二章――⑤
「どうやった?」
壮悟の問いかけに、美希は助手席に座りながら首を横に振った。
「『朝食にはお見えになってませんね』て言われた」
「なんやそれ」
「ご飯も食べんと出てったんかなあ……」
結局、榛弥はチェックアウトの時間になっても戻ってこなかった。
とはいえ居座るわけにもいかない。壮悟たちは榛弥の荷物をまとめ、チェックアウトするしかなかった。
壮悟が支払いを済ませている間、美希にはレストランへ話を聞きに行かせた。行き違いで食事をしている可能性が捨てきれなかったからだ。しかし結果は先ほどのとおりである。予想は空振りに終わった。現在はホテルの駐車場に止めた車の中で、あれこれと予想を立てているところだ。
「出てったにしても、問題はどこ行ったかやよね」
「資料館行きたがっとったし、一番あり得そうなんはそこやと思う」
「自分のわがままにあたしら付き合わせんの悪いと思て、一人で行ったんやろか」
「ハル兄そんなん気にする
「そうやんなあ」
「移動すんのも、ハル兄やと基本的に徒歩やろ。目印んなる里宮がそもそもどこにあるか分からへんし、飯も食わんと朝っぱらから歩き回るん大変な気ぃする」
しかし朝食に関しては、適当なコンビニでおにぎりなどを調達して、移動がてら済ませている可能性もある。考えれば考えるほど分からなくなり、壮悟たちは首を傾げた。
ひとまず今からどうするべきか。榛弥がスマホを置いていった以上、こちらから連絡は取れない。財布は持っていったようなので、公衆電話などから二人に電話をかけてくれればいいのだが。
仮に資料館に行ったとするなら、壮悟たちもそこへ向かうべきだろう。
「でも、それこそ行き違いになったら面倒と
「そうやんなあ……けどいつまでもここに
「ほんならとりあえず、観光センター行かへん?」
初日に神社へ向かう前に立ち寄ったところだ。
「なんでやねん」
「そこやったら神社の里宮の場所教えてくれるやろし、長いこと車停めといても文句は言われへんかな思て」
「……それもそう、なんか……?」
「もし榛弥兄ちゃんがホテル戻って来たんやとしても、あたしらが居らへんって分かったら、フロントで電話借りてお兄ちゃんかあたしに連絡してくれるやろ。知らんけど」
美希の言葉は一理あるように思える。提案に乗り、壮悟は観光センターまで車を走らせた。
空には雲一つなく、夏のじりじりした日差しがアスファルトを焼いている。十分も外を歩けば間違いなく汗だくになるし、熱中症の危険もある。そう考えると、いくら朝方の涼しい時間帯に出ていったのだとしても、徒歩で移動するのは現実的ではない。
美希は熱心に外を見ている。歩道を行く人の顔を確認しているようだ。けれど目的の人物は見当たらなかったらしい。観光センターの駐車場に着いた時、あからさまに肩を落としていた。
「とりあえず売店行ったら、里宮の場所教えてくれるかな」
「多分な。こういうとこで働いとんのってだいたい地元の人やろし」
売店の横には休憩スペースも設けられていたはずだ。事情を説明すれば、長時間待たせてもらえるかもしれない。
二人はそろって売店に向かい、レジカウンターにいた女性にさっそく声をかけた。如瑯神社の里宮を探している旨を伝えたところ、彼女はすぐに「ああ、あそこですね」と、観光センター近辺を記した地図を広げて教えてくれた。
休憩スペースの利用も許可してもらえたが、ずっと座りっぱなしはつまらない。壮悟は定期的に立ち上がって外を眺めたりして、美希は近くのラックに置いてあった観光のパンフレットに目を通していた。
「ふと思たんやけどさ」と美希が口を開いたのは、観光センターに来てから一時間が経った頃だった。「資料館て、朝は何時から開いとんの?」
「十時とか言うとった気ぃするけど」
「ってことはあたしらがホテル出てきたくらいの時間てことやんな。もし榛弥兄ちゃんがオープンの時間からそこに居ったんなら、やっぱ先にそこ確認しに行った方が良かったんかなあって……」
チェックアウトを済ませてすぐに向かっていたのなら、榛弥はまだそこにいたのかもしれない。
