四章――④
なんやこれ、と呟いたはずの言葉は、驚きのあまりはっきりした声にならなかった。
なぜ岩が光っているのか。しかし混乱しているのは壮悟だけで、榛弥はたいして驚いていない。那壬恵は静かに蜘蛛を見つめているし、千代壬は相変わらず首を垂れたまま微動だにしていなかった。
――まあ、その方が都合はええんやけど。
だが今は、そんなことよりも。
「え、なんでこんな光っとんの?」
「岩そのものが光ってるわけじゃないぞ。岩から正反対の位置を見てみろ」
指示された場所に目を向けてみるが、なんの変哲もない岩肌があるだけでなにもない。そう思っていたのだが、榛弥から「もう少し上だ」と視線を上げるよう促される。
「……あ」
「分かるか。一か所だけ穴が開いてるんだよ。あれが〝ジョロウさま〟の正体だ」
榛弥が再び蜘蛛が浮かぶ岩を見やり、つられるように壮悟も顔を向けた。白々と輝く姿は神秘的で、薄暗いこの空間ではかなり眩しく感じる。
「反対側の壁にある穴から朝日が差しこんで、岩の一点が蜘蛛の形に照らされる。これを発見したのが誰か、その日はいつか、という明確な記録はさすがに残っていなかったが、見つけたのは恐らく偶然だろう」
「けど、こんなんただ光が当たっとるだけやろ? それを正体や言われても……なんかピンと
「お前はそうかも知れないが、なにもないこの空間に一筋の光が差しこんでいるっていうのは、昔の人が奇跡と感じるに充分だろう」
光が差しこむのは限られた季節の限られた時間だけで、天候にも左右される。いついかなる時も拝めるとは限らない。
とはいえ初めからいきなり〝ジョロウさま〟として祀ったわけではないだろう、と榛弥は言う。
「もともとこのあたりでは〝ジョロウさま〟じゃない、別の神が祀られていたはずだ。けどある時をきっかけにこれが見つかって、いつしか〝ジョロウさま〟を祀るようになったんだな。妖怪としてのジョロウグモの伝説がいつどこで起こって、いつここにも伝えられたのか定かじゃないが、もともとの伝説と、岩に当たる光の姿から想像した――あるいは創造した話が組み合わさって〝ジョロウさま〟の昔話が出来上がった」
「まあ確かに、すごいなあとは思うわ」
壁に穴が開いているのも、光が差しこむのも、その結果蜘蛛の姿が浮かび上がるのも、全ては偶然に過ぎない。だがさほど信心深くない壮悟ですら驚いたのだから、これを初めて発見した者はより一層仰天したことだろう。
〝糸探し〟のあとに正式に〝花婿〟として認められるのにも、岩に浮かんだ姿を見られるか否かが関わってくるらしい。目にすることが出来れば〝ジョロウさま〟が認めた証、出来なければその反対という具合だ。
だから榛弥は夜が明けないうちに出て行ったのだ。
「じゃあそん時もこれ見れたん」
「ああ。そのあとは『〝ジョロウさま〟に認められたお祝いとして山頂のお屋敷でお食事を振る舞いますので、ぜひいらしてください』と千代壬さんに家まで連れていかれた」
そこで食事を済ませたあと、急な眠気に襲われたという。そうして眠っている間に、足に枷がはめられていたそうだ。
「……絶対それ変な薬とか入れられとったやろ……なんで普通に食うたんや」
「ここに来る前に、念のためと思って〝糸探し〟のルートに糸を引いてたんだ。僕がいないと分かれば、確実にお前らが捜しに来るだろうと思ったから。僕だって初めは岩だけ確認したら帰るつもりだったけど、ただでさえ自転車でここまで来るのに体力使ったのに、さらに山の中を歩いたんだぞ。空腹に負けるに決まってるだろ」
「あ、そ……」
