四章――②

 時は少しさかのぼる。

 ――空って、こんなに広いのだっけ。

 湯船につかりながら天を仰いで、那壬恵はしばしその青さに見惚れた。

「こっからの眺め最高やろー」

 白い歯を見せて覗きこんできたのは、柔らかな栗色の髪が特徴的な少女だ。

 名前は確か。

「美希さん」

「美希でええて言うたのに。那壬恵さんの方が年上なんやろし。いくつなんやっけ?」

「二十四歳です」

「やっぱり那壬恵さんのが年上や。あたし来月で十九歳になんねん」

 長い髪が邪魔にならないようタオルでまとめてから、美希は那壬恵の隣に座る。はー、と気持ちよさそうに吐息をこぼす姿は、どことなく愛らしかった。

 彼女は榛弥の従妹だと聞いている。言われてみれば、目元がよく似ていた。思わずじっと見つめていると、視線に気づいたのか、美希が大きな目をぱちぱちまたたく。

「どうしたん」

「あ、いえ。その、誰かとこうしてお風呂に入る、ということが、今まで無かったもので、なんだか新鮮で」

「そうなん?」

 那壬恵たちがいるのはホテルの露天風呂だ。二人以外にも何人か湯船につかっているが、その多くは恐らく宿泊客だろう。こんな朝から日帰り入浴を利用する者など、滅多にいないに違いない。

 美希は数日前もここを利用したという。彼女は海に近い側の縁までゆったり歩き、そこにもたれかかって那壬恵を手招いた。

 普段使用している風呂は、ここよりもずっと狭い。膝を抱えてすっぽりと収まれる程度だ。おっかなびっくり湯の中を歩いて近づくと、最後は美希が手を取って引き寄せてくれた。

「す、すみません」

「そんなすぐ謝らんといて。こういう時は『ありがとう』でええねん」

「あ……ありがとうございます」

「どういたしましてー」

 二人そろって縁に腕を突く。黒と白のまだら模様が美しい石はひんやり冷たく、湯で温められた肌に心地いい。

「あたしの住んどるとこやと、海とか全然見えへんねん」

「そうなんですか?」

「うん。県の上の方なんやけど、どこ向いても山しかあらへんみたいな田舎やでさ。ええよな、海が近いと。友だちと砂んとこで遊んだり、海水浴したり、楽しそうやん。那壬恵さんも海行ったりすんの?」

「いえ……ない、ですね。基本的に神社の敷地から出ることを許されていないので……」

「へえ、なんで?」

「ケガレてしまうから、と祖母にきつく言われていたものですから」

 世の中には様々な〝ケガレ〟が存在する。死が関係する〝黒不浄〟に、出産や月経が関わる〝赤不浄〟。どちらも聖域では敬遠されるものだ。

「ケガレは人から人に伝染うつります。学校などでは不特定多数の人が集まるでしょう。その中の誰が、どちらのケガレを抱えているか分かりませんよね。知らぬ間に触れてケガれると、〝ジョロウさま〟がお怒りになるから、と……」

「じゃあ『誰かとお風呂に入ったことない』っていうのも、そういう理由? 修学旅行とかやったらみんなで入ったりするやんか」

「……修学旅行……は、行ったこと、ない、です」

 小学生の頃も、中学生の頃も、祖母に「行ってはなりません」と止められた。

 それ以外の時だって、必要以上に周囲の人間と関わることは認められていなかった。話しかけてきてくれた子はいたけれど、ただの挨拶であろうと、祖母に露見すれば厳しく叱られる。それが恐ろしくて、口を閉ざしてやり過ごしているうちに、誰からも相手にされなくなった。

 祖母以外の他人と喋れるのは〝糸探し〟や〝婚姻の儀〟などの祭りがある時くらいだ。榛弥たちを初めて神社で迎えた際は、見覚えのない顔の来訪に驚いて自分から話しかけてしまったけれど、祖母が見ていたら間違いなく激昂していたはずだ。

 ――まさかあの時は、榛弥さんが暗号を解いて〝花婿〟になるだなんて、思っていなかった。

 ダイスケが白い糸を手に戻ってきたと聞いた時は、例年通り正式な資格のない者を〝花婿〟として扱うのだと思っていた。そのつもりで準備を進めていたところで、狂喜に頬を紅潮させた那壬恵の部屋に飛びこんできたのだ。

 ――やっと来ましたよ。

 ――あなたの〝花婿〟にふさわしい人が!