だが時刻はすでに昼の十二時近くになっている。資料館がどれくらいの広さで、どの程度の品が収められているのか定かではないが、さすがにこれだけの時間があればすでに見物を終えているだろう。移動を始めているかもしれない。
なにを今さら言うのか、と壮悟は思いきり顔をしかめた。「そんな顔せんでもええやん」と美希はイラついたように頬を膨らませている。
「ほんならとりあえず、今から資料館行くか? 無人てことはないやろうで、誰か居るんやったらハル兄来とったかどうか聞け――」
聞けるはずだ、といいかけたところで、ポケットに入れていたスマホが鳴動した。
電話の着信音だ。榛弥かと思って慌ててスマホを取り出すが、画面に表示されていたのは見知らぬ電話番号だった。
間違い電話だろうか。詐欺かなにかだったら厄介だ。壮悟は美希に「ちょっと調べてくれ」と、電話番号を打ちこんで発信元を調べさせた。
「……ホテルや」
「は? 泊まっとったとこ?」
「うん」と美希が見せてきた検索画面には、壮悟のスマホを鳴らし続けている電話番号と、ホテルの名前が表示されている。
となると出ないわけにはいかない。壮悟は慌てて受話器のマークをタップした。
「はい、もしもし、暁戸です。――はい、そうです。今朝までお世話に……。――え、はい。――え? ――いえ、ちょっと分からへんのですけど……」
なにを話しているのか気になったらしく、美希が背伸びをして壮悟に耳を近づけてくる。邪魔すんな、とそれを押し返して、壮悟は電話口に意識を集中させた。
「はい、すみません。――はい。ちょっと今本人と連絡が取れへんので、あとでまた――えっ、レンタルですか? ――はい。いや、ちょっと今初めて聞いてびっくりしとるというか……はい。――はい、すみません。はい、失礼します」
電話を切ると、美希からすぐに「なんやったん?」と問いかけられる。壮悟は顔いっぱいに困惑を浮かべて、「ホテルのフロントからやったんやけど」とベンチに腰を下ろした。
「ハル兄が
「懐中電灯? なんで?」
「知らんがな」
初日に停電して以降、壮悟たちは枕元に懐中電灯を置いていたが、榛弥はどうだっただろう。移動させていなければ下駄箱の上にあったはずだが、特に意識して見ていなかったために覚えていない。
榛弥の荷物をまとめたのは壮悟だが、その際に間違えて詰めこんだ記憶もない。そもそも部屋に置いていなかった、なんてこともないはずだ。
となると。
「……榛弥兄ちゃんが持ってった、とか?」
考えられるのはそれしかない。
フロントから訊ねられたのは、懐中電灯の行方だけではなかった。
「ホテルで自転車の貸し出しやっとったやんか。ハル兄が一台借りっぱなしらしい」
「え? いつから?」
「昨日の夕方四時くらいからて言うとったから、俺とお前が大浴場行っとったような頃やろか」
しかし壮悟も美希も、榛弥が自転車を借りていることなど知らなかった。二人が入浴している間に出かけていたとも聞いていないし、なにより、借りたまま返していないと言うのが信じられなかった。
榛弥はそのあたりちゃんとしているタイプである。期限があればしっかり守るし、破ったことなど、壮悟が知る限りでは一度もない。
「ホテルからはとりあえず『ご本人さまが戻られましたら、なるべく早く当館まで自転車をお戻しいただくようお伝えください』て言われた」
「そらそうやろうね。……けど、なんで自転車借りたんやろ……」
「どうしても行きたいとこあった、とか……?」
部屋から持ち出された可能性のある懐中電灯と、借りっぱなしの自転車。
壮悟の頭によぎったのは、一つの予想だ。
「……もしかしてハル兄が出てったんて、夜なんやろか」
「なんで?」
「だってそうとしか思えへんやろ。夜にどっか行くんやったら懐中電灯あった方が便利やんか」
「そうやろけど……。でもなんで夜に出てくねん」
「……それは知らん」
榛弥が考えることなど、壮悟に分かるはずもない。
スマホやパソコンが置きっぱなしにされていたことを踏まえると、朝までには戻ってくるつもりだったのだろうか。それにしても鍵くらいはかけていかなければおかしい。
頭がパンクしかけたところで、不意に頬に冷たいなにかが当てられた。驚いて顔を上げると、美希が缶ジュースを壮悟の頬に押しつけている。
「なんやねん」
