二章――②

 大浴場の露天風呂で、美希は「はー」と吐息をこぼした。日はまだ高く、自分以外に客は見当たらない。絶景も、五つある露天風呂も、全て独り占めだ。

 男湯はどうだろう。竹で出来た高い柵の向こうにあるそこには今、兄が入っているはずだ。だからといって、大声で呼びかけるようなみっともないことはしないけれど。

「榛弥兄ちゃんも来たら良かったのに」

 ちゃぷちゃぷと意味もなく手で水をかきつつ、ぽつりと独り言ちる。

 ホテルに到着早々、大浴場に行きたいと言ったのは美希だ。壮悟は暗号の答えを早く知りたいようだったが、「お兄ちゃんめっちゃ汗臭いで」と鼻をつまんで顔をしかめてみせた途端、「ほな俺も入りに行くわ」とついてきてくれた。榛弥だけは「資料をまとめたいからシャワーで済ます」とコテージに残っている。

 ゆったり浮かぶように湯の中を歩いて、美希は風呂のふちに寄りかかる。

 海をのんびり眺めるのは気持ちがいい。たまに海面が揺らぐのは、魚が跳ねたりしているからだろうか。砂浜からは楽しそうにはしゃぐ声も聞こえてくる。海水浴を楽しんでいる人々がいるようだ。ホテルでは日帰り入浴も受け付けているようだったし、海で遊んだ後でここに浸かりに来る客も、一定数いるのだろう。

 露天風呂と海の間には小さな庭が設けられ、季節の花や松の木を楽しめる。サワギキョウやゼラニウム、ハイビスカスなどが彩り豊かに咲き誇っていた。

 不意にミンミンと騒がしい鳴き声が聞こえてきた。振り返ってみれば、露天風呂の屋根を支える柱にセミが止まっている。夜であれば明かりに誘われた蛾など来ていたのかも、と考えると、今のうちに入浴して正解だったような気がした。

「うん?」近くにあった松の木を見ていたとき、不意に視界の端でなにかがきらめく。なんだろう、と美希は軽く首を傾げ、目を凝らしてその正体に気づいた。「えらいでっかい蜘蛛の巣やな」

 逆光になっていて分かりにくいが、枝と枝を結ぶように巣が作られている。その中央に陣取っているのは、美希の手のひらと同じくらいか、それより一回り小さいくらいの蜘蛛だ。

 夜であれば悲鳴の一つでもあげたかもしれないが、今はまだ夕方の一歩手前といったところだ。気持ちの余裕も相まって、美希はまじまじとそれを見つめてみた。

 巣に引っかかる虫を待って、蜘蛛は微動だにしない。地元ではあまり見かけないやつだな、としばらく観察して、ふと思いつく。

「なんか見たことあると思たら、あれやな、車ん中で調べたやつな気ぃする」

 昨日立ち寄った神社に祀られている神、もとい妖怪がジョロウグモだと榛弥に聞いたあと、美希は車の中でジョロウグモについて検索したのだ。

 結果、表示されたのは妖怪のそれだけではなかった。

 ――まさか同じ名前の蜘蛛が居るとは思わへんかったもんな。

 さらに言えば、実物をすぐに目にするとも思っていなかった。

 八本の脚は不気味なほどに細長く、黒と黄色で交互に彩られている。楕円形に似た腹部は黄色っぽく、よく見ると縞模様が入っているのが分かった。

「調べたらすぐに本物見るとか、なんか縁感じるわ」

 さすがに触ろうとは思わないが、記念に写真でも撮っておきたい気分だ。当然のことながらスマホは脱衣所に置きっぱなしなのだが。

 がらがらと露天風呂と内風呂をつなぐガラス扉が開く。顔を向けると、親子連れの客が入ってくるところだった。独り占めの時間は終了である。

 兄は長風呂をするタイプではなく、すでに風呂から出ているかもしれない。待たせて文句を言われるのも鬱陶しい。名残惜しいが美希は脱衣所に移った。

 ――向こう戻ったら、あれか。暗号の答え合わせするんやったっけ。

 ドライヤーで髪を乾かしながら、道の駅で壮悟に見せてもらった紙を思い返す。四行ほど書いてあったが、後半はうろ覚えだ。前半もはっきりと覚えているわけではないけれど、消えた末子がどうのと書いてあったような記憶がある。

「『美希の思ったことがヒントだぞ』とか榛弥兄ちゃん言うとったけどなあ」

 どういうこと、と訊ねた美希に、榛弥は「足りないって思ったんだろ」としか言ってくれなかった。

 神社の写真を見返していたときに、なにかが引っかかったのは確かだ。しかしまだ違和感の正体を掴めないでいる。もやもやはたまる一方だ。

 ――地元の神社と比べたら、なんか分かるやろか。

 試しに初詣で必ず足を運ぶ神社を思い出してみる。自宅から歩いて十五分のそこには、今年の正月にも訪れていた。その際の記憶を頼りに、如瑯神社との違いはなにか考えてみる。

