第3話


以前より、会話が増えた気がする。

 

昨日だって、「リモコンの位置をどこにするか」で小一時間議論を交わした。

 

僕たちは確実に、結婚へと歩みを進めている。

 

もも子

「則人くん、今日午後からだよね?」

 

もも子

「私、閉店までだから、帰るの同じぐらいかも」

 

則人

「じゃあ、一緒にご飯食べよっか」

 

もも子

「うん」

 

もも子が靴を履くのに手こずっている。

 

会話、会話、会話。

 

則人

「そういえば、もも子のカフェってまだ喫煙OKなの?」

 

もも子

「うん、ブースだけどね」

 

もも子

「みんな、狭いスペースでギチギチになって吸ってる」

 

則人

「その掃除とかもするわけだ」

 

もも子

「まあ、仕事だからね」

 

則人

「嫌だなあ。もも子がそんな奴らのために」

 

則人

「自分で掃除させりゃいいんだよ」

 

則人

「だいたい、そんな空気の悪い所に居てほしくないよ、一秒も」

 

もも子

「私は大丈夫だから」

 

もも子

「赤ちゃんがいるわけでもないしね」

 

則人

「……」

 

もも子

「……」

 

二人の背筋を、冷たい風がゾッと撫でる。

 

僕はエアコンの温度を1℃上げた。

 

則人

「やっぱ、最近のは効きが良いね」

 

もも子

「……行ってきます」

 

彼女は、逃げるように玄関を出て行った。

 

議論の末、最終的にもも子が決めたリモコンの位置。

 

それとは程遠い場所にリモコンを放り投げ、自分もソファへと身を投げる。

 

……ダメだ。

 

やることがないと、考えてしまう。

 

不必要に増えた会話は、結婚への前進ではなく、核心からの逃避だ。

 

お互い、思考の隙間を会話で埋めているだけ。

 

この生活が、あくまで「普通」であると思い込むために。

 

さっきみたいに、冷たい風が背筋を凍らせないように。

 

——いや、あれは視線だったのかもしれない。

 

彼女を寝取ったにも関わらず、押し入れの奥に変わらず鎮座している、あの「男」の視線。

 

何を怖がることがある?

 

相手は人ではない。物だ。

 

殺したって罪にはならない。

 

則人

「だったら殺せばいい」

 

ソファから起き上がって、廊下を進み、押し入れを開ける。

 

まるで僕が来るのを待ち構えていたかのように、奴はそこに居た。

 

その首根っこを掴んで、押し入れから引きずり出す。

 

どんな制裁を加えてやろうと考えたが、やめた。

 

報復はいつだって、負け犬のすることだ。

 

人は人らしく、物を物として捨てる。

 

それでいい。

 

引っ越した時に余らせた、粗大ゴミのシールがどこかにあるはずだ。

 

もも子はそういうのを、一緒くたにして引き出しにしまう癖がある。

 

勝手は承知でもも子の部屋に入り、化粧台の引き出しを開ける。

 

しかし、何かが突っかかって開かない。

 

強引に引っ張った、その時。

 

まるでクッションを破いた時のように、無数の何かがバサッと舞い上がった。

 

それは、家電量販店に置いてあるカタログから切り取ったであろう、扇風機の写真の数々。

 

風に乗ってヒラヒラと浮遊する姿は、時の流れをスローに錯覚させた。

 

則人

「……なんだこれ」

 

僕は確信した。

 

彼女はまだ、扇風機を愛している。

 

×                      ×                      ×

 

老婆

「アンタ、人の心ってもんがまるで分かってない!」

 

老婆

「そんな腐った根性で商売してると、いつか痛い目見るよ!」

 

いつもなら聞き流せるような野暮ったいクレームも、

 

今日ばかりは、心に少しのタイヤ痕を残していった。

 

「……別にお前のための店じゃねえっつーの」

 

老婆の後ろ姿になけなしの捨て台詞を吐く声で、我に返る。

 

則人

「なんか、ごめんね」

 

「全然です。あの人、いつもあんな感じですから」

 

則人

「……そうなんだ」

 

「むしろ、すみませんでした」

 

「いつもならこっちでなんとかできるんですけど、今日はやたら元気なご様子で……」

 

則人

「いや、俺の把握不足だ」

 

則人

「これからも、無理せず俺を呼んでくれていいからね」

 