「喉渇いたでついでにお兄ちゃんのぶんも
「……いや、貰うわ。ありがとな」
缶の表面にはかぼすに似た果物のイラストと、可愛らしいマスコットが描かれている。こちらに来てからよく見かける名産の柑橘類を使用したジュースらしい。プルタブを開けると、ゆずに近いすうっとした香りが鼻孔を通り抜けていく。
果汁がたっぷりと使用されたジュースは、強い酸味の奥に甘みを感じられた。おかげで頭がすっきりとする。
壮悟は「よし」と立ち上がると、空き缶をゴミ箱に放りこんで歩き出した。
「ハル兄がこの辺で行きそうなんは、資料館か神社のどっちかしかないと思う。とりあえず今から資料館行くぞ。ハル兄が来たかどうか聞きに行く」
「来てへんて言われたら?」
「神社見に行くしかないやろな。それでも居らへんかったら、またここ戻ってきて連絡待ったらええわ」
「でも行き違いになったら……」
「知るか、そんなん。そもそもスマホとか全部置いてったハル兄が悪い」
顔を合わせたら、文句の一つでも言ってやらなければ気が済まない。壮悟は無意識のうちに舌打ちをした。
美希は昼食を食べたそうにしていたが、「ちょっとの時間くらい我慢せえ」と言い聞かせて、壮悟は如瑯神社の里宮に向かった。
まぶた越しに光を感じる。榛弥はのろのろと目を開け、あくびをこぼしながら体を起こした。
鼻をくすぐるのは畳のいぐさと、部屋の四隅で焚かれている清らかな香のにおいだ。寝起きの頭でぼんやりと室内を見回して、次第に自分がどこにいるのか思い出してくる。
部屋は広く、榛弥の背後には床の間が設けられていた。右手側は廊下に通じているらしく、障子の向こうから透ける日差しは柔らかい。正面と左手側は襖で閉ざされ、そこには滝と巨大な蜘蛛が描かれている。眼光鋭くこちらを睨みつけ、糸を吐き出す蜘蛛の顔はどう見ても人間の女のそれで、ひと目でこの世のものではないと分かった。
視線を落とすと、先ほどまで己が埋もれていた布団が目に入る。夏であることを考慮してか、掛け布団はかなり薄っぺらい。しかし手触りは極上で、最高品質の代物であることがうかがえた。
身にまとっているのは白い浴衣だ。ここに来るまではTシャツとチノパンだったはずだが、いつの間にか着替えさせられている。
――さて。これからどうするかな。
これからの行動を考えながら、夏場の習慣として髪をまとめようとする。
――ああ、だめだ。置いてきたんだった。
彼女から渡されたお守り代わりのゴムは、道中で置いてきてしまった。持参したリュックの中に別のゴムが入れてあるけれど、ざっと確認したところ、室内に榛弥の荷物は見当たらない。
捨てられていないといいんだが、と思案しながら、寝ぐせを整えるべく指で髪を梳く。だがすぐに違和感を覚えた。
――妙に頭が軽いと思ったら、なるほど。
鏡がないため正確なことは分からないが、どうやら髪をばっさりと切られたらしかった。普段は肩の下まで伸びているはずのそれが、今は首筋があらわになるほどの短さになっている。
ここまで短くなるのは高校生以来だなあ、などとのんきに考えていたところで、障子の向こうに人影が立った。失礼いたします、と静々とした声でそこを開けたのは、白衣に緋袴という装いの
「ごゆっくりお休みになられましたか」
廊下に正座して問いかけてくる彼女に、榛弥は「ええ」と軽くうなずく。
「それは良かったです」
「いえ、こちらこそ。浴衣、ありがとうございます。おかげさまで快適に眠れました」
「……朝早くからお疲れさまでした。お食事をお持ちいたしましょうか」
「そうですね、お願いします」
「かしこまりました」と那壬恵は頭を下げ、障子を閉めようとする。榛弥はその寸前で「すみません」と呼び止めると、少しだけ眉を下げた。
「ここに書庫はありますか」
「はい。ございますが……」
「でしたら、申し訳ないのですが、食事のあとで何冊か持ってきていただけませんか。確認したいことが何点かあるのですが、この状態ではどうも出歩けそうにないので」
榛弥は己の右脚を一瞥する。
その足首には、鉄製の足枷がはめられていた。
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