 ――鳥居……はあった。手ぇ洗うとこもあった。百度石とかいうんは、地元の方にはあらへんし。あとは……お参りするとこ。なんやっけ……拝殿は似たようなもんやと思う。テレビとかやと、賽銭箱の上に鈴と紐が付いとんのよう見かけるけど、あれはどっちにもあらへん。

「他は……他になんか……」

 うーん、と悩みながら女湯と廊下を遮るのれんをくぐると、その先の休憩所に立っている壮悟の背中が目に入った。自販機に小銭を入れ、なにか飲み物を買おうとしているらしい。

 お待たせ、と呼びかけようと近づいて、美希ははたと足を止める。

 壮悟が着ているのは、美希が高校の修学旅行で買ってきた土産物のシャツだ。沖縄の国際通りで売っていたもので、背面にはハイビスカスとシーサーが描かれている。

「――――ああっ!」

「うわっ!」

 思わず大声を上げると、壮悟がびくりと肩を震わせた。

「なんやねんいきなり! 出てきたんやったら普通に『出たで』とか言えや! って、あー!」

 今度は壮悟が大きな声を出す。近くを通りかかった従業員が、訝し気な視線を投げて通り過ぎていった。

「お前がでっかい声出すから、選ぶやつ間違えたやんけ!」自販機の取り出し口から、壮悟は淡いクリーム色の液体で満たされた牛乳瓶を引っぱり出す。表面のラベルにはフルーツ牛乳と書かれていた。「コーヒー牛乳飲もと思とったのに!」

「知らんわ。そんなんはどうでもええねん」

「どうでもええことあるか。俺の百五十円……」

「違うねんて。分かったんや」

「なにが」

「昨日の神社でなんか足りへんと思たやつ! シーサー見て気ぃついた!」

 えっ、と壮悟が目を丸くする。どうやら兄はまだ分かっていないらしい。なんとなく勝った気分である。美希は壮悟の手からフルーツ牛乳を引っこ抜き、栓を開けながら言葉を続けた。

「あの神社にあらへんかったのはな――」


「そう、狛犬だ」

 ご褒美だ、とでも言うように榛弥が飴を差し出し、美希は嬉しそうに受け取っている。壮悟を見上げてくる瞳には、にやにやとした光が宿っていた。

 榛弥が使っているコテージに飛びこむやいなや、美希は「狛犬やろ!」と確信に満ちた声で叫んだ。先を越された悔しさから不正解であることを願っていたのだが、合っていたらしい。壮悟は仏頂面で腕を組んだ。

「なんだ、お前も飴欲しいのか?」

「そんなわけあるか。子ども違うんやし」

「あたしに負けてイライラしとるんやろ。それこそ子どもっぽいわ」

「やかましい。っとけ」

 見下すかのような視線があまりにも鬱陶しく、壮悟は美希の額を指で思いきり弾いてやった。

 兄妹のいざこざをどうでも良さそうに眺めながら、榛弥はパソコンを操作している。表示されたのは、昨日美希が撮った神社のフォルダーだ。

「写真を見ながら説明した方が早い。参道から拝殿まで順に出していくから、よく見ておけよ」

 テンポよく次々と表示されるそれを観察して、壮悟は唇を尖らせる。

「ほんまや。狛犬だけあらへん」

「だろ」

「美希が撮り忘れただけってことは?」

「あたしがそんなミスするわけないやろ。だいたい、ほとんど榛弥兄ちゃんに『これ撮ってくれ』て頼まれながらシャッター押しとったんやし。いつんなったら負けを認めんねん」

「……はいはい」

 じろりと睨まれて、壮悟は両手を上げて完敗の意を示した。

「でも狛犬と暗号がどう関係してんねん。よう分からへんねんけど」

「碑文が書かれた紙を出してみろ」

 壮悟は手にしていた暗号の紙を机の上に広げる。榛弥が指さしたのは一行目だ。

「『消えた末子はうしとらに』の部分。この『消えた末子』は狛犬のことを示してるんだよ」

「……えーっと……?」

「分からんのも無理はない。順に説明してやるから、ひとまず次はこの写真を見るといい」

 榛弥がクリックしたのは百度石の写真だ。真上から撮影したもので、きれいな八角形であることがよく分かる。

「それぞれの辺のところに注目してみろ。なにか書いてあると思わないか?」

「うーん?」

 言われた箇所を兄妹そろってまじまじと見てみる。石が黒と灰色のまだら模様であるため分かりにくいが、確かになにかが彫られているのが分かった。

 しかし文字ではない。例えるなら漢数字の〝三〟に似たものが、各辺に一つずつ、計八つ刻まれている。だが〝三〟なら中央の線だけ明らかに引っ込んでいるはずなのに、三本の線の長さは均等だ。

