三章――④

 車から降りて、壮悟は肺いっぱいに朝の空気を吸いこんだ。

 空はまだ薄暗いが、地平線に近い部分は橙色に染まりつつある。太陽が顔を出すのも間もなくだろう。

 視線を前方に移すと、如瑯神社に続く道が目に入った。木製の柵はまだ置かれたままだが、監視員はいない。柵もしっかり固定されている様子はなく、指をひっかけてみると、重みはあったもののすんなり動く。

「……よし」

 問題ない、とうなずいて、壮悟は後方を振り返った。

 そこにあるのは自分の愛車だ。運転席でハンドルを握るのは美希である。

 その表情は不安そうだが、壮悟を心配しているわけではなく、ここに一人で取り残される心細さゆえだろう。だが万が一を考えると待機していてもらうしかない。それは妹もよく分かっているはずだ。

 なるべく早く戻れるようにする、と口の動きだけで伝えて、改めて前を見すえる。

 ――行くか。

 躊躇っている時間はない。壮悟は柵をずらして通れる幅を作り、坂道を駆けあがっていった。


「『待ってるから』て、どういうこと?」

 茉莉との通話を終えて、壮悟は美希にも伝言を教えてやった。

「分からへん。けど、なんも意味がないとは思えへんやろ」

「まあ、それは……。でも色々よう分からへんやんか。『待ってる』ってどこで?」

「……俺らが全然想像出来へん場所ってことはないんと違うやろか」

 ひとまずコンビニに長時間駐車しているわけにはいかない。壮悟は美希に車中泊を許可している施設が近場にないか調べさせつつ、アクセルを踏んだ。

「ハル兄が行きそうなんは、資料館と神社。けど資料館の方は外れやった」

「ってことは、やっぱり神社の方なんかなあ」

 しかしこちらはたどり着く前に追い返されてしまったため、そもそもまともに確認できていない。

「それにさ、榛弥兄ちゃんが行きそうなとこばっか考えとるけど、そんなん関係なくて、事故とか事件とか、そういうのに巻きこまれとるパターンもあるわけやん? お兄ちゃんもさっき茉莉ちゃんに言うとったやん、『警察に相談した方がええか』って。あたし、それ賛成やわ」

 壮悟も美希が挙げた可能性を考えていなかったわけではない。榛弥がなにかしら明確な意図を持って行動していたとしても、不測の事態は起こりえる。

 しかし、だ。

「ハル兄は階段から突き落とされてもピンピンしとるような男やぞ。変な奴に襲われたとしても、平気な顔して避けたり、背負い投げとかしてそうや」

「階段から突き落とされたって、なにそれ」

「あれ、言うてなかったっけ」

 榛弥は春ごろ、仕事の帰りに駅の階段から転落している。背後から突き飛ばされたからだ。全身の強打などが心配されたが、実際の怪我はすり傷程度で、それも二日程度で完治している。本人は「受け身が取れたから」と言っていたが、壮悟であれば骨が一、二本折れていてもおかしくない。

 思いがけず従兄の衝撃エピソードを聞いて、美希がしばらく固まった。復活したのは、壮悟が肩を揺すってやってからだった。

「まあそういうわけで、俺はハル兄が事故やらなんやらに巻き込まれとるとは思わへんねんけど」

「薄っぺらい根拠やわあ」

「やかましい」

「ほんならなに? やっぱり神社のほうも見に行くん?」

「『待ってる』んやったら、そこが一番確率高いやろ。〝花婿〟に選ばれたとかも聞いとるしな」

「でもあそこ行く道んとこ通れへんようになっとったやんか。どうすんの。それにダイスケって子みたいに、神社に着いたとこでそこでも追い返されたら意味ないやん」

「〝婚姻の儀〟の準備がどんなんか知らへんけど、いくらなんでも一晩中ずっと準備しとるってわけと違うやろ」

〝糸探し〟と比較していいものか分からないけれど、あの時は前日の午前にすでに準備が済んでいた。道の入り口で述べられた理由だって、来訪を拒むための方便だったかもしれないのだ。

「え、じゃあなに? まさか今から行くとか言わへんよね」

「さすがにそれはない」恐る恐る訊ねてきた美希に、壮悟は首を横に振って否定した。「日ぃ落ちたら真っ暗やしな。懐中電灯も持ってへんし、それで探し回るんはちょっとキツイ。やから、朝――ていうか、明け方やな。それくらいの時間やったら神社にも人居らへんやろで、邪魔すんなって追い返されへんやろ」

