思い出のすすきの

 札幌を象徴する場所の一つがすすきの交差点南東角のニッカウヰスキーの看板だ。

 午後九時を過ぎたが、看板の下には多くの人で賑わっている。夜の街はまだまだこれからといったところだろう。

 心地がいい気候だけど、少し肌寒い。

 片岡さんも札幌ドームでは手に持っていた水色のサマーカーディガンを羽織っている。気温計は二十度と記されていた。

「なんだか、いかにも札幌に来ましたって感じだよね」

 交差点の写真を撮って、ついでにニッカウヰスキーの看板を背景に片岡さんに写真を撮ってもらってから、目的地へと向かう。

「先輩は札幌に来られるのは初めてですか?」

「いや、高校の修学旅行で来たことはあるんだよ。もう十年以上前の話になるけど」

 とはいえ、街中を歩いたのは昼間だったから、夜のすすきのを目にするのは今が初めてだ。

「ラーメン横丁に行って、入った店がなぜか旭川の醤油ラーメン推しだったのは覚えてる。結局、味噌ラーメン注文したけど」

 ふと思う。僕達が修学旅行で札幌の街を巡っていた頃、片岡さんは中学生くらいだったのだろうか。そのとき彼女はこの街で何をしていたんだろう。

 もしかしてどこかで遭遇していたことがあったりして。

(いや、何考えてるんだ自分)

 気持ちの悪いセンチメンタリズムを打ち消して、話題を変える。

「そういえば、さっきのお店、美味しかったよ」

「どういたしまして。あそこ、私のおすすめなんです」

 夕食は彼女が選んでくれた札幌ラーメンの名店だった。旅先で名物を美味しくいただくのはそれだけで楽しい。

「ここです」

 すすきの交差点から歩いて二分ほどの雑居ビルに足を踏み入れる。エレベーターで四階まで上がると、シックで落ち着いた空間が広がっていた。

「ほぉ。いいね」

「でしょう?」

 奥のテーブル席に案内される。

 片岡さんの容貌が少女のように若々しい(本人の名誉のためにこういう表現にしておく)のもあって、大人の社交場であるオーセンティックバーとはすぐには結びつかなかった。でも、落ち着いていてしっかり者な性格もあってか、いざこの場で見るとしっくりと来ている。なんだったら昨日の賑やかな居酒屋よりはこちらの方が似合うといっていい。