 さらに、ものによっては線の中央がぷっつりと途切れている。

「字ぃとちゃうもんね。記号とか?」と美希が予想を述べると、榛弥はこっくりとうなずいた。

「正解だ。残念だったな、壮悟。また美希の勝ちだ」

「別に勝負してへんでええわ。ほんで、どういう記号なん。よう見たら形っていうか、線の組み合わせが八つとも違う気ぃすんねんねど」

「これは〝易経えききょう〟で用いられる基本図像だ。ただの横線じゃない、一つ一つにちゃんと意味がある」

「いや、その前に易経ってなに?」

 知っていて当然のことのように続けられかけて、壮悟は慌てて榛弥を制した。美希も意味が分かっていないらしく、眉間にしわを寄せて何度も目をまたたいている。

「教えてやるのは別にいいけど、話がかなり逸れるぞ。大丈夫か」

「分からへんまま進められるよりマシや」

 壮悟が唇をへの字に曲げる隣で、美希も首肯している。榛弥は椅子の背もたれに体重を預け、ふ、と唇に笑みを乗せた。

 ――あ、これは。

 どうやら准教授として、生徒に授業を教えるモードに突入したらしい。

「〝陰陽いんよう説〟について説明したこと、覚えてるか」

「あー……春くらいやったかに聞いたような……」

「『あんまり覚えてない』って言いたそうだな」

「まあ、正直に言うとそうやけど」

「あたしはそもそも聞いたことない気ぃする」

「陰陽説っていうのは、『天と地、男と女など、この世のあらゆるものは陽と陰で出来ている』っていう、古代中国で生まれた考え方のことだ。これを創始したと考えられる人物が記したのが〝易経〟っていう書物。ものすごく簡単に言ってしまえば、哲学とか占いの本みたいな感じだな。ちなみに今でも読まれてるぞ」

「全然知らへんけど」

「死んだじいさんが遺した本の中にあったはずだから、気が向いたら読めばいい」

 数年前に亡くなった母方の祖父は、民俗学に造詣の深い人だった。特に興味を抱いていたのが〝陰陽五行いんようごぎょう説〟だったようで、それに関する書物を色々と集めていた。多くは春先の遺品整理で榛弥が引き取ったり、売り払ったりしてしまったが、まだいくつかは書庫に残っている。

 読めばいいといわれても、漫画やライトノベル以外で字が連なっている本は苦手だ。情報量が多すぎて頭がパンクしてしまう。壮悟は「暇やったら読むわ」と受け流した。

「じゃあ話を続けるぞ。百度石に書かれている記号は〝こう〟といって、繋がった横線が〝陽爻〟、中央が切れている横線を〝陰爻〟と呼ぶ。この線を三つ組み合わせて作られたものが〝八卦はっけ〟だ」

「それがさっき言うとった『易経で用いられる基本図像』?」

「ああ。聞いたことは?」

「ハッケとかいうんは漫画かゲームで聞いたことある、かも……美希は?」

「あたしもその程度やわ。榛弥兄ちゃんほど詳しいことは知らん」

「まあ、普通はそうだと思う。八卦のこの記号には一つ一つに意味があると言ったが、これと似たようなことなら、壮悟、心当たりあるだろ」

「心当たり……?」

 またしても陰陽説、あるいは陰陽五行説に関することだろうか。すぐにギブアップするのも癪で、壮悟は俯いて考えこんだ。

 ――ハル兄はなんて説明しとったんやっけ。陰陽五行説は〝陰陽説〟と〝五行説〟がくっついて出来た思想、とか言うとったような。

 ――五行説は……水とか火とか聞いた気が……。

 確か以前に教えてくれた時は、「この語呂で頭に入れておけ」と壮悟にも覚えやすいよう説明してくれたはずだ。思い出すのをじっと待ってくれている榛弥を見て、はっと脳裏でひらめいた。

「『木火土金水もっかどごんすい』や! 思い出した!」

「よく出来ました」

 言いながら、榛弥が飴を投げてくる。受け取って美希を見下ろすと、悔しそうな目と視線がかち合った。

「他に覚えていることは?」

「陰陽五行には色んなもんが割り当てられるとか言うとったよな。方角とか、色とか」

「そう。〝火〟を例にして言えば『方角は南、色は赤』といった具合にな」

「それと同じことが八卦にもあるってこと?」

「ああ」

 榛弥はリュックから筆箱とノートを引っぱり出し、ページを一枚引きちぎると、慣れた手つきで記号を書いていく。そのうちの一つ、上部が陽、下二つが陰の記号の隣に、「艮」と字が並んだ。

「ここに当てはめられるのが『末子』そして『犬』なんだ」

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