三章――⑤
「……なんや、ここ」
唖然としながら呟いて、足元の草を踏みしめながら進んでいく。
平屋建ての家屋の前には、さらさらと川が流れていた。覗きこめば、小魚の群れが顔の影に驚いたように一瞬で上流まで逃げる。
川には弓なりに沿った橋がかけられ、欄干は朱色に塗られていた。それを渡った先には枯山水の美しい庭が広がり、数秒おきに
「なんでこんなとこに家が」
壮悟は手のひらに握ったゴムに目を落とし、改めて家屋を見やる。
――ハル兄が「待ってるから」て言うた場所って、ここ、なんか?
恐る恐る家屋に近づいて、なんとなく壁の陰に身を隠す。ひたと耳をつけて物音がしないか確かめてみたが、特になにも聞こえない。
今は人が住んでいない放棄された家なのかとも思ったが、それにしては庭が整えられすぎている。穴から抜けた先の草むらも、歩くのに邪魔にならないよう均一に刈られていた。
――誰かここで暮らしとるか、別荘みたいな感じで使とるかって感じやろか。
問題は本当に榛弥がここに居るかどうか、だ。
ごめんくださいと大声で呼ばわれば、どこからか返事があるだろうか。しかしこんな時間に来訪するのは非常識極まりない。歓迎される確率はかなり低いだろう。やってきた家人に追い返されることもじゅうぶんあり得る。どうにか榛弥がいるか訊ねたとしても、そんな奴ここにはいないと言われるかもしれないし、それが噓か真か、今のままでは判断できない。
――やったらあかんていうのは分かるんやけど……。
庭に面した縁側の向こうには部屋がある。雨戸は閉まっておらず、乳白色の障子が目をひいた。
――鍵かかってへんやろし、勝手に上がるのは出来そうなんやよな。
そこまで考えて、壮悟は慌てて頭を振った。どう考えても不法侵入で、犯罪行為である。
いったん冷静になれ、と深呼吸をする。
美希には「なるべく早く戻れるようにする」と言ってしまったし、彼女が待つ場所にいつ昨日の監視員がやってくるか分からない。やはり迷惑を承知で、ここにいるかも知れない住人に話を聞くべきだろうか。
「……ほんなら玄関まで回った方がええよな……。さすがにこっから呼ぶんは……ん?」
ぶつぶつ呟いていると、ふいになにかが軋む音が聞こえてきた。
縁側からだ。雰囲気からして、誰かが歩いているようだ。足音の響き方から考えるに、一人だけだろう。少しずつ壮悟がいる方へ近づいてくる。
特に物音は立てていなかったはずだが、気配を感じたのだろうか。時すでに遅しかもしれないけれど、口元を手で覆って息をひそめる。
緊張のあまり心臓が早鐘を打つ。だが足音は壮悟のそばまで来ることなく途絶えた。続いて、「おはようございます」と覚えのある声が届く。
――女の人の声……那壬恵さんや。
足音の主の一人は那壬恵だったのだろうか。どうやら縁側から部屋にいる誰かに話しかけているらしい。
じっと聞き耳を立てて、壮悟の目が丸く見開かれる。
「朝食はいかがなさいますか」と訊ねる那壬恵に、「ええ、お願いします」と答えた声は、たった一日聞いていないだけなのにひどく懐かしく感じるそれだ。
――今のは。
――間違いない。ハル兄や。
考えるより先に体が動いていた。
壮悟は勢いよく家屋の影から飛び出す。先ほどまで閉まっていた障子は開かれ、縁側では緋袴姿の那壬恵が正座をしている。砂利を踏みしめる音に驚いたのか、彼女は髪を揺らして振りかえった。
肩越しに見えたのは畳敷きの部屋だ。布団の上で身を起こしている人物を認めた途端、壮悟の顔がぐにゃりと歪む。
――は。
「ハル兄っ!」
半ば倒れこみながら縁側に駆け寄って、壮悟は叫ぶように名前を呼んだ。
一方、呼ばれた張本人は「ああ」としか答えず、特に感動した様子もない。
