生暖かい風

猫又大統領

読み切り

 鍵を開ける音が終わる。サビと凹みだらけの薄い扉が、鈍い音を鳴らしながら、勢いよく開く。そして、すぐにまた勢いよく閉じた。

「ああ。疲れたあ」

「おかえりなさい」

 玄関から入ってすぐに、一目で全体を見渡せるほど小さい部屋で、彼は立ち尽くした。


「おかえりじゃねえだろよお? なにしてんたよ。どうしてテーブルに飯がねえんだよ!」

「ごはんを炊くの忘れたの……」

「どうやったら忘れんだよ? 家にいるだけじゃねえかよ」

「ごめんなさい」

「連絡しろよ? なんで連絡しねえんだよ」

「今からスーパーに行って買ってくるね。だから待ってて。ごめん」


 彼に買ってもらった、今はビンテージのスニーカーを履き、扉を開けると夕日の光があたりを照らしていた。

 扉を閉じようと、ゆっくりと押す、すると中から軽く押し返された。扉が閉じられない。

「なにやってんだ」

 扉越しに彼がいった。

「えっ……うん」

「俺は酒を買いに行く。早く手、どけろよ」

「うん」

 彼は汚れを重ねた作業靴を履いて出てきた。

「ありがとう。付いてきてくれて」

「はあ? 酒が飲みてえだけだよ。はあ、日が暮れちまう。早く行けよ」

「ふふ。うん」

「何がおもしれえんだよ」

「なんでもない」


 私は普段通らない、近道を選んで歩く。人通りのない、草木に囲まれた。車一台がやっとの狭い道。彼は私の七歩くらい後ろからダルそうに付いてくる。まるでアヒルの親子のようで可愛い。


「こんな道一人で通ってるのか?」

 彼が後ろから話しかけてきた。

「うん。たまに。夕暮れは初めて。今日はボディーガードがいるから」

「俺は歩いてるだけ」

 

坂が見えてきた、それを上って下るとスーパーに着く。坂の手前の電柱には、汚れもない、ぼやけてもいない、不審者注意の張り紙。昨日、隣町で二人組の強盗が、お婆さんに大けがをさせた。その報道と同じ、男二人組の情報が書いてあった。

 その下にもう一枚、角が破れて文字はぼやけ、唯一分かるのは、黒い服を着た女性のイラストが書かれている。不気味だが、後ろの彼はボクサーなので平気だった。


「もう、ボクシングしないの?」

 後ろを歩く彼に尋ねた。

「なんて?」

「ぼ・く・し・ん・ぐ」

「負けるとこ、そんなにみてえのか?」

「ちがう……ボクシング教えるのが好きだって前に話してくれたから……」

「もう触りたくもねえよ。グローブ」


 彼は数か月前のノックアウトから、未だに立ち上がれていない。

「ジムの人に、会長がインストラクターに誘っているって聞いたよ」

「さあ?どうだっけかな。うちの会長、現役の時に女にボコられて、指導者の道に行ったって

「恋人でも泣かせたの?」

「いや、歩いていきた知らねえ女に」

「俺もそれぐらいのことがあったら、踏ん切りがついていいや。話もおもしれえからよ」

「うん……」

「弱くてなんも決められねえよ……ちくしょう……」

 彼が空を見ながら小さく呟いた。

「弱くないよ」

「つよくもねえだろ」

「うあっ」

「なんだ?」

 坂を上ると生暖かい風が前から吹き、思わず目をつぶる。目を開けると、そこには地面に着くほど長い黒髪に、黒いワンピースの女性が立っていた。電柱に書いてあったイラストに似ている。私は感心した。手が込んでいる。

 何故なら、ご飯を忘れたのも、人通りの少ない近道を選んだのも、何もかも私の立てた計画通り。


 先日、SNSで面白い投稿を見つけた。大学の演劇部が、依頼があれば依頼内容に合わせて演技をしてくれるというものだった。独り身の人が、家族を装った演劇部員と食事。今はもういない、親の代わりに、疑似親孝行体験など様々な用途で利用されているサービスだそうだ。  


 利用の提案として、ドッキリにも利用可能と書かれていた。その下に、お化けのコスプレをした、満面の笑みの学生たちが肩を組んだ写真がある。

 これを見て私は閃いた。沈んでいる、彼の空気を入れ替えたい。そして、彼が私のことを逃げずに守ってくれるのか知りたい。だから、一石二鳥だった。

 寒気のする写真を見て、内容はそこまで期待していなかったが、料金も出張料を乗せてもヘソクリで賄える額なのでお願いをした。てっきり、白装束に頭は三角の布を着けた、必要のない、明るいテンションで登場するとばかり思っていた。あとで、必ず高評価を押す。