「そうやろけど……なんか悪いことしとる気分やなあ……」

「なんでやねん。なんも悪いことあるか。こっちはハル兄見つけて、さっさと家帰りたいだけや」

 美希は警察に相談すべきという意見を変えていない。茉莉も「様子を見てはどうか」と言っていたことだし、妥協点として、ひとまず神社を探しても見つからなければ相談しよう、と提案すると、渋々うなずいてもらえた。

 道はまだふさがれているかもしれない。柵をどかして車で侵入すると、あとから神社に来る者、例えば壮悟たちを追い返した監視員がそれを目にすれば、「なぜ柵がどけられているのか」と不審がるだろう。

 となると、車で直接向かうのはいささか危険だ。徒歩が無難だろう。そのためには車を置いていかなければならないが、いくらひと気のない山の中とは言え、無人のそれを放置していくのは気が引ける。

「やから美希、お前は車ん中残れ。ハル兄は俺一人で捜す」

「は? なんで!」

「あんなとこに車残して、誰かに盗まれたら困るから以外になにがあんねん」

 愛車は壮悟が就職していた頃の給料をつぎ込んで手に入れたものだ。盗難や破壊などという最悪の事態は出来るだけ避けたい。

「誰か来たら『なんも知りませんよ』って顔して、車移動させてほしい。そのまま帰んなよ。ちゃんと戻ってきてもらわんと、歩いて山の下まで下りなあかんようになってまうから」

「けど一人で待つん嫌や。それこそ襲われたらどうすんねん。榛弥兄ちゃんと違うんやし、返り討ちとか出来へんよ」

「ほんならお前が一人でハル兄捜しに行くか?」

 明け方で人影のない神社を、たった一人で。

 いざ想像して怖くなったのだろう。美希は「車ん中おるわ」とすぐに手のひらを返した。

 壮悟の予想が外れて、準備が一晩中行われていた場合は、また別の行動をとらなければいけない。その時はその時で考えることにして、壮悟たちは道の駅で仮眠をとったのだった。


 境内には川の流れる音と、スズメやカラスの鳴き声だけが響いている。

 壮悟は石碑の前で息を整えて、ぐるりと周囲を見回した。

 ――良かった。誰もらへんくて。

 監視員がいなくても、ここには誰かいるかもしれない。内心びくびくしながら赴いたのだが、さすがに空が明けきらない時間とあって、壮悟以外の人間の気配はなかった。

 社務所を覗いてみても、やはり誰もいない。続いて拝殿にも足を運んだが、いたのは木の実をついばむ名前を知らない鳥だけだった。

「……ハル兄、居らへんな」

 腰に手を当てて肩を落とし、壮悟は落胆する。

「待ってるから」と言った以上、恐らく榛弥はどこにも移動していないはずだ。だが候補であった資料館にも神社にもいないとなると、いよいよお手上げである。他に榛弥が行きそうな場所は思いつかない。

「どうせやったら、待っとる場所も伝えてってくれたらよかっ――」

 よかったのに、と愚痴をこぼしかけて、壮悟はふと言葉を飲みこんだ。

 目に入ったのは百度石だ。八角形のそれの上部に刻まれているのは〝八卦〟だと榛弥から教えてもらっている。

 なんとなくそれに近づいて、壮悟ははっとした。

 ――そういえばハル兄は、いつ自分が〝花婿〟に決まったて分かったんやろ。

〝糸探し〟に参加する際、壮悟たちは紙に氏名と年齢、住所を記入したが、連絡先を書きこんだ記憶はない。

 だとすると、暗号を解いて赤い糸を見つけた時に告げられたのだろうか。けれど榛弥の性格を考えると、胸を張って自慢げに報告してくるはずだ。しかし〝糸探し〟以降にそんな素振りはなかったように思う。

 ――そういえば、ダイスケに「〝花婿〟が変わった」て連絡があったん、昨日やったよな。

 ――ってことは、〝糸探し〟があった日ぃの夜まではダイスケが〝花婿〟やったはず。

 じいっと百度石を見下ろしながら考えるうちに、壮悟の脳裏に暗号の意味について教えてくれた榛弥の声がよみがえる。

 あの時、榛弥は意味だけでなく、それに従って進んだ先になにがあったのかも説明してくれた。

 ――起点は石碑がある位置だな。あそこから北東にまっすぐに進めって指示してるわけだ。

「……石碑……」

 ぽつりと呟いて、壮悟はまるで引き寄せられるように、参道を下って再びそれの前に立つ。

 まさか、とひらめいたのは、その瞬間だった。

 ――ハル兄が待っとる場所はここやなくて、赤い糸の束見つけたとこやったりする、んか?

