三章――①
「あれやろか」と美希が指さしたのは、道路を挟んで反対側にある建物だった。
近づいてみると、石製の門には確かに「資料館」と彫られている。平屋建てのそこは、雰囲気としてはなんとなく昔の学校か塾に似ていた。
人の気配はない。しかし資料館の入り口は閉ざされておらず、開放時間を記したのれんがひらひらと風に揺られている。
「とりあえず中入ってみるか。誰か
壮悟が歩きはじめると、美希もちょこちょこと後ろからついてきた。
のれんをくぐってまず目に入ったのは長い廊下だ。南に面した窓からたっぷりと光が取り入れられ、北側にはずらりと部屋が並んでいる。
「……意外と広いんやな」
「最近作られたってわけやなさそうやね。天井のとこ、ちょいちょい黒ずんどるよ」
「雨漏りでもしたん
下駄箱のそばにはスリッパが用意されている。履き替えて廊下を踏むと、ぎし、と軋む音が響いた。底が抜けてしまうのではないか、と壮悟は内心冷や冷やした。
手前にあった部屋は、どうやら管理人室らしかった。四畳ほどのそこでは扇風機が生ぬるい風をかき回し、昭和の歌謡曲を流すラジオがつけっぱなしにされているが、人影はない。
「けど一応、誰かは居るっぽいな」
「出かけるんやったらラジオとか全部止めてくもんね。大きい声で呼んでみる?」
そうしてくれ、と答える代わりにうなずくと、美希がさっそく「すみませーん!」と声を張り上げた。
――さすが元合唱部って感じやな。
廊下の端から端までよく通るそれは、壮悟の鼓膜をびりびり揺らす。真横で聞いているとうるさいくらいだ。
けれどおかげで、別の部屋にいた管理人室の主に聞こえたらしい。最奥の部屋の扉から女性の顔がひょっこり現れた。
「あらま、失礼しました。お客さんがいらっしゃってたのね」
脚でも悪くしているのか、女性は慌てている表情ではあるけれど、こちらに向かってくる歩みは遅い。壮悟と美希は顔を合わせ、自ら女性に近づいた。
「ごめんなさいねえ。掃除してたもんだから気づかなくて」
「いえ、こちらこそ大きい声で呼んでしもてすみません」
壮悟が頭を下げると、女性は「いい男ねえ」と口元を手で隠して笑う。
背は美希と同じくらいだろうか。歳は六十代半ばに見え、ふっくらとした体形と目尻のしわからは、なんとなく優しさを感じられた。
「この辺では見かけない方ね。どなたかの親戚?」
「いや、俺たちはハルに――身内が、ここでやる祭りに興味あって。行きたい言うもんでついてきたんですけど」
「ってことは地元の方じゃないのね。あ、私ここでボランティアガイドやってるのよ」
女性は首から下がっていた名札を壮悟たちに見せてくる。顔写真の横に書かれているのは女性の名前だろう。上松のぶ子、というらしい。
「旅行中の方が来られるなんてめったにないから、嬉しいわあ。どうぞゆっくり見ていってね。部屋は三つあるんだけど、祭りに興味があるなら真ん中のところにいっぱいあるわ。一番目の部屋はこのあたりの歴史とか昔の地図とか置いてあって、三番目の部屋はほとんど机と椅子しかないから、あまり面白くないかもしれないわね」
「は、はあ。そうなんですか」
「ほら、近くに小学校があるでしょ? そういう子たちの授業に『地元の歴史を知ろう』っていうのがあってね。三番目の部屋はちょっとした授業で使われたりするのよ。夏休みだと自由研究で資料を使う子がいるかもしれないし、家じゃなくてここで宿題やる方が集中できるからって子が来たりするもするんだけど、今日は誰もいないのよね」
人と喋ることに飢えていたのか、それとももとからお喋りな気質なのか、上松はぺらぺらと資料館について説明してくれる。弾丸トークとはまさしくこのことだろう。
壮悟が圧倒されていると、美希が肘で小突いてきた。
