一章――③
ざばざばと激しい水の音がする。近くに滝があるようだが、鬱蒼と茂る枝葉にさえぎられていて、はっきりとした姿は見えない。滝から続く川には降りられるようで、壮悟は足元の岩に気をつけながら、川べりにしゃがみこんだ。そっと水に手を差し入れれば、冷たく滑らかな流れが肌を撫でていった。
「気持ちええな」
水を払いながら立ち上がり、ぐるりと境内を見回す。
駐車場から橋を渡った先にあった〝
「なにやってるんだ」
川のそばの坂道から榛弥が下りてくる。道の先には拝殿があり、三人はすでに参拝を済ませていた。榛弥と美希の二人は「写真を撮るから」と上に残り、壮悟は滝の音が気になってふらついていたのだ。
「川がきれいやな思て、近くで見とった。小さい魚も泳いどる」
「今はそこに手水舎があるけど、昔は川を手洗い場にしていたのかも知れないな」
「神宮みたいに?」
「多分」
「ていうか、美希は?」
「まだ上」
どれだけ写真を撮るつもりなのだろう。境内はそこまで広くなく、すでに見物に飽きていた壮悟は、妹を呼びに拝殿へ向かった。
坂道は大小さまざまな石を詰めただけのもので、
「ここはあんまり観光地って感じと違うんやな。俺ら以外の人て、最初にすれ違た人しかおらへんかったし」
「ああ。地元の人間でもなさそうだった」
駐車場に一台だけ停まっていた車の持ち主だろう。美希が持っていたカメラよりも高そうなそれを首から下げ、会釈しながら去っていった。
「美希が持ってた旅行ガイドにここは載っていなかったし、知る人ぞ知る聖地みたいな感じなんだろう」
「『軽く寄ってみよか』ていうにはハードル高い気ぃするしな。近くに電車とかバスの駅あらへんだし、歩いて来るん大変そうや」
「だから言っただろ。『電車で行くにはちょっと不便だ』って」
電車の最寄り駅は昼食の時に立ち寄った観光センターの近くにあるらしいが、そこから徒歩で神社まで来るとなると、片道一時間半かかるそうだ。
カシャ、とシャッター音が聞こえる。顔を上げると、美希が壮悟たちにカメラを向けていた。
「いつまで撮ってんねん」
「資料は多い方がええかな思て。ねえ榛弥兄ちゃん、そこの百度石ってなに?」
美希は参道の近くにある膝丈ほどの石の柱に近づいた。八角形のそれには、側面部分に「百度石」と文字が彫られている。
「お百度参りの目印だな」
「……ってなに?」と壮悟と美希がそろって問う。
「字のままだ。神や仏に百回参拝するんだよ。例えば『有名な企業に就職したい』っていうお願い事があったとする。本来なら百日間毎日通って参拝して、それが叶うように祈るんだが。通勤通学の通り道とかならともかく、今日の僕たちみたいに旅行で立ち寄っただけだと、そうもいかないだろ」
「毎日通えるほど
「だろ。だから『じゃあ一日に百回お参りしよう』っていうのがお百度参り。入り口から拝殿まで何度も往復して、そのたびにお参りするんだ」
しかし何度も行ったり来たりをくり返していると、何回参拝したのか分からなくなりそうだ。壮悟が疑問を口にすると、榛弥は美希に百度石を撮影するよう指示しながら、説明を続けてくれた。
「だからこれがあるんだよ。石でもなんでもいいから百個用意しておいて、一回お参りするたびに、ここへ置いていく。そうすれば間違えないからな。ここのは違うみたいだけど、百度石によってはそろばんみたいなやつがついているやつもある」
「そんなんあるんやな……知らんかった」
「せっかくだから、百回参っていったらどうだ?」
「めんどくさいでええわ」
仮に始めたとしても、百回に到達する前に飽きてしまいそうだし、日も暮れそうだ。
もう少し写真を撮ったところで、美希もようやく満足したらしい。最後に拝殿へ「お邪魔しました」と意味を込めて参拝していると、不意に背後から足音がした。
三人そろって振り返ると、百度石の近くに女性が立っていた。
歳は二十代前半だろうか。豊かな黒髪は首の後ろで一つにくくられている。白い小袖に緋袴、足袋、草履といういで立ちから考えて、神社の関係者かもしれない。
女性は壮悟たちに「こんにちは」と微笑みを向けていた。
「観光客の方ですか?」
「ええ」と答えたのは榛弥だ。「ここで開催される祭りに興味があって、足を運んだんです」
「あら、そうだったんですね。でもお祭りは」
「明日、ですよね」
榛弥の言葉に、女性はこっくりとうなずいた。
「ご存知だったんですね」
「明日だと人が増えて、ゆっくり見て回れないかと思いまして」
「でしたら、正しい判断だと思います。当日はとても賑やかになりますから」
「祭りの準備はすでに終わっているんですか。前日なのに、ずいぶん静かですが」
そこは壮悟も気になっていたところだ。
祭りの前日ともなると、氏子たちがあれこれ忙しなく行きかっていると思っていたのだ。予想に反して、神社に来てから遭遇したのは女性を含めて二人だけだった。
「準備は午前のうちに済んだんです」
「どうりで。失礼ですが、あなたはここの関係者の方ですか」
「はい。責任者を務めております。お祭りに興味があると仰っていましたが、どのようなものかはご存知なんですか?」
「おおまかに言えば〝宝探し〟だと知人から」
女性は一瞬だけきょとんと目を丸くしていたが、すぐにくすくすと肩を揺らした。
「そう、ですね。厳密に言えば違いますが、過程は似たようなものですから」
「というと」
「よろしければ、こちらへどうぞ」
女性は参道を戻って行く。榛弥がその後ろをついていったため、壮悟と美希も後を追いかけた。
――女の人といい、ハル兄といい、なんであんなさくさく歩けんねん。
