1話-3 人間みんな今を生きてる
「準備運動で軽くランニングでもしとく?」
運動靴に履き替えると早速走る気満々の姫奈がそう提案する。
「ええ。やっといた方がいいでしょうね」
杏香は直ぐに提案を呑むと下駄箱に上履きを放り込んだ。
「うーん暑いねぇ……」
「思ってないでしょ」
「バレたか」
姫奈の下手な演技に杏香のツッコミが刺さる。とはいえ、親世代的には四月末でこの気温はやはり暑く感じるらしい。
本日の気温は二十七度。外に出ると春の日差しが矢となって刺さってくる今日。人が増えているのに、居住圏を増やそうと森林伐採を行えば自然破壊と言われて途方に暮れる。しかし、この温暖化の酷さをみていればこれ以上環境破壊をすることが人類絶滅へ直接の引き金になりそうになることくらい誰にでもわかることだったのだ。そんな矢先のバーンズインストーラーだ。もはや多少人権を無視しても高級人民を生み出せる可能性と、人口削減を同時に行える技術に縋らない理由が全くない。その結果がこの惨状なんだったら最早正しい道などどこにもないように姫奈には思えた。
「まぁ、人が減れば自然も増えて環境も徐々に戻ってくんじゃない?」
校庭のトラックを先ずは一周する間に軽いノリで物騒なことを言う姫奈に目を細めて半ばひくような反応を示す杏香。しかし、姫奈は構うことなく反論を続ける。
「地球環境のこと考えたら人間っていうのは絶滅するべきだと思うよ?だって害しか与えてないし」
杏香も馬鹿ではないので言っていることはよくわかるが、それでも極論だと思うのはやはり同族に対する防衛的思考の賜物か。それらしい反論ができない中、姫奈は笑みを浮かべる。
「とはいえ、百億人も人類は存在している。人類が滅亡しようと思ったら世界規模で自然災害が起きるか、人類全員が自殺するしかない。兵器を使ったら環境破壊になるからね。だから無理なんだよ」
杏香は姫奈の意見に少しばかりの反論をする。
「でも二一五〇年にピークを迎えてそれ以降は減少するって言われてますよ?」
「それ以降って何年後?」
「えっ……と」
食い気味に反論されたので微妙に圧倒されて言葉に詰まった。杏香には姫奈がどう反論するかがわかっていても、それでも耳を塞ぎたい自分がいることに気がついていた。
「百年後とか二百年後とか、一体何人生きていると思う?」
「っ……」
姫奈は少しだけ怒っている自分に驚いていた。ぶっちゃけ自分が言えた義理じゃないがこちら側の立場に立って考えてみれば見えることもあるのだということを痛感していたのである。
「今だよ。人間みんな今を生きてる。明日を迎えるために今を必死に生きてる。その手の知識人とか学者は杏香と同じようなことを言うんだろうけど、そんな人たちってみんな見下してるんだよ。今を生きるのに必死な人をさ」
杏香にもわかっていたが、やはり耳の痛い話ではあった。もう死別しているが父親も母親も学者だったからその辺の学問についての話はよく聞いていた。
「……まぁ、テロが起こってからなのかな。みんな今を大切にし始めたって感じるよ」
姫奈がボソッとそう呟いたのを聞き逃さなかった。
「皮肉ですね」
杏香のその言葉は、自分もテロの一件以降にそちら側の人になったことは理解できていたので自分にとって向けたものでもあった。
「ほんっと、そうだよね」
片時も視線を落とさず前を向いて微笑を浮かべながら一連の会話をしていた事実が、『ああ、本当に冷たい女』と思わせるほどに杏香を余計に恐怖させた。
その頃には一周し終わってジョギング程度に加速し始める。一人、また一人と同じく準備運動でジョギングを始める人が増えていく。自分達がこの空間からどこか浮いたような雰囲気になっていることに気づくこともないのだろうかと、杏香を見て思う。
(ホント、イヤな女だよね……)
そうは言ってもまったく自分を変える気はない。彼女の心は五年前から一度たりとも変わったことは無いのだった。
ビーっと電子笛がなると校庭にでた生徒が半ば駆け足で集結し始める。
「よーうし全員集まったね。じゃあこれから千メートル走始めるから二人でペア組んでー」
その指示がなされると姫奈はすぐさま杏香の肩を持つ。
「あっはい……」
姫奈の圧に思わずそう返す杏香であった。
「あ、姫奈ー!それに……げ、杏香ちゃん?」
近づいてくる茉奈が露骨にイヤそうな顔をする、というのも茉奈は杏香のとっつき難い性格が苦手で敬遠している。
「そんな嫌がることでもないんじゃない、茉奈さんよ?」
三咲が杏香に笑いかけると杏香も同じように返す。
「もしかしてあのお二方どっちも怖かったりして……?」
「ありえるありえる」
その様子をみていた茉奈と姫奈はヒソヒソと二人の見えない雷に怯える。
「なんの話ですか⁈」
「なんの話かな⁈」
二人から一斉反撃を受けて姫奈と茉奈が顔を見合わせて苦笑する。
「ほら怖いじゃん」
「うん……」
体育教師がパンパンと手を叩いて注目を促す。
「大方組めたみたいだからそろそろスタートラインに並んでねー」
指示を受けて、ゾロゾロと並び始める。
「どっちが先に行こうか?」
「私からで」
姫奈が杏香に尋ねると考える間も無くそう答える。
「りょーかいっと。あ、目標一七〇秒で。頑張って!」
「……はぁ。わかりましたよ。これからあなたと組む上で必要な身体能力かもしれませんしね」
「うんうん。そういうことさっ!」
そう送り出して踵を返す姫奈の背中を睨む。サラッと厳しいタイムを要求してきたことにイラッときながらも彼女なりの鼓舞の仕方であることは想像がつくので、ため息しか返せなかった。
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