そうだ。榛弥が来たかどうか、確認しなければいけない。
「あの、すみません。ちょっとお聞きしたいことが……」
「はいはい。なあに? あ、そうだ。ちょっと待ってて。暑くて喉が渇くでしょう。なにか飲み物を持ってくるから待っていてくださる? 冷たい緑茶とジュースだったらどっちがいいかしら」
「いえ、そんな、お構いなく……」
「中でもゆっくり見ながら待っていてちょうだいね。すぐに戻ってくるから」
ばしばしと力強く壮悟の二の腕あたりを叩くと、上松はのんびりとした歩みで管理人室に入っていった。通り過ぎざまにかすかに鼻歌が聞こえてきたし、なにやらかなり機嫌がいいらしい。
「……ハル兄のこと、聞けへんかったな……」
「こっちの話聞く気ぃゼロっぽかったやん」と美希がため息をこぼす。「とりあえず、部屋ん中入らへん?」
祭りに興味があるなら真ん中、と上松は言っていた。二人は引き戸を開けて、言われた部屋に足を踏み入れた。
室内には本棚やガラスケースが置かれ、壁面には額に入った写真が何枚か飾られている。少しでも劣化を防ぐためか、窓はカーテンで閉ざされていて薄暗い。電気をつけなければまともに観察できなさそうだ。引き戸のそばにあったスイッチを押すと、天井からつるされたライトに明かりが灯った。
「……なんか……ちょっと期待外れやな……」まだ入り口からざっと中を見ただけだが、美希が不服そうに唇を尖らせる。「わざわざ一部屋ぶん使うほどのもん、置いてあらへんやん」
「本棚もスッカスカやしな……」
適当に本棚にあったものを一冊引き抜くと、目に入ったのは文章ではなく写真だった。壮悟が手にしたものはアルバムだったようだ。壮悟も見た祭りの一場面を写してあるらしく、昨日の那壬恵と同じ格好の〝舞姫〟の姿が何十枚も収められている。
ガラスケースの中には、過去の祭りで使われたという神楽鈴が展示されていた。それを見た美希が不思議そうに首を傾げている。
「どうしたん」
「鈴の持ち手の下んとこにさ、布ついてるやんか」
「ついとるな。それがどうかしたんか?」
「これってこんな色やったっけなあと思て」
神楽鈴の下部には、黄色が二枚、薄い青緑色が二枚、計四枚の布が取り付けられている。壮悟は特に違和感を覚えないが、美希はなにか引っかかるようだ。
「ていうか、なんでお前がこれの色なんか気にすんねん」
「これと同じようなやつ持ったことあるんやもん」
「は? ここで?」
「違うわ、アホか。地元の方で。お兄ちゃんは男の子やで知らへんのかな。神社でさ、春と秋に一回ずつお祭りやるやん。そん時、毎年小学六年生の女の子が巫女さんの格好して踊るんよ」
「……お前もやっとったっけ?」
「やったわ」
まったく記憶にない。祭りの前になると毎週水曜日の夜に練習しに出かけていた、とも説明されたが、覚えていなかった。自分には関係ないからと受け流していたのだろう。
ともかく美希は過去に舞を踊った際に、神楽鈴を手にしている。その時に使ったものと、目の前のこれでは、下部についている布の色が違う気がするという。
悩み続ける美希をガラスケースの前に残して、壮悟は壁面に飾られている写真に目を移した。
――ほとんど舞の時の写真ばっかりや。衣装が違うやつは〝婚姻の儀〟とかいうやつのもんなんかな。
――写っとんのも、全部那壬恵さんや。けど写した年は違うんやろか。
額縁の下には撮影した年と、その際の那壬恵の年齢を記したプレートがあった。壮悟が確認したものの中で最も古かったのが、現在からちょうど十七年前、那壬恵の年齢は「七歳」と書かれている。
――ってことは、那壬恵さんは今、二十四歳か。俺の一個上なんやな。
――そんな小さい時から〝舞姫〟やってんのか。……そういえば、親は一歳くらいん時に居らんようになったとか、ハル兄が言うとったな。
