一章――④

 部屋に戻るなり、美希が満足げな笑みを浮かべて布団の上に寝転がった。

「はー、おなかいっぱい」

「食ってすぐ寝転ぶなや」

 壮悟はエアコンのスイッチを入れながら苦言を呈す。締め切られていて蒸しっぽかった室内は、二分ほどで涼しくなった。

 ホテルは本館とコテージ群に別れており、美希が予約したのはコテージの方だった。高い天井にはシーリングファンがつけられ、小さなキッチンと食器棚も設置されている。ホテルの部屋というより、こじんまりとした家のようだ。

 気持ちよさそうに寝転ぶ美希を見ていると、「たまにはええかな」と思ってしまう。結局、同じように隣の布団に寝転んでごろごろしてしまった。

「あんなにいっぱいお刺身食べたん、あたし初めてかも」

「てんこ盛りにされてきたもんな」

 腹をさすりつつ、壮悟はスマホを顔の前にかざした。表示したのは、先ほど食したばかりの料理の写真である。両腕で抱えなければ持てないほど大きな器に氷がぎっしりと敷き詰められ、その上に捌かれたばかりの新鮮な刺身がこぼれそうなほど乗っていた。

 ホテルは海のすぐそばにあった。それゆえ料理の大半は魚介類で、刺身のほかに煮魚、焼き魚を次々に提供され、一週間分の魚を食べた気分だ。

 ちなみに朝食は地元名産の干物らしい。明後日の朝までは、しばらく魚づくしの食事になりそうだ。

 不意に部屋の中にインターホンが響く。起きる気配のない美希に代わり、壮悟はのそのそと扉を開けに向かった。外に立っていたのは、ノートパソコンを携えた榛弥だ。

「美希は?」

「おるよ。どうしたん」

「神社の写真をパソコンに取り込ませてもらえないかと思って。上がっていいか?」

 いつまでも扉を開けていたら、虫が部屋に入ってきてしまう。壮悟はすぐに榛弥を中に入れた。

 榛弥から用件を伝えられ、ようやく美希も体を起こす。かと思うと、布団のわきに寄せられていた机に手を伸ばし、上に置いてあった饅頭を頬張りはじめた。

「腹いっぱいやったんとちゃうんか」

「お菓子は別腹やろ。これ食べたらカメラのコード探すで待っとって」

「分かった」

 写真を取り込むコードを持っているなど準備がいい、と思っていたら、明日の撮影会でどんなものが撮れたのかすぐに確認するため、美希もノートパソコンを持参していたらしい。饅頭を食べ終わると、美希はキャリーバッグからコードを取り出して榛弥に渡していた。

 部屋に入ってからキッチンのあたりまではフローリングだが、寝室に当たる場所は畳敷きだ。榛弥は畳の上に正座し、パソコンとカメラをつなげている。

「ほんならあたし、お風呂入れてくるわ」

 美希は弾んだ足取りで、寝室の横にある扉から出ていった。外に出た先に、各部屋用に設けられた露天風呂があるのだ。その背中を見送って、榛弥が「しかし」とこちらに不思議そうな視線を向けてくる。

「あいつ本当に良かったのか? お前と一緒の部屋で」

「本人が『それがええ』て言うたんやから、ええんやろ」

 当初の予定では壮悟と榛弥が同じ部屋で、美希だけ一人部屋になるはずだった。いくら身内とはいえ、男二人と一緒の部屋では嫌がるだろうと思ったからだ。だがコテージの中に入ろうとした時になって、美希から待ったがかかったのである。

『あたし一人なんイヤや』

『はあ? なんでや。こないだまで「部屋独り占めやー」とか言うて喜んどったやないか』

『事情が変わったんやもん!』

『ワケ分からへん……』

『じゃあ僕がそっち行こうか?』

 しかし榛弥の提案にもまた、美希は首を横に振る。

『榛弥兄ちゃんの寝相めちゃくちゃ悪いて、茉莉まつりちゃんから聞いたことあるもん』

『え、そうなん?』

『…………まあ、否定はできない』

 意外な一面に目を丸くしていると、じろじろ見るなと言わんばかりに脇腹を殴られた。

 最終的に壮悟が美希の部屋に移動することで決着したが、先ほどやっと一人を嫌がった理由が分かった。

「これ見てみ」壮悟は部屋に置かれていた新聞を広げ、番組表の一点を指さす。「夜の九時からやるやつ。一人で見るん怖かったんやと思うわ」

 そこには「真夏の夜にヒンヤリぞわぞわ! 恐怖映像百連発!」と書かれていた。

 美希は怖いものほど見たくなるタイプの人間だが、一人では絶対に見たくない、と毎回壮悟を巻きこむ。怖いものが得意なわけではないし、壮悟としてはいい迷惑なのだが、断るのもそれはそれで面倒くさい。