「せっかくなのでこのオリジナルカクテルにしようかな」

「私はチャイナブルーで」

 やっぱり様になっている。札幌ドームのときとはまた違った雰囲気だ。

「いいお店を知っているね」

 二十代でこういうバーに来るとしたら会社の上司に連れてきてもらったといったところか。

 もしくは。

 年上の彼氏、とか。

「……先輩?」

「へっ」

「いや、急に難しい顔をされたので」

 いかんいかん。顔に出てしまっていたか。今回の晴れの旅行にしかめっ面は似つかわしくない。

「何でもないよ」

 話を変えようか。

「そういえば先輩は何のお仕事をされているんですか」

 気を利かせてくれたのか、向こうから話を振ってくれた。

「そうだね、人の不幸が飯の種な資格のいる自営業、といったところ?」

「なんですか、その胡散臭そうな仕事」

「胡散臭いのは間違ってないね」

 ちょうどそのとき、注文していたカクテルが二つ、目の前に置かれた。

「まぁなんだ、小難しい仕事と肩書は東京に置いてきたってことで」

 別に言えない仕事じゃないけど、旅先くらい何にも縛られずに自由に過ごしたいじゃない。それだけのこと。

「私が東京に行ったら教えてくれますか?」

「いいよ。何だったら事務所でお出迎えしてあげるよ」

 これはあれだな、どうせ黒田が吹き込んでるな。

 うら若き女の子が、素性もわからない男の元にほいほい来るわけないだろうし。

「東京旅行も悪くないですね」

 青く透き通った――まるで彼女のようなカクテルに片岡さんは口をつける。

「ふぅ……」

 そして、静かに息を吐く。大人の妖艶さとはまた違った類の女性らしい魅力をその姿から感じた。

「それでは、今日はお仕事の話はしません。だからこれは独り言です」

 グラスをテーブルに置いて片岡さんはじっと僕を見つめてくる。まるで僕のことを見定めるかのように。

「先輩とお会いする前に北広島の先輩に会いに行っていたという話をしたじゃないですか。……あ、先輩でかぶってややこしいですね。その方は……」

 片岡さんは一瞬言いよどんだ。

「今は岩崎先輩、ですね。私にとって彼女は篠原先輩なんですけど」

「旧姓ってことかな。いいんじゃない、呼びやすい方で」

「では、正確さは度外視して、篠原先輩。高校と大学のときの先輩です。昨日はご自宅に招待されまして……赤ちゃんを見せてもらいました」

 それはお幸せなことで。

「とても可愛くて、愛おしくて、幸せそうで、そして……悔しかった」

 片岡さんの視線はチャイナブルーの青まで落ちた。

「どうして私じゃなかったんだろう、って」

 あくまでこれは独り言。僕が何かを答えればいいというものでもない。

「旦那さんの岩崎先生は私の大学時代のゼミの准教授だったんです。お若い先生だったんですけど、私から見ると大人で……」

 少しずつ謎がつながっていく。

「このバーを教えてくれたのも先生でした。ゼミの子と四人くらいで来たんですけどね。そのときはこんな素敵な場所があるんだって、浮足立ちました」

 片岡さんはグラスを手に取り、チャイナブルーを一口含んだ。

「同級生の男の子とは馴染めないけど、年上の男性に憧れる時期ってあるじゃないですか。きっと私もそうだったんです」

「独り言に独り言を返して悪いけど」

 残っていた目の前のカクテルを半分ほど飲んでから一つの推測を口にした。

「もう一つ。その岩崎先生って日ハムファンでしょ。先生との話題を増やすために、先生に関心を持ってもらうために、君は野球のことを必死に勉強した」

「…………」

「それで自分も入れ込んじゃったけど、どうしても先生のことが頭によぎるから、真正面から認めることはできない、とかね」

 好きな人が好きなことは自分も好きになる。

 好きな人が離れて、新たに覚えた趣味だけが取り残されて。どうしたらいいのかわからないまま時が過ぎる。

 片岡さんの気持ちはよくわかった。僕も経験したことあるから。

「吹っ切れてないですね、私」

 その答えは僕の推測に対する肯定を意味していた。

「引きずったって何にもならないって、わかっているんですけど」

「そりゃ、憧れていた先生が自分の先輩とくっついたらショックは受けるんじゃないの?」

 残りのカクテルを飲み干した。次は何を頼もうか。

「別に君はその先生と付き合っていたわけじゃないでしょう?」

「そうですね……私の思い違いだったんです」

「うん?」

「二人だけで出かけたことは、何度かありましたから」

 片岡さんもチャイナブルーを飲み干した。

 自分だけと仲良くしていると思ったら実はそうじゃなかったというパターンか。悪い先生だ。

「このバーだってそうです」

「そうだねぇ……あ、すみません」

 ちょうど店員が来たので次の注文をする。

『バレンシアで』

 二人の声が重なった。

「えっ」

「あぁ、バレンシア二つ」

 改めて僕から注文をし直す。

「かしこまりました」

 店員が下がってから、僕は言い訳をする。

「甘いカクテル好きでね。あんまり男っぽくないけど」

「別にいいと思います。バレンシア美味しいですし」

 それに、と片岡さんは続けて。

「先輩、昨日から居酒屋でも球場でもビールを飲まれずにずっとチューハイでしたよね」

「ビールは苦手で」

 ですよね、と片岡さんは一つ相槌を打ってから。

「それで、先ほどは何をおっしゃろうとしていたんですか」

