気付きの旭山
七月十七日、日曜日。
札幌市内は一昨日のお昼からずっと曇り空。今日もお昼から雨予報で、太陽を見ることはなさそうだ。
わざわざこの地に来てくれた旅行者が、今頃雨に降られていなければいいのだけど。
「見てみて! アザラシが挟まってる!」
「よく見ないとわからないね」
ずっと上着のジャケットを羽織ったままで、一度も脱いでいなかったな。やっぱり本州の人にとって北海道の気候は肌寒いくらいなのかもしれない。
わぁと歓声が上がる。振りかえると円柱水槽をゆらりとアザラシが上から下へと泳いでいた。
「次行こうよ」
「うん」
――待っていますから。
昨日の別れ際に彼に手渡したライラックの髪飾り。
気まぐれな旅行者は明日にはこの島を旅立つ。上司の友人という立場の男性なんて、言ってしまえば赤の他人だ。貸した金は友人でも返ってくると思うな、なんていうけど、それ以上に返ってくることを期待してはいけない関係性だ。
私にしてはずいぶん衝動的に行動してしまった、と反省する。でも、よく考えたら、それは髪飾りの件だけじゃない。
主任に代打を頼まれたのは一昨日だけだったのに、野球観戦の話に食いついてしまったのも。
恥ずかしいと言いながらきつねダンスを踊ってしまったことも。
岩崎先生の思い出が抜けなかったバーに誘ったことも。
そこで先生のことを話してしまったことも。
「なっちゃん?」
「えっ」
隣を歩く友人の声で我に返る。
「ホッキョクグマが寝転んでるなぁ、って」
「そ、そうだね」
さっきから挟まっていたり寝ていたりする動物が多いな。ホッキョクグマにとっては北海道は暑いんだろうけど。
ぱらつきはじめていた雨が徐々に強くなってきた。
「お昼ご飯にしよっか」
「そうだね」
ついつい福野さんのことを考えてしまうけど、それでは同行者に申し訳ない。ぶんぶんと頭を振って思考を切り替える。
「久々に来ると実感したけど、北海道って寒いね」
「北海道が寒いんじゃない。そっちが暑すぎるの」
大学時代の夏休みに今隣にいる皐月ちゃんと一緒に東京まで旅行したことがあるけど、あれはもう人が生活できる気温じゃない。
次に東京に行くなら冬にしよう。あ、でもそれなら、野球が見られないから……春か秋?
フードコートで私は焼きそばを、皐月ちゃんはカレーを頼んで席に着く。
「それで。最近はどうなの?」
皐月ちゃんは大学時代の同級生だけど、出身は沖縄だ。どうせ島を出るなら一番遠いところで生活してみたいというなかなかぶっ飛んだ理由で遠路はるばる札幌までやってきて、当時は何かと気にかけてあげていた。
結局、卒業して東京で就職したんだけどね。
「あれ」
ぼーっとしていたから気が付かなかった。
テーブルに置かれた皐月ちゃんの左手の薬指に光るものがあることを。
「その指輪、どうしたの……?」
もしや。
「うん。結婚するの」
「ええええええ!」
寝耳に水だった。
「皐月ちゃん、いつの間に……」
「そうだよね。わたしにとっても急だったもん」
いや、皐月ちゃんは女の子っぽいし、性格もいいし、(私と比べて)スタイルもいいし……ご縁はあるんだろうなとは思っていたけど。
「今年のお正月に実家に帰ったらお見合いをすすめられて」
「沖縄で?」
「うん。わたしはそういうのは早いからって断ろうとしたんだけど……」
皐月ちゃんはぽっと顔を赤らめる。
「会ってみたら思ったよりもタイプでのめり込んだとか、そういうやつ?」
「ううん。そこまでタイプってわけじゃなかったの。ただね」
皐月ちゃんは目を細めながら。
「お話してみてね、また会いたいって思ったの。それで帰省している間は毎日会って……」
愛おしそうに薬指の指輪を撫でた。
「東京に帰ってからも連絡しあって。会えないのが淋しくて。彼がこっちに来てくれたら嬉しくって」
「それで決めたんだ」
