四章――③
水が岩に激しく当たる音がする。岩を伝う水の線は長い髪に似て、幾重もの段差を乗り越えて川に注いでいた。
境内からは音しか聞こえなかった滝が、今は壮悟の視線の先にある。
近くにいると涼しいし、出来ることならゆっくり眺めたり写真を撮ったりしたかったが、場の雰囲気がそれを許さない。スマホを取り出そうものなら、後ろを歩く千代壬から不快感と叱責を向けられるだろう。壮悟は大人しく前を行く榛弥の背中に視線を移して、つい数分前の光景を思い出した。
――那壬恵さんのばあちゃん、えらい怒っとったなあ。
――そらそうか。勝手に居らんようになったわけやし。
神社で那壬恵と向かい合った祖母――千代壬の荒れ方は凄まじかった。
聞く耳を持たない、とはああいうことを言うのだろう。那壬恵がいくら謝罪しようと「聞きたくありません」「言い訳はよろしい」と叫んでばかりで、炎で赤く照らされる顔は、まさしく鬼の形相だった。
いつ那壬恵に掴みかかったり、殴ってもおかしくなかったのだが、壮悟たちが寸前で庇い続けた。「言いたいだけ言えば少しは落ち着くだろうから、ひとまずそれを待つ」と榛弥が判断したためだ。
読みは当たっていたが、落ち着くまでに要した時間は想像より長かった。聞くに堪えない罵詈雑言を吐く千代壬に我慢が出来ず、壮悟が一度だけ反射的に言い返してしまったからである。
――あれは完全に余計やったな。
暴言がエスカレートした上、榛弥からは呆れたようにため息をつかれるし、散々である。どこかで様子を見ているはずの美希も、頭を抱えたに違いない。
「着いたぞ」
榛弥が滝のそばで足を止める。一部だけせり出した岩場は舞台のようにも見え、たまに飛沫が顔にかかった。
壮悟に続いて、後ろを歩いていた那壬恵、千代壬も順番に立ち止まる。
そういえばダイスケから「滝の岩の近くで、〝舞姫〟と〝花婿〟が並んで踊る」と聞いていた。もしかすると、ここはそのための場なのかもしれない。神社がある方向を見下ろすと、それなりの高さがあると気づいてしまい、一瞬だけ鳥肌が立つ。滝の影響で足場は濡れているし、転落防止の柵があるわけでもない。じゅうぶん注意していなければ、足を滑らせて転落するだろう。
どうにか高さを実感しないように、と視線を上げると、うっすらと白み始めた東の空が目に入った。
「おい壮悟。なにしてる」
榛弥の声に振り返ると、いつの間にか姿が見えなくなっている。那壬恵と千代壬もいない。どこへ行ったのかと呼びかけようとしたところで、岩の隙間から榛弥の顔がにょきっと覗いた。
「うわ、びっくりした」
「さっさと中に入れ。話が出来ないだろ」
「ちょ、ちょい待って」
いったいどこから顔を出したのか。滑らないよう細心の注意を払いながら岩肌に近づくと、一部だけ細長い穴が開いていた。まるで入り口を隠すように岩が重なっているため、正面から見たのではその存在に気づきにくい。
ここに入らなければいけないようだが、いかんせん狭い。真っすぐに入ろうとすると、まず肩が引っかかる。壮悟は体を横にして押しこむように中に入った。
どうにか通り抜けたものの、その先にあった空間は夜よりも暗い。唯一明かりを発しているのは、榛弥が点灯させたスマホのライトだけだ。壮悟もライトをつけ、ぐるりと周りを見回してみる。
「……おぉ」
入り口の狭さに反し、内部は意外にも広い。風通しは悪そうだが、滝が近いとあって涼しさを感じる。
中には那壬恵と千代壬もいた。先ほどの大喧嘩のあと、二人の間に会話はない。那壬恵はたまに千代壬の様子をうかがっているが、すぐに視線を外す。そのくり返しだ。
――まあ、あんだけ怒られたら怖いわなあ。
――それに。
壮悟はさりげなく千代壬の手元を照らす。