 なるほどな、と榛弥は納得したようにうなずいていたが、また別の問いを投げてきた。

「お前ら他にも騒いでなかったか? 隣の部屋まで聞こえてたぞ」

「あー、それか……いや、露天風呂がな……」

 壮悟は美希から話を聞くばかりで、ろくにホテルのホームページなどをチェックしていなかった。そのため露天風呂と聞いた時に、なんとなく「景色がいいんだろうな」と思っていたのだが、実際は違った。

 本館の目の前には確かに海が広がり、大浴場ではそれが一望できるのだが、コテージ群は山に面している。昼間であれば緑豊かなそこを拝めるが、夜になるとほとんど分からない。さらに明るさに引き寄せられた虫が飛びこんでくる上に、露天風呂のそばにはホテルに続く道路がある。人の視線が気にならないよう配慮して壁はあるけれど、話し声が聞こえるたびに身構えてしまいそうだ。

「それで『思ってたのと違う』と言いあいをしていた、と」

「そんなとこ。風呂の壁もなあ、俺の身長やと、立ったときに思いっきり顔が外から見えてまうねん。めっちゃ恥ずかしいってわけと違うけど、なんかこう、落ち着かへんやろ」

「室内風呂使えばいいだろ。僕はそうする。本館まで行けば大浴場だってあるんだし」

「室内の方はなんか狭いし、今からまた本館まであるくんはだるい」

「だったら大人しく露天風呂に入るんだな。大丈夫だろ、自分が気にするほど、他人はこっちのこと見てないものだし」

「そうやろけどさあ」

「お風呂入れてきた! 二十分くらいでお湯いっぱいになると思う! お兄ちゃん、覚えとって」

 当然のように命令され、壮悟の唇がへの字にゆがむ。

「自分で覚えとけや」

「ええやん。みんなで覚えといた方が確実やろ」

「二十分後だな」榛弥がうなずいて、手首につけていた腕時計を外してなにやらいじり、机の上に置いた。「アラーム設定しておいた」

「さっすが榛弥兄ちゃん」

 言いながら、美希は榛弥の頭越しにパソコンを覗きこむ。

 写真はすでにパソコンに取り込まれ、現在は撮影したそれを眺めているようだ。壮悟が榛弥の隣であぐらをかいていると、「あれ」と美希が目をまたたいた。

「榛弥兄ちゃん、えらい可愛らしいのつけとったんやね」

 美希がつんつんと指でつついたのは、榛弥の髪をまとめているゴムだ。どんなものをつけているのか気になって、壮悟もそこに目を向けた。

 一見するとただの黒いゴムだが、よく見ると小さな赤い玉が一つ付いている。ゴムもただの黒色ではなく、光が当たるとほのかに赤く輝いた。

「ああ、これか。茉莉がくれたんだよ」

「誕生日プレゼントかなんか?」

「そう。『ちょっとしたお洒落にもなるし、お守りにもなるから』と」

「へー、可愛かわええな。この赤いのなに? 石?」

「これは――」

 榛弥が答えかけた時だった。

 ぷつん、と部屋が急に暗くなる。エアコンも消え、明かりは榛弥のノートパソコンが発するそれだけになった。

「びゃー!」と可愛げのない悲鳴を上げたのは美希で、「停電か」と冷静に分析したのは榛弥だ。壮悟も初めこそ驚いたが、落ち着いてスマホを取り出し、ライトをつけた。

「なんで二人ともそんな落ち着いてんねん!」

「やかましいわ、お前の反応が大げさなんや! 静かにせぇ!」

「普通いきなりくらなったらびっくりするやん! 怖いもん見る前に怖い思いしたないわ!」

 恐らくあとでテレビを見ているときにも騒ぐのだろう。げんなりしながら、壮悟はカーテンを開けた。

「うちだけ……ってわけでもなさそうやな」

 外を見ると、他のコテージや街灯、本館も一様に真っ暗になっている。

 なにがあったのかフロント確認すべく、備え付けの電話を操作してみたが、繋がらない。停電しているのだから当然だった。

 部屋が夕食に行く前と同じ蒸し暑さを取り戻した頃、ようやく電気が復旧した。時間を確認すると、停電していたのは五分程度だ。

「なんやったんやろ」

「電気トラブルでもあったのかもな」

 間もなく電話が鳴った。びくりと肩を揺らす美希をしり目に受話器を取る。フロントからだろうと考えていたのだが、果たして予想は当たっていた。