「うん。彼からプロポーズしてくれたけど……これはもうご縁なんだって」
皐月ちゃんの言葉がぐさっと私の胸に刺さる。
「そっか。おめでとう」
「えへへ。ありがとう」
幸せを掴める子ってやっぱ皐月ちゃんのような子なんだね。行動力があって、数少ない機会をものにできる、そんな子。
「それで」
皐月ちゃんは私の目をじっと見つめてくる。
「なっちゃんはさっきから誰のことを考えているのかな?」
そういえばそうだった。
この子はぽわぽわしているようで、実に洞察力が高い。
「そう見える?」
「うん。遠いところにいる誰かを想うような……そんな雰囲気」
自分が経験したからわかるのだろう。
ちょうどいいかもしれない。こんなことを相談できるのは皐月ちゃんしかいない。
「上司が東京の友達と会う予定だったんだけど、上司が寝込んだから、私が代わりに一昨日昨日と会ってきたの」
一つずつ、順を追って説明していく。
「二日しか会ってないから彼のことは全然わからない。だって、彼、札幌まで来て旅行を満喫しているだけだもの」
それなのに。
「旅人の面倒を見てあげたいだけなのかなとも思った。でも、何か違う。考えても、理由が思いつかないの」
「理由?」
「彼と一緒にいると楽しい……その理由」
自分でかけてしまった一つの魔法がある。
「成り行きでその人のことを先輩って呼んでるの。そうしないと、ずっと敬語で喋ってきそうだったからなんだけど……本当に学生の頃にああいう先輩がいたような、そんな気がして。先輩と一緒だったら楽しかっただろうな、って」
「それって……」
皐月ちゃんは何かを言いかけてすぐにやめた。
「ごめん。自分でも全然まとまってなくて」
「ううん。でもね、一緒にいて楽しい、以上の理由っているのかな?」
「それはだって……一時的に舞い上がってるだけかもしれないし」
私のこの一言に皐月ちゃんはぷっと笑った。
「ちょっと、何がおかしいの!」
「ごめんごめん。なっちゃんに限ってありえないことを言うんだもん」
「ありえない?」
どうして本人でもないのに断言できるのか。
「なっちゃん、今まで何回か合コン行ったことあるよね」
「それくらいは」
「その中で気になった人は?」
「いない」
だよね、と皐月ちゃんは相槌を打つ。
「なっちゃんは――ずっと、“先生”を追いかけてたもんね」
すぐに言葉が出てこない。
「簡単に舞い上がれる子じゃないよ、なっちゃんは」
カレーを平らげた皐月ちゃんはぐいっと水を飲み干した。
私の焼きそばはまだ半分くらい残っている。
「その先輩さんはいつ東京に戻るの?」
「明日の昼過ぎにはって」
「えぇっ! こんなところで呑気に動物見てる場合じゃないじゃん!」
「いや、皐月ちゃんと会える機会も大事にしたいし」
どこぞの友人との予定を飛ばしてしまう上司じゃないんだから。
「よし。じゃ、夕方にはなっちゃんを解放してあげるね」
「えっ、でも……」
「いいからいいから。それから明日のことも気にしなくていいから」
どうせ他の子にも結婚報告しないといけないから、と皐月ちゃんは笑った。
「踏み出してみようよ、なっちゃん」
皐月ちゃんはさっきこう言った。旦那さんとは話をしてみてまた会いたいって思った、と。会えないのが淋しかったと。
もし、あと二日を過ごしてみて、彼がそうだというのなら――。
「見ているだけなのは、もう嫌でしょ」
「そうだね……」
勇気を出してみよう。自分の心にもっと素直になってみよう。
「…………」
「なっちゃん?」
「結婚する皐月ちゃんにだから聞くけど……男の人ってやっぱり大人っぽくて、胸が大きい女性の方が好きだよね……」
素直になったらなったで、また新たな悩みが出てきたのだった。
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