「そういえばさ、榛弥兄ちゃん〝花婿〟とかいうのに選ばれたんやろ? それってほんまに結婚したりするん」

「白い糸の時は、あくまで真似事です。でも、赤い糸を持ってきたときは……」

 本人の意思に関係なく、夫婦としての契りを結ぶ。

 那壬恵が飲みこんだ言葉を、美希は察したらしかった。眉間に深いしわが刻まれる。那壬恵は慌てて「で、でも」と顔の前で両手を振った。指先から飛んだ飛沫が水面に同心円を描く。

「現代でそれが難しいことは分かっています。榛弥さんの都合もあるでしょうし。ですから、その」

「事実婚とかいうやつ?」

「そう、なるんでしょうか」

 きっと祖母がどうにかするのだろう。具体的になにをするつもりなのか――するつもりだったのか、那壬恵には分からない。

「美希さんは〝ジョロウさま〟に関する昔話をご存知ですか」

「資料館でちょっとだけ読ませてもろたっていうか、聞かせてもろたよ。小学生が自由工作で作ったとかいうやつ」

「……あれは、私が作ったんです」

 すすんで作ったわけではない。〝ジョロウさま〟をもっとよく理解しなさい、と祖母に書かされたのだ。

 どれくらい覚えているかと訊ねると、美希はたまに思い出そうと悩むそぶりを見せながらも、内容をすらすら紡ぐ。那壬恵はその途中、〝ジョロウさま〟に食べ物を渡すことになった村人について語られ始めたところで美希を止めた。

「村人の特徴について、昔話では〝たいそう強くて気前がよく、頭のいい男〟と表されていますよね。〝花婿〟として求められるのも、そういう気質の方なんです」

「それで暗号あんな難しいん? あたし榛弥兄ちゃんに説明されやな絶対に分からへんかったもん」

「頭がいい、というのは、それだけ知識がある、ということですから」

「じゃあ〝強い〟っていうのは?」

「単純な腕力という意味だけではないと思います。病気をしないなど丈夫なことを〝体が強い〟と表現することもありますし」

「あー、そうやね。榛弥兄ちゃんが風邪ひいたとか聞いたことないわ。あとシンプルに柔道めっちゃ強いし。あ、でも」

「?」

「気前がええって、あれやろ? お金にケチケチせえへんってことやんね。それやったら榛弥兄ちゃん違うわ」

「そうなんですか?」

「うん。人を物でつる時はそうでもないんやけど、いきなり『これ買って』とか言うたらめっちゃ渋られんねん。嫌そうな顔してくるしな」

 実際の榛弥を真似たのか、美希は思いきり顔をしかめてみせた。

 堪えきれず、ふ、と那壬恵の口の端が緩む。

 ――ああ、いつぶりだろう。

 感情のままに笑うなんて、数年ぶりだ。祖母と話すときや〝舞姫〟として務めを果たすときは、基本的に真顔でいることしか許されない。

「那壬恵さんてさ、〝ジョロウさま〟がほんまにるって信じとるタイプ?」

 少しのぼせてきたのだろう。美希が顔を手で仰ぎながら訊ねてくる。

 露天風呂のそばには休憩用のベンチが設けられている。那壬恵は美希と並んでそこへ腰を下ろし、すっかり火照った己の頬を両手で包んだ。

「……信じている、つもりです」

「ってことは、信じてへんのやね」

「……きっと、本心では。だから、私は」

 ――〝ジョロウさま〟の声が聞こえないんです。

〝ジョロウさま〟から授けられた言葉を集まった村人たちに伝えるのがお告げだが、那壬恵は一度も言葉を受け取ったことがない。

 修行が足りない、と祖母からはくり返し滝に打たされた。〝ジョロウさま〟が降臨したとされる場所で、三日三晩、寝ずに祈りと舞と捧げ続けた時もあった。

 けれど、どれだけ努力をしても、心を無にしても、お告げは聞こえない。

「でも祖母は〝ジョロウさま〟がいると信じて疑っていません。母に〝舞姫〟を譲るまで、〝ジョロウさま〟の声も聞いていたんだそうです。お告げも、一つだけじゃなくて、何個もくださったんだって。それに比べて……」