「遅かったな」
「遅かったな違うわ! 急に居らんようになってどんだけ心配した思てんねん!」
「すまん」
謝罪の言葉を口にしている割に、どうにも悪びれる様子がない。
「あ、あの」那壬恵が声をかけてきたのは、壮悟が脱力して縁側に額を押しつけた時だった。「なんなんですか、あなた、いったい。どこから来られたんですか」
「僕が残した糸を辿ってきたんだと思いますよ」
困惑する那壬恵の疑問に答えたのは榛弥だった。布団から立ち上がり、ゆるゆると顔を上げた壮悟を見下ろしている。
「そうだろ?」
「……まあな。この時間やったら誰にも邪魔されへんやろ思て、いちかばちか……っていうか、ハル兄、なにその格好」
「なにって、浴衣」
「いやそれは分かんねんけど」
榛弥がまとっているのは真っ白な浴衣だ。だが日常生活を和装で送っているとは聞いた覚えがない。ここで提供されたのだろうか。
さらに壮悟が驚いたのは、肩の下あたりまであったはずの髪が、うなじが見えるほど短くなっていた点である。
「えっ、なんで髪あらへんの」
「禿げたみたいな言い方するな。昨日の朝に起きたら短くなってたんだよ」
「……勝手に切られたてこと?」
「そういうことだ。理由についてはおおかた想像つくけど」
「那壬恵?」
大声で名前を呼ばれ、那壬恵がびくりと体をすくませた。
今の声にも覚えがある。〝糸探し〟の際にもろもろの説明をした女性――那壬恵の祖母だ。姿は見えないが、どこか違う部屋にいるらしい。
「あっ、いけません」我に返ったのか、那壬恵は慌てた様子で壮悟の肩に触れる。「祖母がもうすぐここに来ます。ひとまず中へ。奥の襖を開けて、そこに隠れていてください」
「えっ、あ、はい。え?」
「急いで。祖母に見つかると大変なことになります」
焦った様子で促され、訳が分からないながらも壮悟は急いで靴を脱いで部屋に上がった。襖の柄にぎょっとしつつ、言われた通りの場所に身を隠す。
納戸と思しきそこは薄暗く、箪笥がところ狭しと置かれていた。少しばかり埃っぽく、深く息を吸いこむと噎せてしまいそうだ。どうにか咳きこむのを堪えていると、「なにか騒がしかったようですが」と那壬恵の祖母の声が聞こえてくる。
「すみません。改めてじっくり庭を見て、その素晴らしさに感動したもので、年柄にもなく少しはしゃいでしまいまして」
榛弥が流れるように適当な嘘をつく。顔には社交的な笑みが浮かんでいることだろう。
祖母はしばらく不審がっていたが、庭を褒められて悪い気はしなかったようだ。ひとまず信じることにしたらしい。やれやれと言いたげなため息をついていた。
「〝婚姻の儀〟はいつ行うんです?」
「明日の朝を予定しています。そのため今日は朝食ののち、滝に移動してケガレを落とすために禊を行っていただきます」
「一度だけ?」
「いいえ。今晩眠るまで、一時間おきに」
「ずいぶんと念入りですね」
「〝ジョロウさま〟にお認めいただくためです。那壬恵。あなたもです」
「……はい」
祖母の口調が厳しいものに変わる。心臓をきゅっと掴まれたような錯覚に陥るほど、冷たく強張った声音だ。
「今年こそ正確なお告げをしなさい。これまでのような失態はもう許されません。〝花婿〟の質の低下も一因でしょうが、あなたの修行の至らなさも〝ジョロウさま〟はお気に召していないはずです。分かっていますか」
「はい、おばあさま」
「まったく。あなたといい、ミキコといい、どうしてこうも不出来なのでしょう。もし今回もこれまでと同じような失敗をしてごらんなさい。私はあなたを見限って次の世代に託します」
「……で、では、私はここから出て行けと」
――ん?
