四章――①

「先入観は思考を曇らせる。例えばとある映画があったとして、お前は周囲から『これはここが面白い』あるいは『これはここがつまらない』と聞かされていた。そうすると観に行く前からそういう思い込みを抱えてしまって、評価もそれに引っ張られてしまう」

「……いきなりなんの話?」

「暗号文の答えの話だ」

 壮悟は複数台並んだ洗濯機の一つに衣服を詰めこみ、スイッチを押してから振り返る。榛弥は机にもたれかかり、手にした紙に目を落としていた。例の暗号が書かれたものだ。

 壮悟が近くの椅子に腰を下ろすと、榛弥からそれを差し出される。

「洗濯から乾燥までどれくらいかかる?」

「一時間くらいとちゃうやろか。あんまりこういうの使つこたことないで、よう分からんけど。どうする? 待っとるあいだ暇やし、俺らも温泉行く?」

「近くにシャワー室があったから、僕はそれでいい。暇なら少し話に付き合え。聞きたいこととか言いたいことがあるんだろ」

「丸一日風呂入ってへんし、出来れば浸かりに行きたいねんけど……」

 まあええわ、と壮悟は紙をポケットにしまい込んで榛弥を見上げる。

 壮悟たちは現在、ホテルの近くで見かけたキャンプ場まで移動していた。

 山の中の日本家屋から逃亡する際、壮悟はそこに至るまでの道なき道を戻る羽目になるのかと思っていたのだが、那壬恵に案内されたのは、多少は通りやすいけれど遠回りになる別の道だった。そこを通るのは那壬恵と祖母以外、たまに整備に訪れる庭師だけだという。

 道は拝殿の裏側につながっており、その頃にはすっかり太陽も昇っていた。急いで美希が待機している場所まで走ると、ちょうど監視員の男がやってくるところだった。

 まさか那壬恵が下りてくるとは思っていなかったのだろう。彼は「どうしてここに」と驚愕した様子だったが、那壬恵に「また戻ってきますので、出来る限り騒ぎになるようなことはしないでください」と頼まれて、どこか仕方なさそうにうなずいていた。

「あれはどういう顔やったんやろ」

「神社の近くで生まれ育った人とか氏子なら、だいたい那壬恵が置かれている状況は知ってるはずだ。だから『逃げたくなっても当然』とは感じていたと思う。むしろ今までよく耐えたと思ったから、あっさり見逃してくれたんじゃないか?」

 言いながら、榛弥はたばこを取り出してくわえた。ちら、と目を向けられて、壮悟はため息をつきつつ「ここ禁煙やぞ」と諌言する。

「吸うんやったら喫煙所まで行け。近いとこにあったやろ」

「…………」

「なんやねん」

「いや、いつもみたいに『くさいから吸うな』とは言わないんだな、と」

「どうせ昨日から吸えてへんのやろ。やから、まあ、今は許したるわ」

「お気遣いどうも。すぐ戻る」

 軽い足取りで出ていく榛弥の背中を見送って、壮悟はぐったりと机に突っ伏した。

 最近のキャンプ場はずいぶん設備が整っている。まさかコインランドリーがあるとは思わなかった。といっても、街中でよく見かけるコンビニのような外観のものとは違い、屋根があるだけで壁はない簡素なものだ。しかしおかげで明日の着替えが確保できた。テントの貸し出しなども予約不要で当日申し込みが出来る、という点も、現在の壮悟たちにはありがたい。ホテルや旅館に比べれば安く済むからだ。

 美希は高校の頃までガールスカウトに参加していたため、毎年夏のキャンプでテントの組み立てを経験していた。彼女は壮悟と榛弥にてきぱきと指示を飛ばしながら二つ分のテントを設営し、現在は那壬恵を連れてホテルの日帰り温泉に出かけている。

 ――にしても、あいつのコミュ力すごかったな。どうなってんねん。

 那壬恵が来るのは想定外だっただろうし、車を運転している影響もあって初めこそ美希の口数は少なかった。だが、戸惑いっぱなしの彼女を見て考えが変わったらしい。少しでも気分を和らげてやろうと思ったのか、積極的に話しかけていた。

 ――まあ、おかげで那壬恵さんもちょっとは気ぃ楽になっとるみたいやったけど。

 キャンプ場に来る前にはコンビニに寄って朝食を購入したのだが、どれを選ぶべきか悩んでいる那壬恵に、美希は自分のおすすめをあれこれと説明していた。結果、那壬恵はエビマヨおにぎりと肉まんを選び、車の中でそれを食べた際には、強張り気味だった表情もいくらか和らいでいた。