 那壬恵の不出来さを責める祖母の声が、耳の奥できんきんと響く。

 祖母はたいてい不機嫌だけれど、特にこの時期、〝糸探し〟の前後になると荒れた。

 先代〝舞姫〟であった那壬恵の母が、ちょうどこれくらいの時期に失踪したからだ。

 ――〝ジョロウさま〟は役目を放棄したあなたの母親に、怒りを感じているんでしょう。だから娘のあなたは、それをひたすら鎮め、ただ無心で仕えて誠意を示す必要があります。そして〝ジョロウさま〟に、永久にこの地をお守りいただくのです。

「榛弥兄ちゃんたち待っとるやろし、そろそろ戻ろか」

 美希はぺたぺたと慣れた足取りで脱衣所に入っていく。那壬恵は滑らないよう足元に注意を配りつつ、背中を追いかけた。

 先ほど売店で美希が調達してくれたTシャツに袖を通す。白衣以外のものを身につけるのは中学を卒業して以来だ。どこか懐かしい感覚である。

 気がつくと、美希が横幅のある鏡の前に腰を下ろして、不思議な機械を頭の横に掲げている。なんですかそれ、と訊ねると、ドライヤーだと教えてくれた。髪を乾かすためのものらしく、使い方も説明してもらって、那壬恵も美希の隣に座り、見よう見真似で試した。

 初めは音と風の熱さに目を丸くした。驚きすぎて、危うく手からドライヤーが手から滑り落ちそうになる。どうにか寸前で手に力をこめ、落ち着いて髪から水気を飛ばしていった。

「……〝ジョロウさま〟は、存在しないのでしょうか」

 那壬恵がぽつりと呟くと、美希は「考え方は人それぞれと違う?」とドライヤーのスイッチを切った。髪はすっかり乾き、もとのふわふわさを取り戻している。

「居ると思たら居るやろし、居らへんと思たら居らへんやろ。〝ジョロウさま〟に限らんと、神さまとか仏さまとか、そういうもんやとあたしは思うけどな。あ、あれやで。別に神さま全然信じてへんとか、そういうことと違うで。神宮には毎年行くし、受験の時も天神さんのとこ神頼みしに行ったりしたし、初詣んときには神社もお寺も行くし」

「……ジングウ、とは」

「あ、知らへん? 天照大神のおひざ元」

 聞いたことのない神の名前だ。那壬恵は素直に首を横に振る。

「珍しいね。日本で一番有名な神さまやと思うけど」

「す、すみません」

「さっきも言うたやんか。そんなすぐ謝らんといて。今のはなんも悪いことあらへんのやし」

 美希は困ったように苦笑していたが、すぐに朗らかな笑顔を取り戻した。

「〝ジョロウさま〟とか天照大神のほかにもさ、神さまっていっぱいおるやん。〝八百万の神〟ってフレーズとか、定番やし。気になるんやったら榛弥兄ちゃんに聞いたらええと思うよ。あの人、そういうのやたら詳しいねん」

「そう、なんですか」

「うん。どっかの大学の准教授なんやって。なにが専門かはよう知らんけど」

「……昨日お祭りの資料をお持ちした際に、榛弥さんとは少しお話をしたんですが。とても知識の深い方だなとは感じました」

 書籍の扱い方も丁寧で、那壬恵の言葉に耳を傾ける姿勢も真剣そのものだった。足枷があって動きにくいだろうに文句も言わず、焦ることもなく、ずっと落ち着き払っていた姿が印象深い。

 ――この人が〝花婿〟になるのなら。

 誰がいつ、どの年に赤い糸を持ってくるか、那壬恵には知る由もない。自分よりはるかに年上で望まない相手だとしても、暗号の解読と、を満たした以上、祖母は「資格あり」と判断するだろう。

