

勤め先であるスーパーを退勤しようと思った矢先だった。

 

舞 

「店長、まだ帰らないんですか?」

 

大学生のアルバイト・川邊舞が声をかけてくる。

 

則人

「家のエアコン、壊れちゃったらしくてさ」

 

則人

「ギリギリまで涼んで帰ろうと思って」

 

「えー、奥さんかわいそう〜」

 

「暑い中、店長のこと待ってますよ?」

 

則人

「大丈夫だよ、扇風機もあるし」

 

則人

「明日休みだから、二人で電気屋さん見に行こうって伝えた」

 

「ま、どんなハプニングも、新婚さんには楽しいイベントですもんね〜」

 

則人

「まだ婚姻届出してないから(笑)」

 

「いいな〜結婚。早くウチの店にイケメン雇ってくださいよ!」

 

則人

「そうだなぁ……。てか、舞ちゃん時間大丈夫?」

 

則人

「図書館に本返しに行くって言ってなかった?」

 

「ヤバ! 忘れてた!」

 

休憩室のテーブルに無造作に置かれた、分厚い本たち。

 

期末レポートを書くのに使っていたらしい。

 

「まあいいや……明日返しに行きます」

 

「こんなニッチな本、誰も借りないだろうし」

 

則人

「それ、何の本なの?」

 

舞は妙に得意げな顔で、則人に表紙を見せた。

 

則人

「世界の……変わった性癖?」

 

「店長、知ってます? 世の中には、霧にムラムラする人も居るんですよ」

 

則人

「霧?」

 

「ネブロフィリアっていうんです」

 

「たとえば、全裸よりも身体に霧がかかっている状態の方が興奮する、とか」

 

「でも中には、工場の煙を見るだけで興奮しちゃう人も居るんですって」

 

則人

「……それ、レポートに使うの?」

 

「ええ」

 

「こういう変わった性癖に理解を深めることも、偏見や差別を無くす足がかりになるのかなって」

 

天真爛漫そうに見えて、こういうことも躊躇わずに発言する。

 

彼女がバイトたちから信頼を置かれる理由の、一端を見た気がした。

 

「まあ、滅多には出会えないですけどね!」

 

彼女もまた、自分の中の「普通」のレンジを拡げようと努めているのだろう。

 

×                      ×                      ×

 

家電の値段比較サイトを見ながら歩いていると、

 

いつの間にかマンションの階段に差し掛かっていた。

 

則人

「やっぱり、店員に聞くのが一番か……」

 

リサーチを中断し、ドアの鍵を開ける。

 

則人

「ただいまー」

 

返事はない。

 

則人

「もも子〜?」

 

廊下の向こうのリビングからは、確かに人の気配がする。

 

いや、気配というより、声だ。

 

およそ僕が聞いたことのない、もも子の声。

 

明らかに何かを求め、言葉より先に欲しがっているような。

 

——そんなバカな。

 

もも子に限って、そんなことあるはずがない。

 

僕は答え合わせの前に、自らの爆ぜる息を整えた。

 

もも子の声は、一層その激しさを増していく。

 

そして、微かにではあるが、強い響きの中に僅かな揺らぎを感じた。

 

「あっ、ああっ」というより、「あわわっ、あわわわわっ」というような。

 

あるいは未曾有の事態に、自分の脳が揺れているのかもしれない。

 

どちらにせよ、僕は自分の力でリビングに歩を進め、

 

その真実を突き止めなければならない。

 

僕は決意を固めた。

 

抜き足と差し足を終え、忍び足がリビングに差し掛かると、もも子の姿が目に入る。

 

則人

「もも子……?」

 

あられもない姿のもも子が、汗ばんだ体を必死によじりながら、激しく何かを求めていた。

 

もも子は、扇風機と体を重ねていた。

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