1話-4 アインス/アンジュ

 スタートラインの一番外周に足を運ぶと、腕を組んで計測係をしている姫奈が頷いて満面の笑みをふっかけてきていることに気がつく。軽く手を振って、姫奈のリアクションを確認することなく前方を見据えて集中する。

「よーい……」

 教師の準備の合図から次の合図までが妙に長く感じられる。この一瞬で呼吸を整えて、足を軽く後ろに引く。

 

 ビーッ


 電子笛の合図から僅か〇・一秒だろうか、誰よりも早くスタートを切る。

「はっ……はっ……」

 余計なことは考えず、全く一定のリズムで呼吸し足を動かす。一周三百メートルのトラックなので、約三・三周となる。

 後方から必死にしがみつこうとする者が数人いた。おそらく陸上部あたりであろうか。しかし杏香にとっては全くどうでもいいことで、ペースを全く落とすことなく走り続ける。

 一週が終わった頃には既に後方と圧倒的な差がついており、最後尾の女子を追いかけるような形になる。

 一方その頃、姫奈は完全独走状態の一週毎のタイムを測っていた。正直一七〇秒は無茶振りなのはわかっているので、全く同様のペースであることを重視していた。

(一周目は五二・五秒。一七五秒前後で走り切るつもりかぁ)

 おそらく本人としては一八〇秒切るくらいで走りたいのだろうが、自分の要求を考えて一七五秒にしたのか、と分析しつつ測り続ける。二周目に差し掛かってもペースが落ちている気配は全くない。その様子を見て驚く教師の姿が容易に想像できるが想像するだけにして、杏香を目で追い続ける。

(……五二・七秒。大体同じペースだね。でも、〇・二秒のズレに杏香が気づいていないはずがない)

 事実、杏香は少し焦っていた。三周目のペースを計算し直し、百メート毎の自主計測に切り替える。

 一七・五秒

 一七・六秒

 一七・四秒

 杏香の計算通り五二・五秒で通過する。

 そして、最後の百メートル。

(……一七・三秒!)

「えっ……あ、二分五十五秒!」

 胸中でのタイムの叫びと教師の驚嘆声を含んだタイムの読み上げがかぶる。さっさとコース外に退避すると姫奈が水筒を持って近づいてくる。

「はい、おつかれさんっと」

 渡された水分で失っただけの水分を取り戻すと水筒を押し付ける。

「ふぅ……どうでした?」

 少しだけ息が上がっているが、あり得ないほど疲れているわけでもなかった。どうだったか、姫奈に尋ねるとサムズアップで返してきた。

「うん、ばっちり!かなりいい感じだったんじゃないかな」

 杏香はトラックの方に視線を送って苦笑する。

「……目立ちますね」

「あははっ!本気出すのやめよっかなぁ……」

「あー!それはずるいですよ!」

「なんで⁈」

 姫奈が急に弱気になると、杏香はズルイと明確に反論する。

「私が目立ったのは姫奈のせいなので貴女も目立ってください!」

「えーっ⁈イヤだよ!ただでさえ目立つのにぃ」

「だったら尚更、今更感じゃないですか!」

「気遣いができて才色兼備な氷嶺姫奈さんを浸透させるのよ〜!」

「雰囲気合ってませんから!それに色は怪しいです」

「言ったな〜!」

 言い争いをしていると足をトントンと聞こえるくらい鳴らす教師がこちらをジロっと見ている。

 申し訳なさそうに頭をぺこっと下げる姫奈と杏香は小声で責任の擦りつけあいをしたのであった。


 おおよそ第一陣の全員が終わると少し休憩に入るが、杏香は外野に、姫奈は既にスタートラインに立つ。姫奈が早くしろ言わんばかりの圧をクラスの皆にかけたおかげか皆ずらずらっと並ぶ。

 計測側と走者双方の準備が整ったことを確認すると、教師は手を上げる。

「位置について、よーい……」


 ビーッ


 その音とほぼ同時に飛び出したのはやはり、氷嶺姫奈だった。


「に、二分四十・八二秒……」

 またしても驚愕の表情教師と記録更新ですごいと素直に思っている杏香。そして――

「ぜーはー……そして……私、だ……」

「すっごい息上がってますね」

「最後無茶したわ」

「疲れが蓄積するのって本当だったんですね……」

「私の場合は脚力もあるからそれでね?」

 息を整えたら途端にケロッとし始めるのだから、やはり怪物であることを再認識した杏香だった。


 四限はこれにて終了、あとは休憩ということになった。

「杏香ー……あれ?先帰っちゃったかな」

 下駄箱で靴を履き替える姫奈は杏香を探していたが、どうやら既に教室に向かっていたようであることに気がつくと、やれやれと首を振った直後、異様な臭いがしたのだ。おそらく皆気づかないのは経験したことがないからで、姫奈にはわかるものだった。

(火薬……)

 気づけば姫奈は教室に駆け足で戻っていた。教室の中は和気藹々としていたが姫奈にとってはそんな時間を楽しむ間もない。着替えをしながら周りを見渡しても杏香がいないことに気がつくと、鞄を持って教室を飛び出す。

 首元の皮膚を掴むように厚手のタイツを下に引っ張ると、頸の当たりに緑に輝く小さい金属片のようなもの――『首輪チョーカー』が現れる。それを触ると赤く変化し、モードが切り替わる。

聞こえる?」

 頸に直接埋め込まれているので、声は喉の声帯の振動を直接拾う。神経デバイスという特性上、通信相手を指定するのは無意識に、相手からの音声情報は直接脳内に届く。

『ええ。気づきましたか?』

 アンジュと呼ばれる声の主は杏香だ。

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