「お待たせしました!」と朗らかな声で呼びかけながら、上松が部屋に入ってくる。両手で支える丸い盆の上には、三人分のガラスのコップが載っていた。色から察するに緑茶だろう。
「ごめんなさいね。遅くなっちゃったわ。お茶を入れようと思ったら微妙に人数分足りなくて、ちょっと母屋まで戻ってたものだから。はいどうぞ。氷も入ってるから冷たいわよ」
「あ、ありがとうございます」
「母屋戻っとったって、ここから家近いんですか?」
美希の問いかけに、上松はぐいっと緑茶を飲みながら「ええ」とうなずいた。
「このすぐ裏なのよ。だからボランティアやってるんだけど。近いから移動に時間もかからないしね。そうだ、お菓子も食べる? おせんべいかあられならここに置いてあるからすぐに出せるけど、若い人はチョコレートとかの方がいいかしら。家に置いてあったと思うし持ってきましょうか」
「いえっ、大丈夫です。お気遣いなく!」
空いた片手をぶんぶんと振って全力で遠慮する壮悟の隣で、「えらい親切なおばさんやな」と美希が呟いていた。
〝糸探し〟ではよそ者大歓迎という雰囲気だったし、他の地域から来た客は全力でもてなす土地柄なのかもしれない。上松は特に気にした様子もなく、壁を見て「あら」と目をまたたいた。
「写真見てたの? どれもよく撮れてるでしょう。全部うちの主人が撮ったものなのよ」
上松は誇らしげに胸を張り、本棚からアルバムを一冊引き抜く。このままではまた弾丸トークが始まってしまう、と壮悟が身構えたところで、「あの」と美希が上松に先手を打った。
「ちょっとお聞きしたいことあるんですけど」
「あら、なあに? なんでも聞いてちょうだい。私に答えられることならいいんだけど、分からなかったらごめんなさいね」
「そこに置いてあった鈴なんですけど」
美希が訊ねたのは、榛弥が来ていたかどうかの確認ではなかった。そっち先に聞くんかい、と壮悟はうっかり突っ込みそうになる。寸前で堪えたものの、口に含んでいた緑茶が気管に入って噎せた。
そうしている間に、上松はガラスケースに近寄って美希の問いに耳を傾けている。
「あたし昔にこれと似たような鈴持ったことあるんですけど、記憶が確かなら、あたしが持ったやつについとった布、これと色が違う気ぃするんです」
美希はスマホに文字を打ちこむと、画面を上松に見せていた。壮悟も妹の肩越しにそれを確認する。
表示されていたのは神楽鈴の画像だった。「ほら」と美希はそのうちの一つをタップし、布の部分をアップにする。
「普通のやつやったら、下にある布は五色みたいなんです」
画面いっぱいに広げられている布の色は、端から緑、黄、赤、白、紫の順に並んでいる。資料館にあるものと比べると一枚多いし、色も豊かだ。他の画像も確認してみるが、どれも色は同じである。
ということは、資料館にある鈴の方が一般的ではないのかもしれない。美希は答えを待つように、じっと上松の横顔を見つめている。
「そうねえ」と彼女は頬に手をそえて、記憶をたどるようにしばらく唸っていた。「うちのところの神楽鈴は、〝ジョロウさま〟の色がモチーフになってるんだったかしら」
「〝ジョロウさま〟の色?」
「二人はジョロウグモって知ってる? 蜘蛛なんだけど」
上松は両手の親指と人差し指で輪を作り、「これくらい」と大きさを示す。壮悟が知っているのは妖怪の方で、虫の方は知らない。首を横に振ると、隣の美希が力強くうなずいていた。
「なんでお前知ってんねん」
「ホテルの露天風呂で見かけてん。黄色っぽい色で、脚めっちゃ長かった。さすがに風呂場やったで写真は撮ってへんけど、検索したらいっぱい出てくるん違うかな。見る?」