「あぁ、うん。言うほど君は過去のことを振り切れていないとは思わない、って話」

「えっ」

 予想外の指摘だったのか彼女は目を丸くする。

「それは……慰めのつもりですか」

「いや、事実として。先生のことを引きずっているんだったら、まず篠原先輩に会いに行かないと思うわけよ」

「それは……先輩には違いありませんし……」

「いや、無理だね。自分の好きだった男を奪った女だよ? その女との子供だよ?」

 片岡さんは唇を噛んだ。

「いざ目の前にして、昔の気持ちを思い出してってことはあるかもしれない。でも、君の中ではもう決着がついたことなんだよ、それは」

「どうしてそう言えるんですか……?」

「え? だって」

 オレンジ色のグラスが二つテーブルに置かれる。

 グラスを手に持ち、彼女の前に掲げた。


「本当に過去の男を引きずってるなら……思い出のバーに別の男は誘わないよ」


 ほら、と片岡さんにもグラスを持つように促す。

 同じ色の液体が入ったグラスを持ち上げて今一度乾杯した。

「未だに引きずっているからこそ、記憶を上書きしようと躍起になっているのかもしれませんよ?」

「それならいい傾向だね。過去に縛られてる人は前の記憶を消して上書き保存はしないから」

 どこかで聞いたことのある、恋愛において女性は上書き保存、男性は名前を付けて保存、というお話。

「それに……このバーもね、きっかけはその先生だったかもしれないけど、今ではもう君自身のお店になってるんだよ。あれだけ楽しんでた日ハムだってきっとそう」

「……ここが私のお店だって、どうしてわかったんですか?」

「メニュー全く見ずに注文していたし、店員さんが少し会釈してた」

 ふふ、と片岡さんは笑みを浮かべてから、バレンシアを口にした。

「美味しいですよね。ここのバレンシア」

 彼女の言葉に従って僕も口にする。

「おぉ。確かに美味しい」

 甘さが緊張していた体に染み渡る。

 どこまで言っていいのかわからなかった。当たっているとも限らなかったし、事実だったとしても、口にすることで嫌われるかもしれなかった。

 彼女は何か事実を知りたいわけではなかったと思う。ただ、一般的に女性の相談を受けるときによくある、結論が決まっている話を言うだけ言って、共感をしてほしい、というパターンでも無い気が直観的にはしていた。

 おそらく、片岡さんの中で感情がぐちゃぐちゃになって、既に切り開かれていた目の前へ進む道が塞がれていただけなんだと思う。だからお掃除をしてあげた、というだけ。

「わかっていたんですよ」

 片岡さんはグラスをテーブルに置いて目を閉じた。

「ただ、自信が無くなったんです。いざ、先生と篠原先輩の子供を見ちゃうと、どうしても昔のことを思い出してしまって」

「無理もないよ、それは」

「誰かに言ってもらいたかったんですね。もう君は大丈夫だよ、って。今は今で楽しいでしょ、って」

 片岡さんは目を開き、僕をじっと見つめた。

「ありがとうございます、先輩。やっぱり、私、今日はすごく楽しかったです」

 今の彼女の笑顔には何一つ曇りはない。

「どういたしまして。こんな旅先の男でもお役に立てたのでしたら」


 二杯ずつでバーのひと時はおしまいにして。

 昨日と同じように、札幌駅へと向かう道を北へと歩く。

「先輩っていつまでこっちにおられるんですか?」

「明後日の昼過ぎまで。新千歳にえっと何時だっけな」

 北海道旅行もこれでちょうど半分。黒田が熱を出したせいで予定が狂ったが、片岡さんのおかげでここまでは楽しい時間を過ごせている。

「その、大変申し訳ないんですけど……」

 大通公園を抜けた直後の信号で立ち止まる。

「明日は私、用事があって……先輩とはご一緒できないんです」

「あぁ……」

 元々彼女はピンチヒッターだ。僕に付き合う義理は初めから無いし、七月の三連休の全部が暇なはずがない。

「いいよ、気にしなくて。僕……いや、元々は黒田が無理にお願いしただけなんだし」

 ただなんでだろう。残念に思ってしまうのは。

 明日も彼女と一緒にいられれば楽しいだろうと思ってしまうのは。

(こんなの、ただ旅先で舞い上がっているだけだろうが)

 頭を冷やすにはちょうどいいかもしれない。

「ですから、先輩に一つだけお伝えしておこうと思います」

 信号が青になって、僕たちは再び歩き出す。

「時計台の裏に商業ビルがあるのはご存じですか?」

「うん」

「そのビルにあるお寿司屋さんがおすすめです。もし、この後ご飯に困ったら、そこにお立ち寄りください」

 なるほど寿司か。北海道に来たからには一回は行っておきたい。

「せっかくだし行ってみるよ。片岡さんが教えてくれる店に間違いはないからね」

「ありがとうございます」

 片岡さんは北一条道路との交差点で右に曲がったので、そのまま着いていく。すぐにライトアップされている夜の札幌時計台が見えてきた。その時計台のある交差点の角で片岡さんは立ち止まった。

「私はここまでで大丈夫です。先輩のホテルは向こうですよね?」

「札幌駅まで送っていくよ?」

「いえ、ここからは一人で帰れるので」

 片岡さんは左右で止めていたヘアゴムを二つとも外す。ふぁさぁと髪が揺らいだ。

 そして。


「……待っていますから」


 ライラックの飾りがついたヘアゴムを一つ、僕に手渡した。

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