 けれど、榛弥だったら。

 ――夫婦になれと言われたら、私は受け入れていたかもしれない。

 どうしてそう感じるのか、自分でもいまいち分からない。なぜか胸の鼓動がいつもより速い気がするが、長時間湯につかっていたからだろうか。

「でも良かったわ」と美希は荷物を抱え、脱衣所から出ていく。「もしほんまに夫婦になっとったらさ、榛弥兄ちゃんだいぶややこしいことになっとったと思うもん」

「……ややこしいこと、ですか?」

「うん。榛弥兄ちゃん、ずっと付きうとる人居るからね。その人しか愛するつもりはないとか聞いたことあるし」

 美希がなにげなく続けたその一言に、那壬恵は言葉を失った。

 榛弥に抱いていたのが恋心で、そして一瞬で砕け散ったのだと知るのは、まだしばらく先の話だ。



「〝ジョロウさま〟の生贄は、いつ食べられるんだと思う?」

 榛弥から突然物騒な問いを投げかけられ、壮悟は手にしていたスマホを落としそうになった。行く先を照らしていた明かりが、ふらふらと不安定に揺れる。

「危ないぞ。ちゃんと下を照らしておかないと、石があった時につまづいて転ぶだろ」

「そう思うんやったら急に怖いこと聞いてくんなや! こちとら夜中に神社行く言うだけで冷や冷やしとんのに!」

「耳元で叫ぶな。やかましい。あと声は抑えめにな」

「……はいはい」

 はあ、とため息をついて、壮悟は大人しくスマホを持ち直した。ついでに時刻を確認すると、午前二時三十分と表示されている。

 もろもろの準備を終えてテントで仮眠をとったあと、壮悟たちは如瑯神社へ向かうことにした。現在はそこに至るまでの道を歩いているところである。

 夜空には雲一つなく、星が曇りのない輝きを放っている。青白い月は道に光を注いでいるが、それだけを頼りに坂道を進むのは心もとない。懐中電灯はホテルに返してしまったし、頼りになるのは壮悟と榛弥が持つスマホのライトだけだ。

 後ろを振り返ると、緊張した様子で那壬恵が顔をうつむけていた。最初は違和感のあったTシャツ姿だが、いつの間にか慣れている。

「ほんで、生贄がいつ食べられるか、やっけ? 〝ジョロウさま〟もおなか空いとるやろし、すぐに食べてまうんと違うの」

「残念。はずれだ」と榛弥が肩をすくめた。「正解は、〝花婿〟を娶った一年後とされている」

「……なんで?」

「お楽しみは最後に取っておきたいタイプってことだよ。〝ジョロウさま〟に捧げられるのは生贄のほかに食べ物や飲み物もあるし、初めはそれを食べておいて、一年間村を守ったところで、最後に自分へのご褒美として人間を食べる。ところで〝糸探し〟の前に拝殿でお払いが行われていたのは覚えてるか」

「ああ、うん。那壬恵さんが鈴持っとったやつな」

「あの時、拝殿でお祓いを受けていたのは去年選ばれた〝花婿〟だそうだ」

 ですよね、と榛弥から確認を向けられ、那壬恵は一拍遅れてからこっくりとうなずいた。

「あの時の儀式は、〝ジョロウさま〟に〝花婿〟を解放するよう頼むものなんだ。毎年一人ずつとはいえ、貴重な男手を食べられてしまうのは痛い。だから〝ジョロウさま〟に『〝花婿〟を返してください。そのかわり、新たな〝花婿〟を選んできます』と約束する」

「でもあん時、四人くらいおったやんか。一人は〝花婿〟やろけど、あとの三人は?」

「女の人は〝花婿〟の本当の妻で、残りの男二人は〝花婿〟の父と兄、でしたね?」

「は、はい。〝ジョロウさま〟に『この人はこれだけの人が必要としている』と示すことで、確実に解放していただくんです」

 もし〝ジョロウさま〟が認めなかった場合、即座に天候の急変や穀物の不作、疫病の流行など、あらゆる祟りに襲われるという。拝殿から出てくるときに男性が安堵していたのは、ひとまず祟りはなさそうだと感じたからだろう。

「けどな、楽しみにしていたものを直前で取り上げられるのは嫌だろう。また新たな〝花婿〟が大量の食べ物と一緒に捧げられて、今度こそはと思っても、また一年後に食べる直前で逃すんだ」

「そうやんなあ。俺やって嫌やし」

「人間でさえそう思うんだから、〝ジョロウさま〟もそう思わないわけがないよな」

 だから、突くならそこが最有力だ。

 榛弥の一言に、ごく、と那壬恵が喉を鳴らす音が聞こえた。

 やがて道の先に、神社の駐車場が見えてくる。橋を渡った先の境内には煌々とかがり火が焚かれ、薪の弾ける音が夜闇に響いていた。

 赤々と燃えるそれの手前には、憤怒に表情を歪めた那壬恵の祖母が立っていた。

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