何か言いたそうな顔を尻目に、僕は歩き出す。

 

せめて彼女の視界から外れるまでは、店長で居なければ。

 

×                      ×                      ×

 

店を閉め、やっと店長じゃなくてよくなった矢先。

 

目の前に、舞が立っていた。

 

「お疲れ様です」

 

則人

「え、どしたの?」

 

「どしたの?」という、やや若者ウケの良いワードチョイスに、自分で嫌気が差す。

 

「店長が上がるの、待ってました」

 

則人

「いやいや、もう11時だよ? 早く帰んなよ」

 

則人

「それとも、送ってこうか? 車だし」

 

舞は遠慮がちにしながらも、ハッキリ「お願いします」と言った。

 

×                      ×                      ×

 

紺のワゴンRが駐車場を出るや否や、舞は本題を突きつけてきた。

 

「店長、大丈夫ですか?」

 

「最近、疲れてるみたいですけど」

 

則人

「ん〜、『幸せ疲れ』ってやつ?」

 

「そんなの聞いたことないです」

 

切り返しが鮮やか過ぎて、左折の拍子に反対車線へ突っ込みそうになった。

 

「もしかして、あの事ですか」

 

「悩んでるなら、私、話聞きます」

 

住宅街を縫うようなハンドル捌きとは裏腹に、僕の心は激しく揺れていた。

 

このまま、助手席の彼女の優しさに顔を埋めてしまいたい。

 

それほどまでに、僕は擦り切れていた。

 

しかし、そんなこと法律の前に自分が許さないことは明白だった。

 

則人

「さては、レポート行き詰まってるな?」

 

則人

「俺の話で良ければ、いくらでもするよ」

 

「……」

 

サービス残業だ、と思った。

 

僕はまだ、店長で居ることを強いられている。

 

店長とバイト、という「普通」を守るために。

 

「店長、いま幸せですか」

 

則人

「えっ?」

 

どうしてそんなことを聞くんだ。

 

「それが聞きたくて待ってたんです」

 

いっそ、本当のことを打ち明けてしまおうかと思った。

 

扇風機を愛しているのは僕じゃなくて、もも子なのだと。

 

でもそんなことをしたら、また普通が普通じゃなくなる。

 

まして彼女は、この性癖を普通のこととして受け入れる努力をしてくれているのだ。

 

なら、それに甘えればいい。

 

わざわざ掻き乱す必要はないじゃないか。

 

僕は、おそらく彼女が望んでいるであろう答えをプレゼントした。

 

則人

「もちろん、幸せだよ」

 

則人

「支えてくれる彼女も居るしね」

 

「彼女さんは、そこのこと知ってるんですか?」

 

「もし隠してるんだとしたら、相当苦しくないですか?」

 

「私だけは、店長のこと分かってますから」

 

なんだか無性に腹が立ってきた。

 

何なんだコイツは。

 

まるで「受け入れてやるよ」と言われているような気がした。

 

則人

「うん、知ってるよ」

 

則人

「そのうえで、結婚しようって言ってくれたんだ」

 

「……なら良かったです」

 

家まではまだ距離があるはずなのに、舞は「ここで降ります」と言った。

 

小さくなっていく背中を見ながら、僕は溜め息をつく。

 

長いサービス残業が終わった。

 

×                      ×                      ×

 

則人

「やっぱり帰るよ、彼女居るんだろ?」

 

則人

「こんな時間に悪いって」

 

「結婚祝いだ」と言って大智が飲み屋へ連れ出してくれたのは、それから3日後のこと。

 

ひと通り飲み交わし、帰ろうとする僕を、彼は自分の家へと牽引していた。

 

大智

「大丈夫、今日アイツ出かけてんだ」

 

大智

「お前に渡したいものがあるんだよ」

 

お世辞にも裕福とは言えないアパートの階段を、ズンズン上っていく大智。

 

ドアの向こうには狭いリビングと、クローゼットを無理やり改造して作られた、彼の「書斎」があった。

 

そのスペースをほとんど占有している、大きな箱。

 

大智

「結婚おめでとう」

 

大智

「開けてみろよ」

 

言われるままに箱を剥がすと、中から出てきた女性と目が合った。

 

則人

「うわっ!」

 

猟奇的なものを感じて、思わず目を背ける。

 

が、よく見るとそれは人形だった。

 