「お待たせ」と榛弥が喫煙所から戻ってくる。「さて、じゃあ話の続きだが」

「あー、暗号の先入観がどうのってやつ」

「そう。お前が話を聞いた少年――ダイスケ、だったか。彼は『うしとらっていうスーパーがあった』とか言ってたんだよな」

「今は潰れてしもたらしいけどな。とりあえず、それがあった方向に進んでったら狛犬があるて言うとったけど」

「お前はそれ、どう思う?」

間違まちごうとるんやろな、とは」

 壮悟はダイスケから話を聞いて感じたことを、そのまま榛弥に説明した。

 やはり何度考えても、スーパーの名前をヒントに用いるとは思えない。〝花婿〟に選ばれたことを踏まえると、正しい暗号の解き方をしたのは榛弥に違いなかった。

「結論から言うと、お前が感じたことは正しい」

 榛弥は再び机にもたれかかって、ごうんごうんと音を立てる洗濯機を一瞥していた。

「この辺の奴らに伝わってる暗号の答えは誤りだ」

「けど不思議なんはさ、ダイスケは白い糸持って戻ってきたってことやねん。わざわざ間違うとる答えの方に糸用意しとくって、なんか……」

「間違った答えが知れ渡っているのを把握しているみたいだろう」

 壮悟が抱えていた違和感を、榛弥が的確に言葉にする。

「実際その通りなんだよ。那壬恵さんの祖母――千代壬ちよみさんは、地元の男子が暗号の間違った答えを知っていることを知っている。でも訂正はしてない」

「……なんで?」

「正解の方に赤い糸、間違いの方に白い糸を潜ませておいて、どちらを持ってきたかによって〝花婿〟にふさわしいのはどちらか、正確に見極めるためだろう」

 榛弥は山の家屋に留まっていた間、那壬恵に頼んで祭りに関する資料をいくつか見せてもらったそうだ。

 そこには〝花婿〟がどちらの糸を持ってきたのか、毎年きっちりと記録されているものもあった。榛弥はざっと五十年分さかのぼって確認したらしく、榛弥以前に赤い糸を選んで持ってきたのは二十五年前の〝花婿〟だけで、他はすべて白い糸を手にしていたという。

 つまり、それだけの人数が誤った解答に従っていたわけだ。

「他の人に答え教えたら祟りあるとか言うんは、もうこれ以上違う答えが広まらへんようにするためなんかな」

「いや、そうでもないと思う」と榛弥は即座に否定してくる。「僕は解けたけど、壮悟は暗号解けなかっただろ」

「うん、まあ」

「仮に毎年の参加者が、お前みたいな状態で一歩も動けず、糸を持って戻ってこなかったらどうする? 誰か一人が糸を見つけるまで仕切り直されるっていっても、八卦を正確に理解していない限り、答えにたどり着くのは難しい。延々とくり返したところで、体も脳も疲弊していく一方だ。けど祭りを進行するにあたって〝花婿〟は出来るだけ早く選ばなきゃならない」

「……やから間違っとってもええから、糸を持って戻ってきた奴を〝花婿〟に認定しとるってこと……?」

「そういうことだ。祟りだなんだって言われると、『本当にそんなものがあるのか』って試したくなる奴は一定数いる。結果、『なにもなかったじゃないか』ってさらに答えが広まる。そうなると、もう地元の奴で答えを正しい答えを導き出せる奴は限りなく少なくなっていくよな」

「まさか俺らみたいなよそ者が歓迎されたんって」

「先入観がないからだろうな」

 なるほど、と壮悟は手を打った。

「ただいまー!」

 朗らかな声に呼びかけられ、壮悟と榛弥はそちらに目を向ける。

 美希と那壬恵が温泉から戻ってきたのだ。汗臭くてイライラすると不満を述べていた美希は、すっきりとした笑顔を浮かべている。手をつながれている那壬恵はというと、照れくさそうに頬を染めて俯いていた。

 着ているのは先ほどまで来ていた白衣と緋袴ではなく、ラフなTシャツと動きやすそうなチノパンだ。シャツには近くにある世界遺産をシルエットで表した柄が入っている。街中で〝舞姫〟の姿をしていたのでは目立つだろうから、という理由で、美希がホテルの売店で調達したらしい。

「さっぱりしたわー。けど朝の露天風呂って意外と人んねんな。こないだとちごて温泉独り占めってわけにはいかんかったわ」

 美希は残念そうにため息をついて、那壬恵に椅子をすすめる。彼女はおずおずと壮悟の正面に腰を下ろした。

「温泉はいかがでしたか」

「は、はい。とても、気持ちよかったです」榛弥に訊ねられ、那壬恵はぱっと顔を上げて答える。「美希さんにも、たいへん良くしていただいて」

「ええねんて、気にせんといて。一人でのびのび入るんもええけど、誰かと喋りながら入るんも楽しかったし」

「懐中電灯は返してきてくれたか?」

 榛弥がコテージから持ち出した懐中電灯は、温泉に行くついでに美希が戻しに行ったのだ。もちろん、と美希はピースサインを見せつけてくる。

「あ、でも『自転車は……?』って顔されたで、うっかり忘れてしもたみたいな感じで『またあとで返しに来ます』て言うといたよ」

 借りっぱなしの自転車も返せたら良かったのだが、折り畳み式ではなく、壮悟の車に四人乗ると自転車を入れるスペースが作れない。榛弥の口ぶりではまた神社に戻ってくるようだったし、仕方なく置いて来るしかなかったのだ。