 直感のままに、壮悟は先ほど見たばかりの百度石を思い返して、〝艮〟が刻まれていた方向に視線を向ける。

「……あ」

 目に入ったのは、一台の自転車だ。

 それは橋を渡った先、駐車場の隅にひっそり置かれていた。

 車体は黒く、草むらと木の陰に隠されるように停められていたため、存在感は限りなく薄い。慌てて駆け寄ったその車体には、昨日まで宿泊していたホテルの名前のシールが貼られている。

 これがここにあるということは、間違いなく榛弥はここに来ていたのだ。確信を得た興奮のあまり、壮悟の腕に鳥肌が立つ。

 ささやかな風に揺すられて、さわさわと枝葉が音を立てる。壮悟は前方を見すえ、ごくりと喉を鳴らした。

 ――こっから狛犬が置いてあるとこまで進んでけばええんかな。

 もし予想が違えば、壮悟が思う場所に榛弥はいない。時間と労力の無駄になる。だが他にピンとくる場所が無いのも事実だ。いちかばちか、確かめるほかない。

 だが、先ほどより明るくなってきたとはいえ、空はまだ薄暗い。山の中ならなおさらだ。方向を見失ってさまよえば、次に行方不明者として捜されるのは壮悟になる。

 視界の端でなにかがきらめいたのは、踏み出すべきか悩んでうなだれた時だった。

「なんや、これ」

 自転車のハンドル部分に、細いものが巻きついている。色は赤く、わずかに光沢があった。

「もしかして」

 榛弥が持っていた赤い糸ではないだろうか。

 よく見ると糸はピンと張られ、山の中に続いている。まるで「これを辿ってこい」と言わんばかりに。

「…………行くしかないな」

 意を決し、壮悟は右手で糸に触れながら足を踏み出した。

 道らしい道はなく、足元は雑草が生い茂っている。たまに不意打ちのようにごつごつした岩が現れ、足の踏み場が悪いとすぐにバランスを崩した。だからといって糸を引っ張ると千切れてしまうし、手がかりを失くすことにもなる。

 嫌な緊張感で背中に汗をかきながら、壮悟がどうにか目的のものを見つけた。

「狛犬……これか」

 大きさは二メートルほどあるだろうか。榛弥が言っていた通り、それは周囲の風景に同化していて見つけにくかった。

 赤い糸は一対の狛犬のうち、口を開けている〝阿形あぎょう〟の足に巻き付けられていた。そのそばには見覚えのあるものも置かれている。

 ――ハル兄の腕時計や。

 初日に暗号の答えを教えてもらったあと、壮悟たちの部屋に忘れていったそれを届けたために覚えていた。手にした際の重みも記憶に新しい。どうしてこれがここに、だなんて、もはや考える間でもない。

 糸はさらに続いている。壮悟は逸る気持ちを抑え、ひたすら山を進んだ。

 次に進むのは北西で、その先にあるのは岩に浮き彫りにされているという馬だ。徐々に厳しくなる傾斜に息が荒くなってきた頃、ようやく到着した。

 榛弥が言っていた通り、岩を掘って作ったと思えないほど精巧な馬だ。糸は耳にくくりつけられている。ともに引っかかっているのは、榛弥の髪を結んでいたゴムだ。茉莉からの贈り物だというそれにつけられた赤い玉が、わずかな光を受け止めてきらきら輝く。

 ぐっと手のひらでそれを掴み、力を振り絞ってさらに山を登る。

 待ち受けていたのはむき出しの山肌と、そのそばで訪問者を待つ亀の置物だ。大きさは狛犬より一回り小さいくらいだろうか。糸は首にまきつけられ、ここから先には続いていない。台座の下には、この場には不似合いなものが置きっぱなしにされている。

 懐中電灯だ。ホテルの部屋にあったもので、側面には黒いペンでホテルの名前と、部屋の番号が書かれている。

 ひゅう、と冷たい風が頬を撫でる。それは山肌に開いた穴の向こうから届けられていた。

 もう迷いはない。壮悟はためらうことなく、穴の中に体を滑りこませた。

 両側の壁は岩がむき出しになっており、慎重に進まなければ怪我をしてしまいそうだ。壮悟の身長では頭上にも気をつけなければならず、うっかり背筋を伸ばすと鈍く重い痛みを味わうことになる。

 穴の長さは二十メートルほどだろうか。意外に長いし、おまけに暗い。

 どうにかそれに耐えながら、壮悟はようやく穴から出た。

「……は?」

 呆けた声がこぼれる。

 進んだ先にあったのは、こじんまりとしながらも趣のある日本家屋だった。

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