一章――②
「ご注文をおうかがいいたします」
にこにこと笑みを浮かべる店員に、メニュー表を手にした美希が写真を指さしながら言う。
「地鶏のカレーセットを三つでお願いします!」
「かしこまりました。セットのドリンクはいかがなさいますか?」
「あたしはアイスティーにしよかな。榛弥兄ちゃんとお兄ちゃんは?」
「僕は緑茶。冷たいので」
「俺は、えーと」
そういえば考えていなかった。壮悟は右隣の美希からメニュー表を受け取り、オレンジジュースを指定する。かしこまりました、と店員が去ったあと、正面に座る榛弥が意外そうに目を丸くしているのが気になった。
「なんやねん」
「いや、オレンジジュースって意外だな、と思って」
「あたしも思たわ。お兄ちゃんて、あんまジュースとか頼んどるイメージ無いんやけど」
「コーヒーはさっき飲んだし、なんか甘くて冷たいの飲みたい気分やっただけや」
聞いてきたくせに大して興味はなかったらしい。榛弥から返ってきたのは「ふうん」とおざなりな反応だけだった。
なんやねん、と内心で再び思いつつ、壮悟は窓の外に目を向けた。
のどかな漁村が広がっている。空の青を受け止める海と、白波を引き連れて進んでいく漁船は、普段暮らしている範囲ではまず見ない。ここでは当たり前であろう光景も、壮悟にとっては新鮮そのものだ。
高速道路から降りて三十分ほど。空腹の限界を訴えた美希の希望で、壮悟たちは彼女が指定した建物に立ち寄っていた。
地域の観光センターで、美希が読みこんでいた旅行ガイドに記載されていた場所らしい。一階には伝統工芸品や、地元の名産品が並んだ売店があり、二階はレストランになっていた。
それにしても、ここに来たのは初めてのはずなのだが、妙な既視感が胸の中でうずまいている。しばらく悩んだすえ、ようやくひらめいた。
「あれや、ニュースのお天気カメラとかでよう見るんやわ」
「なにを?」
「そこの海。台風が来た時とか、このへんの海が映っとった気がする」
「言われてみれば、そうかもな」
「まだカレー
荷物はすべて壮悟の隣に置いてある。壮悟は黒いショルダーバッグを美希に渡し、彼女は弾んだ足取りでテラス席に出ていった。バッグから出てきたのは一眼レフカメラだ。
張り切って写真を撮る美希の背中を振り返り、榛弥が軽く首を傾げていた。
「ずいぶん高そうなカメラだな」
「高校の卒業と、専門の入学祝いや言うて、おとんとおかんに
「コスプレ?」
初めて聞いた、と言いたそうに榛弥が目をまたたいている。壮悟はスマホに一枚の写真を表示し、榛弥に差し出した。
「これ美希やで」
画面の中でポーズをとっているのは、笑顔がまぶしい白髪の少女だ。手には大ぶりかつ凶悪なナイフを手にし、夜闇の中で月明かりの逆光に照らされる姿は不気味でありながら美しい。スワイプすると、違うポーズと表情の写真が次々に表示される。
どれも被写体は美希だが、ぱっと見ただけではもはや誰だか分からない。それだけ完成度が高いのだ。壮悟も初めはそうだったのだから、榛弥も同じような状態だろう。いくつか写真を見ていたところで、景色を撮り終えた美希が戻ってきた。榛弥がじっとその顔を見る。
「なに、人のことそんなに見て」
「いや……服と化粧で、ずいぶん変わるんだなと思って」
「なんのこと?」
「お前のコスプレ写真、ハル兄に見せとったんや」
勝手に見せるな、と怒られるかと思ったが、意外にも美希は堂々と胸を張った。
「どれもええ感じに撮れとったやろ?」
「ああ。漫画のキャラクターかなにかだったのか」
「最近ハマったゲームに出てくる女の子。衣装も自分で作ってんねんで」
「お待たせしました。カレーセットのお客さま」
美希が席に着いたタイミングで、ちょうどよくカレーが運ばれてくる。トレイの上にはカレーとドリンクのほかに、レタスがたっぷり入ったサラダが置かれていた。
さっそくサラダを口に運んでみると、爽やかな酸味が広がった。メニューを見てみると、地元でとれた柑橘類を使用したドレッシングをかけていると記載があった。ご丁寧に「ドレッシングは一階売店で販売中!」とも書かれている。
カレーに使われている地鶏は、細かくミンチにされていた。反対にニンジンやジャガイモなどはゴロゴロと乱切りにされ、食感が楽しめる。辛さは程よい中辛で、舌の上がかすかに痺れた。
辛さが苦手な人へという配慮なのか、皿の端には温泉卵がちょこんと乗っている。黄身を潰して混ぜると、マイルドさが増して食べやすくなった。
「で、今から神社行くんやんな?」壮悟は口の中のカレーを飲みこんで、榛弥に問いかけた。「ここからどれくらいで着くん」
「さあ」
「分からへんのかよ」
「ひとまず一時間以内には着くんじゃないか。そこから下見にどれだけ時間が必要か分からないが、夕方までには終わると思う」
「ホテルにチェックインもせなあかんしね」
ちなみに「せっかく旅行するのに、榛弥兄ちゃんに任せたら適当なビジネスホテルとか泊まりそう」という理由で、ホテルを選んだのは美希だ。海の近くにあるホテルで、ここからあまり離れていないという。
「そうだ、美希。一つ頼みたいんだが」
「うん? なに?」
「神社に着いたら、そこの写真をいろいろ撮ってほしい。スマホで撮るつもりだったけど、ちゃんとしたカメラがあるならそれに越したことはないかな、と」