「ハル兄、正解や。電気トラブルやったんやて。お怪我はありませんか、ご迷惑をおかけしましたて平謝りしとった」

「良かったわあ、停電したんがお風呂入っとる時やなくて」

「驚いて滑ってたら、それこそ怪我してたかもしれないしな」

「あ、ほんで『お部屋には懐中電灯がございますので、万が一また停電したらそれを使ってください』て言うとったわ」

 どこにあるのだろう、と視線を巡らせると、目当てのものは下駄箱の上にちょこんと乗っている。ちゃんと明かりが付くか確認してみて、念のため枕元に移動させておいた。

 ぴぴぴ、とアラーム音が響く。榛弥の腕時計だ。それを合図に、美希が寝巻を抱えて露天風呂に向かった。

「なあ。美希は明日、友だちと約束があるんだろ。何時に集まるとか聞いたのか?」

「特に聞いてへんな。そんな朝よからとは思わへんけど」

「祭りの受け付け開始は朝の九時からだったよな。となると、あいつには悪いが、僕らが出ていく時間に付き合ってもらうしかないか」

 ホテルでは自転車のレンタルも行っているとチェックインの時に説明を受けたし、壮悟は「それで友だちんとこ行ったらええやん」と提案したのだが、「キャリーバッグ持ってどうやって自転車こいで行くねん。アホか」と却下された。

「まあ文句は言わへんやろ。何時くらいに出てくん」

「神社からここまで四十分くらいだったよな……」

 だが美希を待ち合わせ場所まで送っていくことを考えると、時間に余裕を持った方がいいだろう。祭りの影響で道が混雑している可能性もなくはない。相談の結果、受け付け開始の一時間半前に出発することになった。

 美希が風呂から出てきた頃には、榛弥はすでに隣の部屋に戻っていた。ありがとう、と榛弥から預かっていた言葉を伝えると、なぜか美希は残念そうに肩を落とす。

「なんやねん」

「ゴムについとった赤いやつのこと、聞きそびれてしもたなーって」

「別にそれくらいやったら、明日聞いたらええやろ。急ぎの用ってわけやないんやし」

「まあそうなんやけど……あっ」

「今度はなんや」

「榛弥兄ちゃん、時計忘れてっとる」

 アラームを設定した時に外したまま、つけなおしていなかったようだ。わざわざ呼び出して取りに来させるより届けた方が早いが、美希は風呂に入ってしまったため嫌だという。となると、壮悟が行くしかない。

 壮悟が榛弥の部屋を訪ねると、従兄は缶ビールを片手に扉を開けた。そういえばコテージに戻ってくる前に、ホテルの売店で何本か買っていたな、と思い出す。

「夕飯の時にも飲んどらへんかった? 地酒の飲み比べセットみたいなやつ。どんだけ飲むねん」

「美味いんだからいいだろ。それで、なんの用だ」

「時計忘れてっとったから、持って来たったんや」

「ああ、どうりで手首が軽いと思った。悪いな」

 差し出された手のひらに腕時計を置いて、壮悟はふと脳裏によみがえったことを口に出した。

「そういえばさ、ホテルに来る途中でキャンプ場あったやん」

「あったな。それがどうした」

「子どもの頃に、俺んとこの家族とハル兄んとこの家族で、キャンプしたことあったなあって思い出して」

「父さんに付き合わされたあれか」

「そうそう。海の近くでテント張ったやつ」

 榛弥の父は根っからのアウトドア派で、特にキャンプを好んでいた。一度だけそれに誘われ、壮悟たち家族も同行したことがあったのだ。

 記憶はおぼろげだが、榛弥と水辺で遊んだことと、夜は空を眺めて流れ星を探したのを覚えている。懐かしいな、と壮悟が目を細める前で、榛弥は苦い表情で缶ビールを煽っていた。

「泳げもしないのに湖に入りたがるお前を止めるの、どれだけ大変だったと思ってる」

「悪かったな。今はちゃんと泳げ……ん? 湖? 海やなくて?」

「あの時行ったの、海じゃなくて湖だぞ。日本一広いあそこ」

「嘘やろ! 俺ずっと海や思ててんけど!」

「残念だったな。じゃあ僕は資料をまとめるから。腕時計ありがとう。おやすみ」

 ひらひらと手を振って、榛弥が扉を閉める。壮悟はしばらく己の記憶違いに衝撃を受けたまま、呆然とその場に立ちつくしていた。

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