彼女が手に携えているのは、どう見ても藁人形だ。左右に一つずつ握り、よほど力をこめているのか、少しばかり形が歪んでいる。
神社で藁人形となると、壮悟が思い浮かべるのは〝丑の刻参り〟だ。
那壬恵は監視員の男に「騒ぎになるようなことはしないでほしい」と伝えていたし、彼はきっと千代壬にそれを伝えていたのだろう。ひとまず要求をのんで大々的に騒ぎ立てはしなかったものの、あのまま那壬恵が戻ってこなければ、藁人形を使ってなにかしでかすつもりだったのかもしれない。
――考えやんとこ。
悪い想像にぞっとしかけて、壮悟は頭を振って考えを消し、岩場の一点を見つめている榛弥に目を向けた。
「なんなん、ここ」
「〝糸探し〟で本物の糸を選び取った〝花婿〟を、真に〝花婿〟たりえるか見極めるための場所だ。そして〝ジョロウさま〟が現れる場所でもある」
千代壬の剣幕がひとまず落ち着いた頃、榛弥は彼女に「今から〝ジョロウさま〟のところまで行きますので、ついてきていただけますか」と有無を言わさぬ口調で訊ねる、というより命じた。
榛弥や、山から下りた那壬恵の禊が済んでいないと千代壬は断固拒否したが、あの時の榛弥の悪い顔を、壮悟は多分一生忘れない。
『禊が済んでいないというのが理由であれば、僕は一昨日の朝、その状態でここへ来ましたよ。あの時はなにも仰いませんでしたよね?』
ぐっと千代壬が言葉に詰まった隙に、榛弥はさっさと歩きだしていた。道は昨日、三人で慌てて駆け下りた拝殿裏のそこだ。
そのまま直進して例の家屋まで進むのかと思いきや、榛弥は途中で道を脇に逸れた。踏みしめられた形跡はあるものの、道と呼べるほどしっかりとした形はない。周囲には腰の高さほどまである草が生い茂っている。
どうにかそこを通り抜けて到着したのが、先ほどの岩場だ。一昨日の朝も来たと先ほど榛弥が言っていたし、だから那壬恵たちに先導されなくても、迷わずに歩いてこられたのか。
ふうん、と納得しかけて、ふいに疑問が頭をもたげる。
「待って。ハル兄、今なんて言うた?」
「〝花婿〟を見極めるための場所って言った」
「そのあとや」
壮悟の聞き間違いでなければ、「〝ジョロウさま〟が現れる場所」と言っていたはずだ。
――現れたとされる場所、みたいな言い方やなかった。
先ほどの言い方では、まるで〝ジョロウさま〟が実在していると言われている気になるのだが。
「ここは神聖な場所なのですよ。禊もなしに入っていい場所ではありません」
ぶつぶつと千代壬が文句を垂れる。ひとしきり怒鳴り散らして喉がかれたのか、声が少しがさついていた。
「那壬恵や〝花婿〟が入るだけならまだしも、そこの男は一切関係ないではありませんか。場がケガレてしまったらどうするんです。〝ジョロウさま〟だってお怒りになられるでしょう」
「大丈夫だと思いますよ。〝ジョロウさま〟が怒るとしたら、もっと別の理由でしょうから」
「なんですって?」
「いいえ、なんでも」
からかっているつもりはないはずだが、千代壬はそう受け取ったらしい。薄暗い中でも分かるほど、眉を吊り上げて榛弥を睨んでいた。ピリピリした緊迫感に、壮悟は言葉に詰まりながらも「なあ」と従兄に声をかける。
「さっき〝ジョロウさま〟が現れる場所て言うたやんか。え、なに? どういうこと? ここに居ったら〝ジョロウさま〟出てくんの?」
「まあな。ところで壮悟、お前は〝イワクラ〟って知ってるか?」
問いに問いを返され、しばし思考が停止した。どうにか我に返って考えてみるが、特に心当たりはないように思われる。
――いや、待てよ。
――イワクラって、どっかで聞いたような。
うーんと首を傾げると、不安そうに指を組んだり解いたりしている那壬恵の姿が目に入った。
――あ。
「思い出した。それ那壬恵さんの名字と違たっけ」
「正解。よく覚えていたな。偉いぞ」