もちろん礼はする、と言われて、美希が「ほんならデザートおごって」とメニュー表を手に取る。指さしたのは、ドレッシングにも使われていた柑橘類のシャーベットで、榛弥は無言でうなずいていた。
「あ、でも、今日はええけど、明日は無理やで」
ふと思い出したように美希が唇を尖らせ、壮悟は訝し気に首を傾げた。
「なんでや。むしろ祭りの本番は明日やろ」
「こっちの方の友だちと遊ぶ約束してんねん。せっかくやし一緒に撮影しよーって話しとって」
「撮影って、コスプレの?」
「うん」
「あー、やからお前だけあんな荷物多かったんか」
壮悟はボストンバッグ一つ、榛弥はそれに加えて資料やノートパソコンを詰めたリュックを持参しているが、美希は一人でキャリーケースを二つ積みこんでいた。なにをそんなに持っていくのかと思っていたのだが、一つは旅行の着替えを詰めたもので、もう一つはコスプレ用の衣装が入っているのだろう。
夏休みは特に予定がないと言っていたはずだが、旅行が決まったあとに友人と話していて、今回の撮影会が決定したそうだ。そのため明日は、祭りの前後に待ち合わせ場所まで送迎してほしいという。
「面倒かもしれんけど、お願いするわ」
「ああ、構わないぞ」
「いやそれ、運転する俺の台詞やと思うんやけど」
まあええわ、と呟きながら、壮悟はカレーを口に運んだ。
目的の神社は山の中にあるらしい。住所をカーナビに入力したところ、到着までにかかる時間はニ十分程度と表示された。
観光センターの近くには世界遺産があるため、普段から旅行客が多いのだろう。民宿や飲食店をよく見かけたが、山に近づくにつれて建物の数が徐々に減っていく。民家同士の間隔もどんどん開き、最終的には一つも見かけなくなった。
道の勾配も厳しくなり、カーブも多い。ガードレールの向こうには川が流れ、うっかりスピードを出して転落しようものなら、最悪の場合は命を落とすことが容易に想像できた。安全運転を心がけていたが、より一層、ハンドルを切る手が慎重なものになる。
「なあ、ほんまにこんなとこに神社あるんか?」上り坂をひたすら進みつつ、壮悟は疑いの視線を榛弥に投げた。「見渡す限り山やねんけど。人とか車とかもすれ違わへんし」
「なんか、あれやね。ばあちゃん
ぽつりと呟いた美希に、壮悟は首を縦に振って同調した。
母方の実家は、こことよく似た山の中にある。しかしあそこに比べると、こちらの方がかなりひっそりとしているし、木々の密集度もはるかに高い。あまりの緑の多さに圧迫感さえ覚える。
しかしカーナビは変わらず山の中を示している。道は間違っていないようだ。このまま信じて突き進むしかない。
「えーっと、次はどこ曲がるんや」
「あれじゃないか? ほら、そこの丁字路」
「……え、これ?」
榛弥が示した先は、車がなんとか一台通れるくらいの幅しかない、細い道だった。相変わらず急な坂が続き、道の脇にはさらさらと川が流れている。
「ほんまにここ進むん?」
「じゃないと神社に着かないだろ」
「対向車来たらヤバそうなんやけど。道も細いし。川に落ちたらどうすんねん」
「落ちないように運転すればいいじゃないか」
「簡単に言うてくれんなあ!」
「がんばれー、お兄ちゃんなら行けるて」
「なんの根拠があって言うてんねん」
いつまでも文句を垂れていても仕方がない。覚悟を決め、壮悟はアクセルを踏み込んだ。
道の片側からは木々の枝がわずかに張り出しており、通り過ぎる際にぱちぱちと窓ガラスを叩く。車体が傷つかないように、と気をつけると、今度は川に落ちかねないギリギリを走ることになり、手が震えっぱなしだった。
幸い対向車や人が来ることもなく、二十メートルほど走ると、ようやく道が少し広がった。空を覆うように広がっていた木の枝も減り、それまで遮られていた日光があたりを明るく照らしている。
「あ、看板あった」
ほらあれ、と美希が前かがみになってなにかを指さした。
道の横の地面に、木で出来た看板が突き刺さっている。今にも崩れ落ちそうなそれには「この先 如瑯神社」と書かれていた。
「……なんて読むんや」
「なんやろ。一文字目は〝じょ〟やろか」
あれでもない、これでもないと悩む兄妹を見かねたのか、榛弥が深々とため息をつく。
「〝ジョロウ神社〟だ」
「へえ」と美希が感心したように相槌を打った。「あれでジョロウて読むんや」
「看板があるってことは、道は間違ってなかったってことだ」
そこから一分ほど進むと、目の前の空間が急に開ける。アスファルトは途絶え、砂利が敷き詰められた敷地が広がっていた。車が一台停まっているところを見るに、どうやらここが駐車場らしい。
「なんとか着いた……」
やっと気を抜ける。思わずハンドルに寄りかかりそうになりながら、壮悟は長々と息を吐いた。
「お疲れ、壮悟」
「あんな気ぃ張りながら運転したん初めてやわ……」
「もうこりごりとか言いたいのは分かるが、帰りも通るし、なんなら明日もここに来るんだぞ」
あえて考えないようにしていたことを言葉にされ、壮悟は車を停めてから、力いっぱい榛弥の頭を殴ってやった。
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