美希も苔に覆われた坂道が怖いらしい。壮悟の肩をつかみながら、おっかなびっくり下っている。皮膚に爪が食いこんで少々痛いのだが、振り払おうものなら二人とも滑りそうだ。我慢するしかない。
女性に案内されたのは、橋のそばにある石碑だった。表面には「如瑯神社」とだけ書かれていて、これといって気になる点はない。
「この石碑の裏側には、ある言葉が書かれているんです」
「言葉?」
なんだろう、と覗きこんでみるが、ぱっと見ただけでは、いまいちなにが書かれているか分からなかった。風化や雨の影響で字が黒ずんだり、削れてしまっているからだ。
「祭りの参加者には、この言葉の意味を解読していただくんです」
「へー、なんか暗号みたい」壮悟と同じように石碑を覗きこんで、美希が暢気に言う。「あ、もしかして、それ解いたらお宝がもらえるってことなんですか?」
「ええ。しかし貰えるのは形のあるものというより、称号といったほうが正しいかも知れません。碑文が示しているもの――分かりやすくお宝と言っておきましょうか――を見つけた初めの一人は、その年の〝花婿〟として祝福を受けるんです」
「……花婿? なんの?」
「ここでお祀りしている神さまの、です」
あちらをご覧ください、と女性は橋が架かっている川の上流を示す。
「この先には滝があるんですが、大昔、そこに神さまが降臨されたんです。村人たちは神さまにこの地をずっとお守りいただくため、村人の中から花婿を差し出すことを条件に、ご加護をお願いしたんです」
「つまりお祭りはその再現である、と」
榛弥は納得したようにうなずいているが、壮悟としてはよく分かっていない。あとで榛弥に詳しい説明を乞うほかなさそうだ。
祭りの成り立ちが関係して、〝宝探し〟に参加できるのは男性に限られるという。それも、希望者全員が参加できるわけではない。〝宝探し〟を行う直前にくじ引きが行われ、選ばれた八人だけが参加資格を得る、と女性は説明してくれた。
「一度参加したことのある者は、翌年以降も再度参加できるんですか」
「いいえ、一度きりです。碑文の答えを知ってしまっている可能性がありますから。また、知っていたとしても、それをまだ参加していない者に漏らすことはご法度です。祟りがあると信じられています」
「そういうの、よう聞くね」と美希がぽつりと呟いて、「定番やよな」と壮悟も同調する。祟りはどんなものが下るのか気になったが、壮悟が質問するより先に、榛弥が別の問いを女性に投げかけていた。
「〝宝探し〟に参加できるのは、地元の方だけですか」
「いいえ。他所から来られた方でも大丈夫です。希望されますか?」
「ええ、ぜひ。僕と、こいつも」
「えっ!」流れるように壮悟も指名されて、思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。「やりたいなんて、俺一回も言うてないやんか」
「せっかく来たんだから、参加しないと損だろ。まあくじ引きで選ばれるかどうか分からないが」
「あ、問題ありませんよ。他所から来られたからはくじ引きなしで、自動的に参加資格を得ますから」
「えっ、でも、それやと参加の枠が俺とハル兄で二つ埋まってまうんじゃ……」
「昔から決まっているんです。他所から来て参加を希望された場合は、そちらを優先すると。地元の者を気にされているなら、大丈夫です。一度しかここに来られないかもしれない他所の方と違って、ここに住む者でくじ引きに選ばれたことのない者なら、毎年参加資格を得る可能性があるんですから。ご遠慮なさらず」
そうは言われても、やはり申し訳なさが先に来る。腕を組んで悩んでいると、美希に肩を叩かれた。
「ええやん、出たら。思い出作りにもなるやろ?」
「……まあ……そうかも知れんけど……」
「あたしの代わりにお宝見つけて、どんなんやったか教えてな」
「結局それが目的なんかよ」
祭りの参加受け付けは、明日の朝九時から社務所で行われるという。お待ちしております、とお辞儀する女性と別れ、壮悟たちは車に戻った。
次の目的地は、今日から二泊するホテルだ。カーナビにホテルの名前を入力していると、助手席の美希が「うーん」と不思議そうな声を漏らす。膝の上にカメラを置き、撮った写真を確認していたようだ。
「どうしたん」
「んー、写真見とったら、なんやろ……なんか引っかかんねんな」
「なにが」
「分からへんから悩んでんねん」
美希からカメラを借りて、壮悟は画面に目を落とす。撮った順番に見ていったが、参道や手水舎、鳥居や拝殿、百度石のほかは、壮悟が手を浸けていた川など自然物が映っているだけで、特に気になることはない。
「なんもないやろ」
「えー、そう? なんか足りひん気ぃすんねんけど……」
「気のせい
「そうなんかなぁ……」
ここからホテルまでは四十分程度で着くようだ。またあの道を通るのか、と考えてため息をつきつつ、壮悟は車を出した。
後部座席の榛弥がなにやら呟いたのは、無事に細い道から脱出したころだった。
「なに? なんか言うた?」
「別に。『似てたな』って言っただけだ」
「? なにが?」
聞いてみても、榛弥から返事はない。ルームミラーで確認してみると、窓枠に肘をついて外を眺めたまま黙りこくっている。どうやら考え事モードに入ってしまったようだ。
ああなると、どれだけ話しかけても無視される。再びため息をついて、壮悟は運転に集中した。
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