「ガキ褒めるみたいな言い方すんなや」
不満を述べてみたものの、榛弥から特に反応はない。あっさり聞き流されたようだ。
「世界各地には大昔から精霊信仰――〝アニミズム信仰〟というのがある。八百万の神って言葉は聞いたことあるか?」
「あー。そのへんの石とか木ぃとか、そういうもんにも全部神さまが宿っとる、みたいな……」
「大まかな認識としてはそうだな」
「そういうのをアニミズム信仰っていうん?」
「ああ。そして日本の神道もこれに基づいている。〝
「……で、それと那壬恵さんの名字と、なんの関係があんねん」
「最後まで聞け」
榛弥から鋭い視線を向けられ、壮悟は軽く肩をすくめた。
「神奈備信仰を構成するうえで欠かせないものはいくつかある。神が降臨する目印として立てられる神木――〝
言いながら、榛弥が壁の近くをライトで照らす。
なにがあるのかと壮悟も同じ箇所を照らしてみた。
「なんてことを。無礼ですよ!」
血相を変えた千代壬が、明かりの先に立ちはだかる。
その間際に確認できたのは、ごつごつした見た目がどこか威圧的な岩だった。大きさは二メートルほどあるだろうか。
「ってことは、なに? あの岩に〝ジョロウさま〟が宿っとるってこと?」
「ああ。代々〝ジョロウさま〟に仕える那壬恵さんの一族は、わざわざ名字に〝磐座〟を使ってるんだ。だから〝ジョロウさま〟も無関係とは思えなくてな。那壬恵さんの家にいた時に調べた結果、僕の予想は正しかった」
千代壬がずっと岩を守るように立っているのも、〝ジョロウさま〟をぶしつけな視線から庇おうとしているからだろう。壮悟と榛弥がライトを逸らしてもなお、その場から動こうとしなかった。
「ああいうのってご神体とか言うんやんな。直接見てもええもんなん? なんか、こう、見たらあかんみたいなとこあったりするやんか」
「そうでもないぞ。直接見られるご神体はけっこうある。山そのものがご神体っていう例もあるから。奈良県の三輪山とか」
「へえ。……けどさ、なんでこんなとこにデカい岩あんの? 入り口とかめっちゃ狭かったやんか。外から持ってくるとか出来へんやろ」
「阿呆。あれは持ってきたんじゃない。元からここにある。まあ、もともとはただの壁だっただろうが」
「……は?」
「だから、削ったんだよ。岩に見えるような形に、な」
「……なんでそんなめんどくさいことすんの?」
壮悟の問いには答えず、榛弥は腕時計に目を落とす。
「そろそろか」
「なにが?」
「まあ見てろ」
誰もなにも言わない、しんとした時間が過ぎていく。物音を立てることさえはばかられる静寂だった。
榛弥は微笑んだまま、じっと岩を見ている。那壬恵も胸の前で手を組み、なにかを祈るように目を閉じていた。
どれだけの時間が過ぎただろう。岩の前に立っていた千代壬が、ふいに目を見開いたかと思うと、慌てた様子で横に退いた。
かと思うと、着物が汚れるのも構わずにその場に正座して、岩に向かい首を垂れる。
――なんや、いきなり。
千代壬の挙動不審さに壮悟が眉をひそめていると、つん、と榛弥に肩をつつかれた。榛弥はその指で「あれを見ろ」と岩を示す。
「……うん?」
初めはなにも感じなかった。違和感を覚えたのは、先ほどよりもはっきりと岩の凹凸を確認できると分かってからだ。
壮悟も榛弥も、ライトで岩を照らしていない。変化は微々たるものだが、それでも確かに、岩がある一点だけが明るくなっていく。
やがて見えてきたそれに、壮悟は目を見開いた。
「どうだ。蜘蛛に見えなくもないだろう?」
ふ、と榛弥が笑う。
少し歪ではあるけれど、岩の表面には確かに、頭を下にした蜘蛛の姿が浮かび上がっていた。
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