「まあ今にして思えば、食事をさせたのはこの場に留まらせるための一種の儀式だった可能性があるが。感覚的に近いのは〝ヨモツヘグイ〟か」
「よも……なんて?」
「〝
岩に当たる光は徐々に薄くなっていく。いずれ幻のごとく消えるのだろう。
ざり、と音がしたのはその時だ。
「千代壬さん」と榛弥が驚いたような声を上げる。
呼びかけられても彼女は頭を上げようとしなかった。それだけ〝ジョロウさま〟に対する畏れの念が強いのだろう。だが榛弥から何度も呼びかけられ、ようやく鬱陶しそうに顔を上げた。
その両目が、薄暗がりでも分かるほどに見開かれる。
〝ジョロウさま〟の岩の前に、那壬恵ではない、別の女が立っていたからだ。
光に当たる姿は薄ぼんやりとして明瞭ではない。白衣に緋袴姿で、見た目としては〝舞姫〟の那壬恵に似ているが、金糸で飾りが施されているなど細部に違いがある。黒々とした髪は尻まで伸び、表情に乏しい顔の肌は青白い。
何者かなど問わずとも、千代壬には察しがついたのだろう。震える唇で呼んだ名は「ジョロウさま」だった。
女は緩やかに目を伏せ、じっと千代壬を見る。はくはくと口を動かしているが、声は聞こえてこない。
――まあ当然やけどな。
――実際、なんも言うとらへんのやし。
女の正体は〝ジョロウさま〟ではない。それに扮した美希だ。
髪が黒く長いのはコスプレでも使ったウィッグを被っているからで、まとっている白衣なども、もともとは那壬恵が着ていたそれだ。飾りなどはキャンプ場で美希と那壬恵の二人がかりで大急ぎでそれらしく見えるようつけたもので、まじまじ確認するとところどころ荒いのだが、暗いおかげで分かりにくい。
榛弥の驚いた演技と、この場がもたらす真実味、そして本人の信心深さが影響して、千代壬は美希を本物の〝ジョロウさま〟と信じて疑っていないようだ。
先々代〝舞姫〟だった千代壬は〝ジョロウさま〟の声を聞いていた、と那壬恵から説明されているが、現在の彼女は先ほどからずっと困惑したように体を震わせている。
『目の前に〝ジョロウさま〟が現れて、なにかを喋っているように見えるのに全く聞こえない。となると、高確率で混乱するはずだ』
キャンプ場で打ち合わせをしていた際、榛弥はそう予想を立てていた。あれは間違っていなかったようだ。
『ほんなら、あたしはなんも喋らんと適当に口動かしといたらええの?』
『まあな。ただ適当じゃなくて、あくまでなにか喋っている風に、な。表情も気をつけた方がいい。怒った表情を保ってほしいんだ。出来るか?』
『あんま演技の経験あらへんけど、それくらいやったら出来ると思う』
言われた通り、美希は顔をめいっぱいしかめて千代壬を睨んでいる。
縁起の経験がないと言っていた割に、なかなかの完成度だ。コスプレの撮影時には表情を作るはずで、それが活きているのだろう。
――問題はこっからやな。
「千代壬さん」と再び榛弥が呼びかける。「そこにいるのは、〝ジョロウさま〟なんですか」
「口を閉じなさい! 〝ジョロウさま〟がお言葉を述べている最中ですよ!」
「本当に? 僕らには声が聞こえないのですが」
よくもまあここまで堂々とできるものだ。思わず笑ってしまいそうになる。
「千代壬さんには〝ジョロウさま〟の声が聞こえているんですか。もしよろしければなんと仰っているのか、僕らにも聞かせていただけませんか」
「そ、それ、は……」
言い淀んだ千代壬のそばで「分かります」とか細く訴える声が上がる。
那壬恵だ。おずおずと前に出てきた孫に、千代壬がまた目を見開いた。
「なんですって。あなた、今なんと」
「わ、私には……〝ジョロウさま〟がなんと仰っているのか、分かるんです」