「なんだアイツは? 怖くないか?」

「怖いの?」

「なんで? 怖いと思っただけで、コワくねえよ」

 彼氏は完全に動揺している。可愛い。でも、彼がボクシング経験者なので、もしも殴ったりする場合に備えて、お化け役は男性で、とお願いしたのだが。爪が甘い。

 長い黒髪から、ちらりと見える青白い棒のような腕。触っただけで折れてしまいそうで心配だ。


「ちょっと様子みてくるわ。」

 彼が女の方に歩き出した。その背中はとても頼もしい。女もそれに応えるように、両足を擦る様にこちらに歩き出した。その歩き方に練習の跡を感じた。

「ちょっ……止まってくんね? なあ? 止まれって?」

 女は止まらない、それでも彼は後ろに一歩も下がらなかった。今、二歩下がった。

「ねえ、私のこと守ろうとしてる?」

「はあ? 守る? 何から? 髪の長い女が前から歩いてくるだけだろおお?」

 早口で、それも高い声で彼がいった。その間も女は歩いてくる。

 私の気持ち次第で、すぐにでもこの恐怖は終わるというのに、その態度ではまだまだ恐怖は終わらない。


 彼と女は遂に、腕が届くまでの距離になった。

「えっとお……俺は、ただその先のスーパーに——」

 言い終わる前に、彼が横に吹き飛ばされた。

「大丈夫! ねえ。返事してえええ!」

 吹き飛ばされた藪に私は大声で叫んだ。

 彼は藪から、体に落ち葉や枝をくっ付けて這い出てきた。

「よかったあ。大丈夫? ねえ?」

「ああ、いてええ。肩がいてえ」

「やりすぎ。暴力はなしでしょ。 」

 女はこちらに向かって歩き出した。

「油断した。てめえ、次はお前の吹き飛ぶ番だ」

 彼はそういうと女との距離を詰め、いつものように膝を少し沈め、拳を顔の前に置いて構えた。

「もうやめます。やめます。お金は払いますから……終わりにして下さい」

「何言ってんだ。金の話なんて誰もしてねえよ」

「違うの……」

「肩を殴られたから肩な。これでおあいこだ」

 いくら、殴られたからといって女を殴るなんて。

 彼は躊躇なく左フックを女の右肩に打ち込んだ。

 女は何事もないように立っている。痛みを我慢している様子もない。彼は後ろにステップをして距離を取った。


「はは! 人間じゃねえよ。殴っても手ごたえのない感覚。言っていたとおりだああ」

 彼は興奮していた。

「こいつが会長を倒した女だ。伝説だぜ! 俺のジムじゃああ」

「え? 会長はこの人に?」

「酔っぱらうといつもこの女の話。髪型、服装、全部同じだ。今になって思い出した」

「だってそれはずいぶん昔のだよね……」

「四十年くらい昔だ。だから人間じゃねえんだよこいつはよお。はははは」

 なんだか、怖いくらいにうれしそうだった。

「俺は負けた試合も含めて、全部相手の拳は見えてけどよ、飛ばされたとき何も見えなかった」

「それで気づいたの……」

「ああ。会長の仇、そして会長を超えてやる。一花咲かせてやる。さあ、お化け退治だ。ゴングはならねえけど、始めるぞおおお。俺はまだやれる」


 そういうと、彼は構えて、得意の右ストレートを女の顔面に入れようとする。

 女はその拳を右手で掴むと、彼が次の動作に移る前に女の左手が彼の腹部に触れたように見えた。

「うっくっあああ」

 すると彼は倒れて、うめくばかりだった。

 女は私の方に歩き出す。

「人の男殴りやがって」

 女は小さく左右に揺れるだけで、前に進まなくなった。

「逃げろ」

 彼は女の足首あたりを両手で掴んでいた。

「やだ。逃げない」

「逃げてくれよおお。なああ。早く逃げてくれよお。お前に何かあったら俺はああ」

 彼が泣きじゃくりながら言う言葉がうれしかった。目が、潤んだ。余計に逃げたくなくなった。

「俺にやれええ。好きにしろおお。大事な人なんだああ」

 女は進むことやめた。少しの間のあと、腰をかがめて、彼の顔を、長い髪の間から見ているようだった。そして彼の頭を一度、撫でた。

 彼はすぐに目をつぶり、うつ伏になった。手も足から離れた。私に一切興味を示すことなく女は足を擦るように横の藪の中へと消えていった。

 すぐに彼に駆け寄った、息はしている。寝息だ。このままここで、少し休むことにした。


 夕日がもう少しで沈む。

 その時、後ろから気配がした。

「ねえ、お嬢さん?」

 後ろを振り向くと二人組の男がいた。ニュースでも電柱でも、見たことのある男たちだった。

「怖がらせちゃったかな? 俺たちのこと知ってる? 有名人」

 そういうと男たちは笑い合った。

「知りません。近づかないで!」

 私は恐ろしくて、下を向きながら答えた。

「これでもか?」

 一人がズボンのポケットから刃物を出した。

「それ彼氏? 彼氏はおねむでちゅかあ? ははは」

「彼氏を刺せば少しは俺たちに興味を持ってくれるかな?」

 私は目を閉じて彼を強く抱きしめた。

 後ろから生暖かい風が吹く。目を開くと私と彼以外誰も居なかった。


「すいませえええん! 遅れましたあああ」

 そういって坂を上って鬼がやってきた。

「あの! 演劇部っす! あ? だ、だ、大丈夫すか?」

「なんで? 鬼……」

「救急車呼びます!」

「だから、なんで鬼なの……」

「え?これは節分の時のコスプレっす。使いまわしっすエコっすエコ!」

 ここで私の記憶は終わった。次に目を覚ますと病室で彼が横で泣いていた。



**

「ママァ。ねえ、おそとみてどうしたの」

 夕日が差し込む部屋で、子供が足に抱き着きながら聞いてきた。

「パパと結婚できて、あなたに会えてうれしいなあって思っていたの」

「パパ、やっつけてママとけっごんすんだ」

「えっうれしい、でもね、パパはボクシングの先生だから強いよ」

「まえに、パパは女の人にボコられたっていってたよ」

「ふふ。そうね。ボコられてた」

「ボコられるようなパパでもよかったのお?」

「ボコられてもママを守ってくれるからパパのこと好きなの。大事な人のこと守りなさいよ」

「うん。じゃあ、ママを守る」

 私はそっと、頭を撫でた。



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生暖かい風 猫又大統領 @arigatou

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