宿題

青海老ハルヤ

8月9日

 雨が降っていた。夏の夜。ぬるくて、柔らかで、それでいてどこか芯のあるような。雨粒は少し大きくて、傘にあたってバタバタと鳴らす。足を1歩前に出す度に、足の指の隙間を水がすり抜けて、舞う。


 塾の帰り道のことだった。もうとっくに町は藍色に染まり、人通りもほとんどない。時々、街灯の鋭い光が私を突き刺して通り過ぎていってしまうだけ。水滴が腕の体温を僅かに奪っていくのを感じる。丸っこい雨が体の中を柔らかく湿らしていく。急に自分が溶けてしまうような、むしろ大きくなっていくような、そんななにかが周りを囲っていく。私はすこし心細くなって足を早めた。


 夏とはいえ、少し肌寒い日だった。受験生だから、と今年の夏は自分でもびっくりするくらい勉強して、それが少し辛くなってくる、そんな日。


 カンカンカン、という高い音が、雨粒を避け、か細く聞こえた。車が水溜まりを轢く音で掻き消され、そしてまた途切れ途切れに聞こえる。藍が黄色を隠そうとして、覆いかぶさって、その僅かな隙間から黄色が指を覗かせる。そしてまた車の音で隠される。


 1つ角を曲がると音が強くなった。この踏切は1度鳴り出すととても長い。近くに駅があるからだ。電車が駅に止まっている間、踏切は延々ととおせんぼする。


 踏切は青に染まっていた。藍じゃない、もっともっと綺麗な青。多分LEDの原色そのままの色。藍色の中では赤よりも柔らかく暖かく目に映った。道に反射する光が、雨粒が落ちて揺れる。


 案の定、私が近づいても踏切はまだ開かなかった。カンカンカン、と今度は黄色が雨を潰している。赤い矢印は2本。爛々とそこに赤が光った。反対側にコンビニの明かりがぼんやりと見えた。


 カンカンカン――。ふと道の端を見ると、雨に濡れた花束が添えてあった。藍色が景色と間違えて一緒に塗ってしまったのかもしれない。くすんでいて、目立たず、ひっそりと萎れている。


 ここで自殺があった。


 誰かは知らない。理由も分からない。分かっているのは一つだけ。私と同い年の子だった、ということ。


 当時私は高一だった。その子も。その日も雨の日だった。部活に傘を忘れてしまい、土砂降りの中走って家に帰った。そこで親から聞いた。濡れるのも構わずスマホを取った。暑くなるのも構わずひたすら調べた。手が汗でベタベタしているのに気がつくのは、夕食で呼ばれた時だった。結局、分かったのは同い年だということと、踏切に彼女が立っていて、運転手が気がついて電車を止めようとしたが、間に合わなかった、ということだけ。


 私だけじゃなかった。高一の女の子が線路で自殺。話題性は十分。次の日にはトレンドに上がった。顔写真も上がって、その人が違う人だってことで別の問題が起きたらしい。その時にはもう、世間は彼女を忘れていた。今も覚えているのは、花を捧げた誰か――もしかしたら家族がしれない――と私だけかもしれない。


 ここで自殺があった。あったはずなのだ。顔も知らぬその少女は生きていて、そして、死んだのだ。私は忘れない、忘れられないと思う。


 駅の反対方向から電車が来た。色はよく見えない。コロコロという音が段々深く強くなっていく。とても速いはずなのに、何故かゆっくりと動いているように見える。


 近づいてくる。色のない色。無機質な四角い音。あの外灯よりも冷たい光。


 もし今私が3歩前に出たら死ぬ。


 くだらない、考えだと思う。私は別に死にたいわけじゃない。でも、


 ガタガタと何かが揺れる。心臓が締め付けられる。引き寄せられる、万有引力でも説明できない何かがある。ほら、こっちへおいで。大丈夫。すぐ終わるから。さあこっちへ。足を前に。手を出して。こっちへ来い。こっちへ。おい、こっちに――カンカンカン――


 ゴォー、という音と共に電車が通り過ぎて行った。地面の振動に足が震えた。窓から誰かが見ていた。赤い矢印の片方が消えていた。


 私は口をすぼめて静かに息を吐く。何を考えているんだ私は。死にたいなんて思ったことないじゃないか。まだ死にたくない。ああそうだ、死にたくない。


 あの声は自殺した彼女の声だったのだろうか。忘れられない理由は貴方の呪いなのですか。それとも試練なのですか。


 もうひとつの電車が来た。今度は変な気なんて起こしてやるもんか。お尻に力を入れた。爪が食い込むほど傘を握る手に力を込めた。


 振動が地面から伝わってきた。ゆっくりと駅から電車が出てくる。よし、大丈夫。私はまだ――


 誰かが線路の上で笑っている気がした。


 ――カンカンカン……。電車の通り過ぎていったそこには何の死体もなかった。心臓が今度は破裂するようだ。バーがゆっくりと上がった。私は久しぶりに本気で走って家に帰った。

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