気のせいだろうか。
祖母が来てから感情らしい感情のない声で応じていた那壬恵のそれが、わずかに震えたように感じた。
――怖い……とは、なんか違う気ぃすんねんけど。
「私はもう、ここにいてはいけないということでしょうか」
おずおずと訊ねる那壬恵に、祖母が返したのは嘲笑だった。
「なにを馬鹿なことを。〝舞姫〟としての役割は終わらせますが、あなたにはまだやらねばならないことがあるでしょう。次代の〝舞姫〟を産んでもらわねば困りますし、それまでもその後も、山から下りることを禁じます」
「……はい」
「当然でしょう。次代〝舞姫〟に関わる以上、穢れを持ちこまれては困りますからね」
それではお食事をお持ちしなさい、という指示を最後に、ぎしぎしと縁側の軋む音が遠ざかっていった。
「もういいぞ」と榛弥が襖を横に引く。壮悟はようやっと脱力し、崩れるように畳に両手をついた。
「寿命が十年くらい縮んだ気ぃするわ……」
「大げさだな」
「大げさ違うわ。妥当や」
話し声を聞きつけて祖母が戻ってきてはまずい。壮悟は出来るだけ声をひそめて、いそいそと榛弥に近づく。
「聞きたいこととか言いたいことは色々あるんやけど、とりあえず今からどうすんの。滝に行くとかなんとか、さっき言われとったやんか」
「〝婚姻の儀〟の詳細は気になるところだが、お前が迎えに来たことだし、いったん出ていく。那壬恵さんを連れてな」
「え?」
驚いたのは壮悟だけではない。聞かされていなかったのか、那壬恵もきょとんと目をまたたいている。
「なんで那壬恵さんまで?」
「そういう約束をしてるから」
「……誰と? 那壬恵さんと?」
壮悟が目を向けてみるが、那壬恵は心当たりがなさそうに首を左右に振っていた。
「詳しいことはまたあとで話してやる。美希は?」
「神社まで来る道の近くに車停めたで、そこで待たせとるけど……」
「好都合」と榛弥は満足げにうなずく。ふとその足元を見て、壮悟は瞠目した。
「ハル兄、その、足についてんの、なに」
榛弥の右足首には、鉄と思しき重そうな輪がはめられている。そこから伸びた鎖は柱につながれていた。部屋の中くらいなら自由に歩き回れそうだが、じゃらじゃらと音が鳴ってうるさそうだ。
「ああ、これか。簡単に言えば枷だな」
「なんでそんなんついてんねん!」
「先代が失踪したことを踏まえての逃亡対策だろ。寝てる間につけられていた。用意がいいよな。ちょっとこれは予想してなかった」
「……なんて?」
「さて、じゃあ行くぞ。美希を待たせるわけにもいかないし。那壬恵さん、これの鍵はお持ちですか?」
榛弥が足枷を指さして訊ねると、那壬恵は一瞬だけぽかんとして、すぐに「は、はい」と袂から小さな鍵を取り出す。榛弥はそれを受け取るとあっさり枷を外し、重みのなくなった足首をぐるりと回していた。
他にも没収されていた荷物だとか、着替えだとか、榛弥は那壬恵に頼んで部屋まで持って来てもらっている。元のTシャツに着替え直しているあいだ、壮悟は襖に描かれている絵をまじまじと眺めていた。
「えらい不気味な絵ぇやな……」
「ああ、それか。別に動き出すわけじゃないし、慣れればどうってことないぞ」
「俺は無理やわ……なんやねん、体は蜘蛛やのに顔は人間の女の人て」
「そりゃそうだろ。そこに描いてあるのジョロウグモ――というかここでいうところの〝ジョロウさま〟だから」
昔話のワンシーンを描いたものなのだろう。美しい女の顔をしたジョロウグモは、黒々とした長髪を風におどらせて糸を吐き出している。らんらんと見開かれたまなこは今にも動き出しそうなほどリアルで、反射的に視線をそらすと、もう一つの襖が視界に入った。
先ほどまで壮悟が隠れていた納戸につながるそこには、那壬恵によく似た袴姿の女が、男と手を取り合って艶やかに微笑んでいる。しかしよく見ると足元は人間のそれではなく、裾から虫の足が覗いていた。
「……どっちにしても気色悪いわ……ほんで足つながれた状態で寝たりしとったん? ハル兄の神経どうなってんねん」
「褒め言葉として受け取っておく」
ふふん、となぜか自慢げに胸を張った榛弥は、着替えを終えてリュックを背負っていた。
いつまた祖母が戻ってくるか分からない。出ていくのなら今のうちだろう。壮悟と榛弥はそろって音もなく庭に降りたが、那壬恵はためらうように縁側で立ちすくんでいる。
ダイスケから聞いた話に間違いが無ければ、那壬恵は中学を卒業してからずっと山から下りていない。榛弥は「連れていく」と言っていたし、麓まで下りることに戸惑いがあってもおかしくはなかった。
早くしないと、と壮悟が足踏みをする前で、榛弥は落ち着いた笑みを唇に乗せ、那壬恵にそっと手を差し出した。
「行きましょう。あなたを待っている人がいますから」
「……でも、儀式が、まだ……それに祖母も」
「安心してください。言ったでしょう。『いったん出ていく』と。二度と戻ってこないわけではありません。ただ、準備をしたくて。それにはあなたの協力が必要不可欠です」
「…………」
「お手伝いいただけますか。結果待っているのが、破滅か幸福か、僕にもまだ判断できませんが」
「…………」
那壬恵はぐっと唇を噛み、襟元を両手で握りしめる。
迷う時間は、それほど長くなかった。
はい、と。
か細い声で答えて、彼女は榛弥の手を取った。
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