「見やへんし、出さんでええわ。絶対気持ち悪いやんか。俺が虫あんま好きちゃうん知っとるやろ」
「お二人は仲が良いのねえ。カップル?」
にこにこと訊ねてくる上松に、二人は「違います、兄妹です」と即答した。けれどただの照れ隠しと思われたのか、彼女は「あらあら」と頬をうっすら染めてずっと微笑んでいる。どれだけ訂正しても無駄そうだ。
「で、ええと、ジョロウグモの話だったわね。お嬢さんが見たように、ジョロウグモって黄色いのよ。正確にはおなかの部分にうすい灰色だか青緑色だかの縞模様があるんだけど。で、神社で祀られてる〝ジョロウさま〟って正確にはジョロウグモっていう名前なんだけど、本当にいる蜘蛛と同じ名前でしょう? だから昔の人は、蜘蛛が〝ジョロウさま〟の使いだと思って、それと同じ色を神聖なものとして使うようになったそうよ。神楽鈴のこの布とか、大切な日に使う着物とか」
「へえ……」
「五色の正式な方にもちゃんと意味はあるんでしょうけど、そっちは分からないわ。ごめんなさいねえ」
そちらに関しては恐らく榛弥が詳しいだろう。今度聞いてみよう、と考えかけたところで、壮悟ははっとした。
「すみません。もう一つお聞きしたいことがあるんですけど」
「はいはい。なにかしら」
壮悟はスマホをタップし、榛弥が写っている適当な画像を表示して上松に見せた。
「俺ら、この人を捜しとるんです。資料館に行くみたいなこと言うとったもんでここに来たんですけど、居らへんみたいやから行き違いんなってしもたんかなと思て」
髪型や服装はこんな感じで、と説明しながら、スクロールして他の写真も見せる。上松はじっと確認して、やがて首を横に振った。
「ここにはいらっしゃってないわねえ」
「そう、ですか」
「ほんなら榛弥兄ちゃん、神社の方にでも行ったんかな。ホテルから自転車であそこまで行くん、ちょっとしんどい気ぃするけど」
「神社? あら、あなたたち今から神社に行くの?」
壮悟と美希は声をひそめて言葉を交わしていたのだが、上松は敏感に一部だけを聞き取ったようだ。
これまでの会話から察して、てっきり神社の見所などを説明してくると思ったのだが、予想に反して彼女は残念そうに吐息をつく。
「今日はちょっと止めた方がいいかも知れないわ。いろんな人が忙しくしてるでしょうから、ゆっくり見られないと思うのよ」
「……〝婚姻の儀〟の準備ですか?」
「そうそう。よくご存知ね。明日やる予定なんだけど、今年はちょっとバタバタしててね。今朝チヨミさんから急に連絡があったって、主人がもう大慌てで――」
上松の言葉を遮るように、ガシャン、と物々しい音が聞こえたのはその時だった。
なにかが割れたような音だった。なにごとかと三人が目を瞠って黙る中、続いて怒鳴り声が聞こえてくる。
若い男の声だ。窓が閉まっているため具体的になにを言っているかは分からないが、とにかく激怒していることだけはうかがえる。
「母屋の方からだわ。どうしましょう、泥棒かしら」
上松は今すぐに様子を確認しに行きたいようだが、先ほどまでの歩みから考えるに、走るのは難しいだろう。壮悟は咄嗟に「俺、見てきましょうか」と駆け出した。
資料館の裏手には、確かに民家が一軒あった。急いで駆けつけると、玄関先で声を荒らげる人影を見つけた。蹴り飛ばしたのか、足元には粉々になった植木鉢の破片が散らばっている。
「説明しろよ!」と玄関の向こうにいる誰かに詰め寄っている横顔に、壮悟は見覚えがあった。
――俺に喧嘩売ってきたあいつや。
よほど頭に血が上っているのか、日焼け肌の少年は眉を吊り上げ、唾を飛ばしながら叫ぶ。
「どういうことだよ。〝花婿〟がよそ者に変更されたって!」
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