「そんな馬鹿な! あなたがお声を聞いたことなんて、今までに一度もなかったではありませんか!」
信じられないのではなく、信じたくないのかもしれない。〝ジョロウさま〟が目の前にいるというのに、千代壬は立ち上がって那壬恵に詰め寄ろうとした。壮悟は那壬恵が殴られたりしないよう、さり気なく二人の間に入っておく。
「今まで聞こえていなかったからと言って、今も聞こえていないとは限らないでしょう」
榛弥が口を挟むと、千代壬は首が取れそうな勢いで顔を向けていた。
「現〝舞姫〟は那壬恵さんですしね。なんの違和感もありません。ところで千代壬さん。改めて聞きますが、〝ジョロウさま〟は今なんと仰っているんですか」
「…………」
「なぜ答えていただけないのです? あなたはかつて〝舞姫〟として〝ジョロウさま〟の言葉を聞いていたそうですが。ああ、もしかして」
嘘だったんですか。
榛弥が決定的な言葉を口にするより先に、千代壬が「嘘ではありません!」と叫んだ。
「私は確かに、〝ジョロウさま〟のお声を、聞いて」
「でしたら、今は?」
「今、は……」
聞こえないとは言いたくないのだろう。千代壬はそこから続く一言を絶対に口にしない。
まあいいでしょう、と榛弥は那壬恵に目を向ける。壮悟の後ろで、彼女がごくりと息をのんだ気配がした。
「那壬恵さんには声が聞こえているそうですね。〝ジョロウさま〟は一体なんと?」
「…………」
〝ジョロウさま〟がなんと言っているかは、キャンプ場で事前に打ち合わせしたし、何度も練習した。
だがいざ口を開こうとすると、固唾をのむ祖母の視線が突き刺さって恐ろしいようだ。那壬恵はしばらくためらっていたが、ようやく吐き出された声は震えながらも自信に満ちていた。
「〝ジョロウさま〟は、この地から去ると仰っています」
「なんですって!」と千代壬が叫ぶのも構わず、那壬恵は必死に続ける。
「『神として数百年祀られたけれど、結局、人は一度も食えなかった。腹がじゅうぶんに満たされることもなく、もうここに留まる理由もない』と。『〝花婿〟の質の低下も著しく、それを改善しようとしない人々の怠惰さにも嫌気がさした』と仰っています」
「そんな! 私は〝ジョロウさま〟がご満足いただけるよう、常に最善を尽くしてきたのに!」
那壬恵から語られる言葉を、千代壬はもはや〝ジョロウさま〟のそれと信じ込んでいるようだ。光がさらに薄まり、ほぼ姿が見えなくなってきた〝ジョロウさま〟に向かって叫んでいる。
「『あれを最善などと、傲慢この上ない』」
「で、では……今年から! 今年から〝ジョロウさま〟にご納得いただけるように、」
「『もう遅い。機会はすでに過ぎた』」
「そんな……村は、どうなるのです? あなたさまの加護が無ければ、村はけっして繫栄しないのに!」
「『時代は変わった。加護がなくとも人々の営みは続き、繁栄はその手で掴めるものとなったであろう。人々の行く末を、私は以降、天から見守ることとしよう』……と」
岩と美希を照らしていた光は、那壬恵が言い終わると同時に完全に消えた。
きっと千代壬の目には、〝ジョロウさま〟が消滅したように映ったのだろう。間もなく崩れ落ちるように膝をつき、おおぉ、と声にならない絶叫を上げて涙を流していた。
その背中を、那壬恵がそっと撫でている。祖母を騙した罪悪感ゆえか、表情は苦し気だ。
どう声をかけていいものか分からず、壮悟は黙って見ていることしか出来ない。
どれだけの時間が過ぎただろうか。ここへの入り口からぼんやりと光が差し込み始めた頃、榛弥は那壬恵たちに近づいてなにやら声をかけてから、「出るぞ」と壮悟の肩を押してきた。