大智

「ダッチワイフ」

 

大智

「これで思う存分、浮気しちゃってくれ」

 

物だ。

 

則人

「……いやいや」

 

則人

「シャレにならないよ」

 

シャレになってないよ、と言うべきか。

 

大智

「シャレじゃねえって!」

 

大智

「相手が生身の女だから浮気になるんだぜ?」

 

大智

「そこをかいくぐる、スリルとロマン!」

 

書斎の隅には、文字通り気の抜けた女がもう一体、丁寧に収納されていた。

 

大智、お前もか。

 

大智

「もっと喜べよ!」

 

大智は俺の肩甲骨をドン、と叩いた。

 

則人

「ごめん、これは受け取れない」

 

大智

「そんなビビんなって!」

 

則人

「別にビビってなんかないよ」

 

大智

「最悪バレてもさ、ほら、3Pしちゃえばいいじゃん!」

 

則人

「違うんだよ……」

 

大智

「だってお前、スゲエつまんなそうなんだもん!」

 

大智

「もっと人生楽しめよ!」

 

則人

「は?」

 

思うより先に、口に出てしまった。

 

則人

「……お前、そう思ってたのか?」

 

大智

「そりゃそうっしょ」

 

大智

「普通に大学出て、就職して、結婚して」

 

大智

「優等生すぎるっつーかさぁ」

 

大智

「たまには息抜きでもしねえと、アレみたいになっちゃうよ、ほら」

 

大智

「繁華街でナイフ振り回す奴!」

 

大智は、屈託なくガハハと笑った。

 

僕はショックを受けていた。

 

会話、会話、会話。

 

しかし相応しい言葉は出て来ず、ただ黙り込んでしまう。

 

大智

「……わりぃ、喋りすぎたわ」

 

大智

「要するに、心配なんだよ。お前のことが」

 

唯一の救いは、大智が底抜けに良い奴だということだった。

 

則人

「喋りすぎて当然だよ」

 

則人

「お前、ラッパーなんだから」

 

やっと冗談が出てきた。

 

大智はまた、屈託のない笑顔を僕に向けた。

 

×                      ×                      ×

 

やけに火照った体を夜風で冷やしながら、家までの道程を歩く。

 

なんだかんだ、良い夜だった。

 

そう思いたいのに。

 

脳内では、たったひとつの言葉が、ずっと鳴っていた。

 

振り払うように、歩くスピードを上げる。

 

やっとマンションにたどり着いた時。

 

ゴミ置き場に、見慣れた人影があった。

 

それは、粗大ゴミと化した扇風機を、我が子のように抱きしめていた。

 

則人

「……もも子」

 

もも子は驚いた様子で振り返り、泣き腫らした目で僕を捕らえた。

 

一体、彼女は何を言うのだろう。

 

もも子

「一言、言ってくれてもよかったのに」

 

それは抗議だった。

 

愛する者を勝手に捨てられたことへの、確かな抗議。

 

会話、会話、会話。

 

次の言葉を探す間も、あの言葉がしきりに邪魔をしてくる。

 

——「だってお前、スゲエつまんなそうなんだもん!」

 

そう思われる理由。

 

それは、僕の作り上げる「普通」が、脆くて弱いから。

 

憧れに値しないから。

 

だったら、より強固でたくましい「普通」を作り上げるしかないんだ。

 

彼が無条件で欲しがり、ひれ伏すような、圧倒的普通。

 

普通に勝るものなど、この世には無いのだから。

 

則人

「もも子、俺が間違ってたよ」

 

則人

「今まで君のこと、見て見ぬふりして、やり過ごそうとしてた」

 

則人

「受け止められなかったんだ」

 

則人

「でもこれからは、君のそういうところも全部ひっくるめて、愛していきたい」

 

則人

「君の性癖とちゃんと向き合って、二人でどうすれば良いか考えるんだよ」

 

則人

「どれだけ時間がかかってもいい」

 

則人

「どうせ僕らは、一生を共にするんだからさ」

 

まるで長台詞のようにスラスラと喋っていた。

 

もも子は、ただでさえ枯れている涙を搾り出すようにして泣き始めた。

 

彼女を抱きしめながら、僕は野望に燃えていた。

 

まずはこの異常性癖者を、僕の「普通」で完璧に飲み込んでやるんだ。

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