「そうか、悪かったな。僕の代わりに説明させてしまって」

「帰りにどっかのサービスエリア寄るやろし、そん時にアイスか唐揚げおごってくれたらええよ」

「分かった」

「どういう食べ物のチョイスやねん……」

 榛弥と約束を取り付けて、美希は愉快そうににこにこと笑っている。壮悟は頬杖をついてそれを見上げ、「ていうか」と榛弥に目を移した。

「ハル兄いつホテルから出てったん」

「三日目の深夜三時くらいかな。お前に車を出してもらえたら良かったんだが、そんな時間に起こすのも悪いだろう。だから前もって自転車を借りておいた」

「……なんでそんな時間に? 明るなってからじゃあかんかったん」

「僕が今年の〝花婿〟として真の資格を得るためには、赤い糸を見つけてくるだけじゃ駄目だったんでな」

「いや、全然答えになってへんのやけど」

「口で言うより見せた方が早い。明日の朝を楽しみにしておけ」

 壮悟が首を傾げ続ける前で、榛弥はどこかいたずらを企む少年のごとき笑みを浮かべていた。

 他にもスマホやパソコンを置いていった理由についても聞いたが、持っていくと没収される恐れがあったからだと言われた。取り上げられるだけならまだしも、最悪の場合は破壊されてしまう。そうならないよう、あらかじめ置いていくことを選んだそうだ。

 ――なんやろなあ。

 口には出さず、壮悟はじっと榛弥の横顔を見つめた。

 ――なんかハル兄、なにが起こるかちょいちょい分かったような感じするんやけど。

 気になる点は他にもある。榛弥のことだし、ちゃんと答えてくれるのか分からないけれど、訊ねるくらいはいいだろう。

「なあハル兄。家から出てくるときにさ、那壬恵さんに言うたやんか。『あなたを待っている人がいる』って。誰なん、それ」

「秘密」

「えー……」

「悪いな。本人の意向で、全部片付くまでは黙っておいてくれって言われてるんだ。その方が、那壬恵さんが混乱しないだろうから、と」

 それなら仕方ない、と素直に納得したくはないが、受け入れるしかない。壮悟は渋々「しゃーないな」と頭をかいた。

「ほんなら、準備がどうのって言うとったんは?」

 ――そん時に破滅とか、えらいやばそうな言葉も聞こえた気ぃしたけど。

 壮悟の問いに、榛弥は「説明してやるけど、その前に」と腕を組んだ。

「那壬恵さん。一つお聞きしたいことがあります」

「……なんでしょうか」

「あなたはあの場所で、これから先も〝舞姫〟として生活し続けたいですか?」

 山奥の秘された日本家屋で、自由に山から下りることを許されない暮らしを、祖母と二人でずっと。

 ダイスケから聞いた話によれば、お告げはここ数年当たっていなかった。祖母は恐らくそれが不満だったのだろう。今回、納得のいかない結果になれば、那壬恵を〝舞姫〟として見限ると言っていたはずだ。

「その際、あなたには次の〝舞姫〟を産むという新たな課題を背負うことになるでしょうし、果たしたとしても山から下りることは許されない。はっきり言いましょう。あなたにとっては普通かも知れませんが、僕からすれば、あなたが置かれている状況は異常です」

「…………」

「どうしますか。『続けたい』というのであれば、めません。あなただけを神社にお返しして、僕らは帰ります。ここに来ることは二度とないかも知れません」

「…………」

 那壬恵は太ももの上で手を重ねたまま、静かに目を伏せている。唇はきゅっと噛みしめられ、まるで答えることを怖がっているかのようだった。

「…………やです」

 どれだけ待っただろう。震えながら答えた那壬恵の双眸からは、大粒の涙が次々にあふれ出している。

「嫌です。もう、嫌なんです。〝舞姫〟も、ただ祖母に従うしかない自分も、全部」

「それが聞きたかった」に、と榛弥は満足そうに口の端を吊り上げた。「さて、では準備をしましょうか」

「な、なんの?」

「那壬恵さんを〝舞姫〟から解放するための、だ。そのためには、美希」

「ん? なに?」

 美希は一連の成り行きを黙って見守っていたが、榛弥に呼びかけられてきょとんと首を傾げた。

「今回の計画にはお前にも協力してもらう必要がある。大仕事だ。頼めるか?」

「ええよ。その代わり、奢ってくれんの唐揚げからステーキにランクアップ」

「いいだろう」

「ありがと。ほんで、あたしはなにしたらええの」

 どこかわくわくとした様子の美希に、榛弥は至極真面目な顔で告げる。

「お前には〝ジョロウさま〟になってもらう」

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