二人が歩く音にまぎれて、じっと気配を殺していた美希も一緒に外へ出る。暗闇にいたせいで目が光に慣れず、壮悟は何度も目をまたたいた。
「なあ、まだ中に那壬恵さんたち残っとるけど、ええの」
「放っておくしかない。あの状態の千代壬さんが歩けるとも思えないしな。本来なら今日が〝婚姻の儀〟の予定だったから、神社まで戻れば準備をするために誰かいるだろ。うまいこと説明つけて、様子を見に行ってもらうしかない」
いつまでもここに居たのでは滝の飛沫で濡れてしまう。来た道を歩きつつ、壮悟は胸に留まっていたもやもやを吐き出した。
「……来年から〝糸探し〟とか〝婚姻の儀〟とか、どうなんのやろ。〝ジョロウさま〟は天に帰りましたってことにしてしもたわけやし」
「確実に今までの形ではなくなると思う。ただ完全に消え去ったわけじゃなくて『天から見守ることにする』ってことにしたし、那壬恵さんも話し合いの時に『うまくまとめます』って言ってただろ。それを信じよう。支援してくれる氏子だって少なくないだろうからな」
「うー、でもあたしもちょっと罪悪感あるわー」
唇を尖らせる美希に、榛弥は「すまんな」と申し訳なさそうに謝った。
「那壬恵さんを〝舞姫〟から解放するには〝ジョロウさま〟を失くすしかなかった。美希がいてくれて助かったけど、余計な罪を背負わせたところは反省してる」
「ええよ、しゃーないもん。思いついたんは榛弥兄ちゃんやけど、それに賛成して乗っかったんはあたしらやもん。全員共犯や」
「そうか。ありがとう」
「とりあえず今は『うまいこといってよかった!』て思とこに。その方が気ぃ楽やし」
「ああ、そうだな」
那壬恵の今後などが気になるところではあるが、それよりも今は、これでやっと家に帰れるという安心感の方が強かった。壮悟は長く息を吐きだして、「ほんなら帰ろうや」と榛弥を振り返った瞬間、びくりと足を止める。
「な、な……」
「おい、急に立ち止まるな。危ないだろ」
「なに持ってんねん!」
榛弥の文句を聞き流し、壮悟は従兄が手に持っているそれを指さそうとして、やめた。
いつから携えていたのか、榛弥の右手には藁人形が握られていた。
恐らく千代壬が持っていたうちの一つだろう。なぜそんなものを持っているのかと早口で問いかけると、榛弥は見せつけるように壮悟の眼前に差し出してきた。
「人に呪いをかける定番のブツといったら藁人形だろ」
「それはなんとなく分かるわ。俺が聞きたいんは、那壬恵さんのばあちゃんが持っとったはずのもんをなんでハル兄が持っとるかってことで!」
「だってこれ、僕の髪が編みこまれているはずだから」
さらりと聞こえてきた一言に、壮悟と美希の表情が引きつった。
「ほら、藁をちょっと横によけると黒いのが見えるだろ」
「うわ、気色悪っ!」
「でも那壬恵さんのおばあちゃん、なんのためにそんなん作ったん?」
「足枷と同様、〝花婿〟や〝舞姫〟が逃亡した時の対策だろう。千代壬さんが持っていたもう一つは那壬恵さんの分のはずだ。どちらか、あるいは両方が役目を放棄して逃げると、罰としてこれに釘を打ちこむわけだな。僕がこれまでの記録を確認した限り、罰を受けた〝花婿〟や〝舞姫〟は何人かいた。その顛末は」
「ええわ。なんか聞かん方がええ気がする」
「あたしも」
確実に聞いていて楽しい話ではない。兄妹そろって話の続きを拒否すると、榛弥は残念そうな手つきで藁人形を撫でていた。
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