8月13日

 車の窓から山の香りが漂ってきた。暖かな陽だまりの緑の匂い。入浴剤の森の香りとは全然違う。古く焦げた新聞紙のような感じ。柔らかで、香ばしくて、どこか寂しいような。コロナでしばらくこっちには来れてなかったから、この感じは随分と久しぶりだった。


 お盆に入り、塾が休みになってしまった。仕方なく図書館でも行こうかと思っていると、お母さんが、


「せっかくだし墓参り行きましょうよ。世の中もちょっとは落ち着いて来たんだし」


と半ば強制的に私を連れ出した。何がせっかくなのか分からないけど、まあ、1日くらいはこういうのもいいかもしれない、そう思って私は車に乗り込んだ。車に揺られ2時間と少々。スマホをいじっていたら車酔いしてしまった。これも久しぶり。


 ようやく着いたときには、だいぶ体力を持ってかれていた。目の奥にうにゃうにゃ揺れる何かがある気がする。視界が全体的に薄暗い。そして胃を圧迫する感じ。あとちょっと車に乗っている時間が長かったらやばかったかもしれない。


 それも車の外に出ると、雲が裂けて青空が広がっていくようにさっぱりと良くなった。風が髪をくすぐってどこかに消えていく。さすがは田舎だ。住宅街とはいえ、10分も歩けば山があるような、そんな場所。わざわざ住みたくはないが、たまに来ると本当に楽になれる気がする。


 しっとりと湿度が高く、少し暑いが、とても気持ちがいい。底抜けたような空、という言葉を前に本で読んだが、正しくそんな感じの空だった。


 墓はむしろ温かみを帯びていた。墓石が滑らかに太陽光を反射する。お盆だから色んな人が来たんだろう、たくさんの花と石が力を合わせてこの場所に熱をもたらしている。正直かなり暑かったが、嫌ではなかった。


 ここには、私の祖父と、それより前の先祖の人達が眠っている。祖父も会ったことはないから、私は誰も知らないけれど。


 でも、去年ここで知っている人が眠りについた。ミヤマのおばさん、とうちの家族は呼んでいた。


 戸籍的には多分大叔母さんにあたる。祖母の姉。ミヤマのおばさん呼びが定着しすぎて、正直名前はおぼつかないけれど、とても快活で朗らかで、とても好きな人だった。


 線香の石のような香りがツンと鼻をくすぐった。お父さんが持ってきた花を飾り、水をやっている。火が横たわった線香の先を真っ赤にして、そして白い灰がそれを侵食していく。目立たない煙が、ゆっくりと揺られながら昇っていった。






 ミヤマのおじさんの家は寺から車で15分ほどの所にある。ほぼほぼ真っ直ぐ直線に進む県道のすぐ近くなのでとても分かりやすい。山へ向かって走る最中、畑が増えてきたな、と感じる辺りにある。先程電話でそちらに向かっていることを伝えたからか、おじさんは外で農業者特有の黒く硬い手を上げ、歓迎してくれた。少し痩せたようだった。


 ミヤマ、というのは昔のこの辺りの地名らしい。別におじさんたちの苗字とかじゃない。昔は家の場所でその家族を表していたのか、みんなどこどこの誰、みたいな呼び名があったようで、おばさんたちを名前で呼ぶおばあちゃんも、家全体のことを表す時はミヤマの家と呼んだ。でも、私のうちはお父さんの名前で呼ばれている。新しい世代は、家、とは認識されていないのかもしれない。もちろん悪気があったりするわけじゃないのだろうけど。


 家に入ると、頑丈な昭和の匂いを感じた。匂い、というのも変だけど、なにか濃いような、深いような。この雰囲気は好きだったが、それこそずっと住むには適さないように感じる。


 居間には祀る祖先の1人増えた仏壇がある。火事にならないようロウソク型のランプがあり、その隣に本物のロウソクが置かれている。危ないから普段はもう線香をつけないそうだ。盆や彼岸以外は。


 二つに折った線香から石の匂い――いや、墓の匂いかもしれない。改めて他の場所で嗅ぐとそう思った。墓石の匂い。それは結局線香の匂いで、大したこと考えてなかったな、とふと思った。


「ありがとな」おじさんはそう言って軽く頭を下げた。線香を上げたことだとちょっとしてから分かった。


「にしても、大きくなったな、17か」


「あーそうですね、もうすぐ18ですね」


「そうか、そりゃあいいやな」


 おじさんはなにか台所でゴソゴソしながら言った。お母さんが「お構いなく」と言っているが、出てきたのはとても高いお菓子だった。


「母ちゃんがいねぇからな、手作りのもんはテェしたもんないからな」


 そう言いながらまだゴソゴソやっているおじさんをおばあちゃんが「もういいよ」とたしなめる。だが、ゴソゴソやった末におじさんはスイカを切ってきてくれた。深い赤色がみずみずしい。表面から汁が垂れるのを見て思わず唾を飲んだ。


「これな、うちで取れたやつなんだけどな、これが甘くできたんだ。去年はあんまり出来が良くなかったんだがな」


 さっ、ほれ食いな。促されるままに口に入れると、口の中にひんやりとした甘みが広がった。脳がこれを欲している気がする。今日は暑かったから尚更美味い。瞬く間に完食してしまった。おじさんは嬉しそうに目を細めていた。


「美味いか、そりゃよかった。まだあるかんな、どんどん食ってな」


 2つ目を完食する頃、おじさんはテレビをつけた。甲子園が映る。そういえばこのうちに来る時、いつも野球が流れている気がした。昔おじさんもやっていたらしい。


「今年も大阪かな、次埼玉か」


「まずいい感じの試合してくれたらいいんすけどね」お父さんが相槌を打った。埼玉は今年番狂わせがあったらしい。お父さんがずっと驚いていた。


「そういやな、埼玉の監督の――」


 そこからはあまりよく分からなかったので、おじさんとお父さんが話すのを耳に流しながら私は3つ目のスイカに手を伸ばした。これ以上食べるとお昼が食べれなくなる気がしたが、それでもこの美味さには勝てない。案の定スイカを食べたあと、高級のお菓子に手を出せなかった。


「それで、最近はどうですか? 不便とかないですか?」


 話が一段落した段階でお母さんが聞いた。「そうだな、」とおじさんはひとつ考えてから口を開いた。


「まあ、何とかなる。息子も毎週末来てくれるしな。嫁さんも気ィ利かしてなんか作ってきてくれるから助かってる」


 ただまあ、とおじさんがお茶を取りながら呟いた。このお茶はペットボトルで買ってきたものだった。


「家事なんかは母ちゃんみてえにはできないしな、ほんといい嫁だったよ。ほんとな。男が1人生き残ってもな」


 初めておじさんが弱音を吐いたのを聞いた気がした。少し重苦しい雰囲気になったのをおじさんがほれ食え、とお菓子を勧めてくる。いやあもう、とスイカの皮が3つ乗った皿を見せると、そんなに食ったのか、さすがワケぇな、とおじさんは笑った。






 帰りに車に乗った時、おばさんが最後に作った梅干しをひと袋くれた。お母さんが懸命に固辞していたが、おじさんの押しに負け、私に持たせてくれた。


 梅干しの酸っぱい匂いが車中に広がる。ヨダレが止まらない。ちょっとお父さんは複雑そうな顔をしていた。でもおばさんの梅干しは本当に美味しいのだ。私は正直嬉しかった。もう食べれないと思っていたから。


 その他にも野菜やらなんやらいっぱい貰ってしまった。元気でな、とおじさんが言うのを聞いて頷く。お父さんが、おじさんこそお元気で! とエンジンをかけながら言った。


 ゆっくりと車が動き始める。子供っぽいかと思いつつ手を振ると、おじさんはその黒い手で手を振り返してくれた。道路に乗って遠ざかっていくとき、おじさんは、少しだけ小さく見えた。

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